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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【駅から、ふらっと1時間】京阪・三条駅から東へ、三条通界隈を歩く(その1)

洛東




檀王と篠田屋


 鉄道ターミナルだった三条京阪 

 駅から、1時間ほどで愉しめるコースを紹介する<駅から、ふらっと1時間>。
 前回は、京阪・四条駅 ⇒ 三条駅 の見どころを取り上げました。

 今回は、そのつづきと言うべきでしょうか、京阪・三条駅から歩くコースです!

 京阪・三条駅
  京阪・三条駅

 京都では、京阪電車の三条駅あたりのことを「三条京阪」と言い習わしています。
 ちなみに、四条駅あたりは、もちろん「四条京阪」と言います。
 なぜだか分かりませんが「京阪三条」とか「京阪四条」とは言わないのですね。そう言えば、「四条河原町」とは言うけど「河原町四条」とは言わないとか、いろいろ言い癖があるものです。

 この三条京阪、かつては京阪電鉄(本線)の起終点でした。
 京阪は、大阪・淀屋橋駅と京都・三条駅を結んでいた鉄道でした。それが、京都方面を出町柳駅まで延伸し、あわせて七条ー出町柳間を地下線にしたのです。昭和64年(1989)のことで、鴨東線(おうとうせん)と称します。

 つまり、昔は四条や三条のあたりも、鴨川べりの地上を電車が走っていたわけで、なんとなくのどかな風景でした。学生の頃、先生らと一緒に、まだ地上を走っていた電車に乗って、京都国立博物館に行ったのを覚えています。

 そういうことで、三条駅も地上にありました。
 
 三条京阪
  かつて京阪・三条駅があった場所

 三条大橋の東詰、南側です。
 路線が敷かれていたところは川端通になり、ホームなどのあったスペースは、2017年3月現在、駐車場になっています(少し前まで「響宴」という飲食施設が建っていました)。

 当時、ここは本線のターミナルであると同時に、大津線の起終点でもありました。
 三条通を路面電車が東に向かって走っていたわけです。
 こちらも、現在では地下化され市営地下鉄となりました。
 
 
 三条大橋から歩く

 三条駅から地上に上がると、三条大橋を望むことができます。

 三条大橋
  三条大橋

 ここは東海道の起終点です。
 「都名所図会」(1780年)には、鴨川にダイナミックに架かる三条大橋を描いています。

 「都名所図会」より三条大橋
  「都名所図会」より「三条大橋」

 今日は、ここから歩き始めましょう!
 まず、ルートマップです。

 三条周辺行程図

 見づらくて、ごめんなさい。青い線がルートです。

 三条大橋(青丸)から、三条通を東(右)に進みます。東大路の手前で少し北上し、さらに仁王門通に出ると西へ。
 最後は、鴨川沿いの川端通を南下して、三条駅に戻って来るコースになっています。
 距離は、2km弱というところでしょう。

 スタート時、誰かと待ち合わせするなら、おなじみの高山彦九郎像の前で。

 高山彦九郎像

 江戸中期の尊皇家で、御所に向かって拝礼している姿です。
 そのため銅像は、北西を向いています。

 高山彦九郎像銘

 写真のように、徳富蘇峰も「高山彦九郎先生 皇居望拝之趾」と書いていますよね。お間違えのなきよう。


 お寺と食堂

 では、小旅行のスタートです。
 彦九郎像の前から、道路の向い側を見ると、目に飛び込んでくる2つのものがあります。

 それが、お寺と食堂です。

 だん王と篠田屋

 お寺は、檀王法林寺(だんのうほうりんじ)と言い、浄土宗の寺院です。通称「だんのうさん」。

 壇王法林寺

 そして、食堂は篠田屋。

 篠田屋

 篠田屋は、昔からここにあるように思います。「あるように」というのは、私たちも余り意識していなかったわけですが、最近はテレビに取り上げられたりして有名になりました。だから、近所でお仕事の方以外に、観光客も入っているようです。

 篠田屋

 実は、私は入ったことがないのですが(すみません)、BSの「ニッポン百年食堂」という番組などで見ましたね。
 京都によくある普通のうどん屋さん、という感じですが、看板には「中華そば、うどん、そば、皿盛」とあります。この皿盛が名物らしいですね。興味ある方は、ググってみてください(笑)
 観光の方でも入りやすいと思います。

 余談なのですが、京都では、うどん屋というのが昔はたいへん多くて(そば屋ではなく)、「大力餅食堂」とか「千成食堂」とか、力が付きそうな、景気がよさそうな名前だったものです。
 「大力餅」なんて名前から分かるように、餅を一緒に売っていたのですね。私事ですが、うちのジイサンは「弁慶」といううどん屋をやっていて、名前も力強いですが、昔は餅を置いていたようです。店内に、すでに使っていない餅つき機が鎮座していました。

 まぁ、こういうお店は、だいたい、うどんと丼を出すのが相場で、かつての昼食はそんなものだったわけです。


 ターミナルにある古寺

 西隣の檀王法林寺は、入口の高麗門をくぐっていくと、立派な楼門が聳えています。

 壇王法林寺

 この楼門には、四天王が祀られていて、少し珍しいですね。4面とも、のぞいて見比べてみてください。

 境内も意外に広いのですが、江戸時代には主夜神尊(しゅやじんそん)という神さまを祀っていました。もともとは夜の神さまなので、夜道を歩くとき盗賊に遭わないように守ってくれるとか、暗い海を航海するとき安全に進ませてくれるとか、そういうご利益があったようです。もっとも、江戸時代になると現世利益的なお願いも受け付けて? くれたのかも知れません。参詣者で、たいそうにぎわったようです。

  壇王法林寺 本堂前の灯籠

 本堂はふだんは閉まっていますが、お願いすると拝観させていただけます。
 私も昨年、予約して参拝しました。大勢でお詣りしたので、ご住職がお話をしてくださって、たいへん楽しかったです。「町寺」の面白さを感じてください、ということでしたね。

 最近では、招き猫でも有名です。

 壇王法林寺

 壇王法林寺

 本堂は、毎月1日にも開放されるということです。
 また、主夜神尊は、毎年12月第一土曜日の法要時に開扉されます。

 ということで、スタートした途端、篠田屋さんでゴハンを食べて、だん王さんで本堂参拝すると、1時間くらいすぐに経ってしまいそうです(汗)

 企画の趣旨に反しますので(笑)、先を急ぎましょう。


 (この項、つづく)





 檀王法林寺

 所在  京都市左京区川端通三条上る法林寺門前町
 拝観  境内自由(本堂参拝は毎月1日、または予約で、200円)
 交通  京阪電鉄「三条」下車、すぐ




 【参考文献】
 「都名所図会」1780年





まいまい京都で、粟田口を歩いてきました!

洛東




白川橋


 粟田口の光秀饅頭

 3月になり、少し暖かくなってきましたね。

 最初の土曜日、いつもお世話になっている<まいまい京都>さんの見学ツアーで、粟田口周辺を訪ねました。

 以前、1回やったことがあるのですが、行き逃した! という方も多いので、再度実施となりました。
 約20人の参加者と歩いたコースは、こんなふうです。

  地下鉄「東山」駅スタート
  白川橋
  明智光秀首塚
  植髪堂(青蓮院内)
  尊勝院
  粟田神社
  佛光寺本廟 


 だいたい三条通の1本南側あたりを歩く感じです。

 このあたりは、幕末の「花洛名勝図会」に詳しく描かれ、また「都名所図会」にも絵があります。現在の様子と名所図会を見比べながら、タイムトラベル気分を味わおうというツアーでした。

  明智光秀首塚 明智光秀首塚

 まず、明智光秀公の首塚にお参り。
 本能寺の変の後、無念の死を遂げた光秀公。いまでこそ織田信長が人気ですが、江戸時代には判官びいきの雰囲気もあって、光秀公は庶民の共感を集めていました。

 光秀饅頭 光秀饅頭

 首塚を護っておられる和菓子店・餅寅さんの「光秀饅頭」。
 家紋である桔梗の紋が焼印されています。
 あまりにおいしそうなので、その説明をする前に、即食べ! した方もいた ! !  餡ちがいの2色があります。


 不思議なシカ像

 そこからは、東へ。
 坂本龍馬とお龍さんが内祝言を挙げたという金蔵寺の跡(ここはかつて庚申堂として有名だった)を進みつつ、青蓮院の方へ。

 青蓮院の中には入らずに(ちょっとマニアックなツアーなもので…)、親鸞聖人の植髪堂をお参りします。
 お忙しい中、お寺の方が親切に解説してくださいました。

 そして。

 植髪堂 親鸞聖人遺髪塔

 昭和15年(1940)に建立された親鸞聖人の遺髪塔。その前に座っているシカ像についても、詳しく教えてもらいました。
 遺髪を収めた塔のところに、どこからかシカがやってきて、動こうとしなかったそうです。これは聖人に御縁のあることに違いない、ということで、シカは近所の京都市動物園に預け! 代わりに像を造ったと言います。不思議な話ですね。

 そのあとは、山を上って尊勝院へ。
 ホテルオークラ別邸粟田山荘の上にあります。

 ここは元三大師を祀った寺院で、加えてかつて下にあった庚申堂もお祀りされています。

 尊勝院

 御所周辺の市街地が一望。
 左大文字や船形も見えるし、いま話題の府立医大病院も見える! たいへん優れた眺望です。

 山を下りて、お隣の粟田神社へ。

 粟田神社

 ここのところ、女性の間では刀剣ブームで、今日も若い女性がたくさん参拝。朱印をもらっておられました。
 粟田口は、刀鍛冶が多かったところ。三条小鍛冶宗近ゆかりの場所でもあり、ここにも鍛冶神社が祀られていますし、向いには合槌稲荷神社もあります。

 私は、刀剣の方には不案内なので、もっぱらマニアックに石造物や奉納品を説明していきましたが……

 最後に、佛光寺本廟を訪ねて終了。

 2時間半のコースでしたが、参加者によると、わずか1,000歩くらいしか歩いていないとのこと。
 確かに、たくさん寺社はあるのですが、歩行距離にすると近いんですね。

 お天気にも恵まれ、参加者の方にも満足いただけた粟田口コース。
 みなさんも、歩いてみられてはいかがでしょうか。




 明智光秀首塚

 所在  京都市東山区三条白川下る梅宮町
 拝観  自由
 交通  地下鉄「東山」下車、徒歩約3分





こんな数え歌もあった - 梅棹さんに教わる京案内 -

京都本




戦前の二条城


 “丸竹夷” と お公家さんの数え歌

 この前、京都の街路名について書きました。

 京都の通りの名前というと、みなさん決まって “丸竹夷二押御池” という数え歌を思い出されるでしょう。

  丸 = 丸太町通
  竹 = 竹屋町通
  夷 = 夷川通
  二 = 二条通
  押 = 押小路通
  御池 = 御池通 ……

 といった具合です。

 こういった記憶のための数え歌は、昔はよく行われたものでした。
 このブログでも、以前、お公家さんの数え歌というのを紹介しています。

 それは、

 長風や芝園池に梅桜池尻交野妙法林丘
 
 萬里甘露櫛笥柳に園富小御下り御殿京極の宮

 一河や滋る中山藤波は御門を出でゝ樋口高倉


 とった超難解なもので、まぁ、詳しくは以前の記事をご参照ください。

  記事は、こちら! ⇒ <御所にもあった“お公家さん”的数え歌>

 何の歌かというと、お公家さんの邸の場所を覚える歌なのです。
 現在の京都御苑には、明治維新までは数多くの公家屋敷が立ち並んでいました。それを並んでいる順に歌ったのが、上の歌です。
 一般人には無用のものかも知れませんが、お公家さんにとっては必要不可欠な知識だったわけですね。


 ほかにもあった数え歌

 民族学者の梅棹忠夫(1920-2010)は京都の出身で、専門分野以外にも京都の本を出されています。
 その1冊が『梅棹忠夫の京都案内』。

  梅棹忠夫の京都案内 『梅棹忠夫の京都案内』角川ソフィア文庫 

 ここに、余り聞いたことがない数え歌が紹介されています。

  一条 戻橋
  二条 お城
  三条 みすや針
  四条 芝居
  五条 弁慶
  六条 坊んさん
  七条 停車場
  八条 すずや町
  九条 東寺  


 梅棹さんによると、通りと日本の歴史が結び付いていた京都では、「社会科」などというものがない時代、子供たちはこのような歌で歴史の勉強をしたというのです。

 「お城」(二条城)で大政奉還を学び、「坊んさん」で本願寺と真宗、親鸞聖人について知り、「東寺」で平安京と弘法大師について考える、といったことなのです。

 節をつけてうたいながら「お母ァはん、四条はなんで芝居や」ときけば、いまの南座から、中世の四条河原、阿国歌舞伎まで、場合によっては話がすすむ、という仕かけになっている。(149ページ) 

 例えば、三条の「みすや針」は今も残る老舗で、江戸時代にはみすや針と言えば知らぬもののない名物だったのです。
 丸竹夷とは少し違った歌なのですが、歴史のある京都らしい歌だとも言えるでしょう。

 梅棹さんは、これが変形したお手玉の数え歌も紹介しています。
 「ひとつ、ふたつ……」と数えているのですね。

  おしと
  おふた
  さんかん せいばつ
  よしのの さくら
  ごじょう べんけい
  ろくじょう ぼんさん
  ひっちょうの ていしゃば
  きっぷ かいまひょ
  なないろの とんがらし
  おかろ ございます
  おしと さくら さーくーらー 

 七色の唐辛子というのは、いうまでもなく、京名物のひとつ。清水坂に売っています。(150ページ)  


 「さんかん せいばつ(三韓征伐)」などというのは、時代です。
 それにしても、六条がやはり「坊んさん」なのは、それだけ東西本願寺の存在が大きかったからでしょう。

 七条を「ひっちょう」と言っているのは、古い発音。「ひちじょう」がさらに詰まった言い方です。
 京都では、「しち」は「ひち」になります。質屋の看板を「ひちや」と書くのは有名ですね(有名ですか?)

 梅棹さんは「このほか、ずいぶんたくさん京の唄があったのをおぼえています」と述べています。
 この本のページをめくっていくと、他にも歌が出て来ます。


 こんな意外な歌まで!

  一(いち)びりやがって
  二(に)くいやっちゃ
  三(し)ゃべりやがって
  四(し)りもせんと
  五(ご)てくさぬかすな
  六(ろく)でもないこと
  七(ひ)ねったろか
  八(は)ったろか
  九(く)そぼうず
  十(と)んでいけ  (189-190ページ) 


 これは、罵倒の数え歌! なんだそうです。
 
 口が悪い京都人らしい、というべきなのか?

 変な歌で締めくくりですが、昔の人は何でも歌で覚えた、というよい証しです。




 書 名  『梅棹忠夫の京都案内』
 著 者  梅棹忠夫
 刊行者  角川書店(角川ソフィア文庫)
 刊行年  2004年(原著1987年)



半世紀のうつろいを感じながら - 『カメラ京ある記』を読む(2)ー

京都本




青蓮院門跡


 粟田口の青蓮院

 前回紹介した『カメラ京ある記』。

 昭和30年代の京都風景をカメラで捉えたレポートです。
 朝日新聞京都支局編で、淡交新社から昭和34年(1959)と36年(1961)に正続で刊行されました。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正・続(淡交新社) 

 すでに半世紀余り前の書物です。
 その間に街や史跡も大きく変化しました。

 正編の29番目に「粟田口」という項があります。
 粟田口は、そうですね、平安神宮の南の方、と言えば分かりやすいでしょうか?

 かつては、三条大橋から始まる東海道の、京の町の出入口に当たるような場所でした。ゆるく長い坂道が続いており、沿道にあった料亭で歓迎や餞別の宴が開かれたのです。

 本書で取り上げるのは、青蓮院門跡。
 その冒頭。

 青蓮院 青蓮院

 夜、三条粟田口を青蓮院のほうに、ものすごいスピードで、スクーターがすっ飛んでいった。クスの木のこずえに、かん高い排気音だけが残っていた。
 ひっきりなしに通る車の流れ―。地べたに、食いつくようなうなりを立てる観光バス 乗用車のにぶい音、そんな流れを縫うようにして、アベックが、楽しげに語らいながら、ネオンの街へ下りていった。(64-65ページ) 


 『カメラ京ある記』の特徴は、新聞記者が書いたせいか、old & new というか、“古都” と “高度成長” する現代とを重ね合わせて捉えているところです。
 長屋門の前に、あの楠の大木がある門跡寺院を、スクーターの轟音から描き出すという離れ業です。

 でも、私には、この正直な書きっぷりが心地よく感じられます。

 青蓮院も、いつまでも格式張ってはいられなかった。代々、宮様が跡を継いでいた “門跡寺院” も、宮様が軍に籍を置かれるようになってからは、思うようにならなかったわけだ。
 とりわけ、戦後の荒れ方はひどく、一時は畳もスコップで捨てるまでにくさってしまった。
「一定のお客を引入れて接したい」と、五年ほど前観光寺院に踏み切った。昼と夜のひととき、お寺は観光客の応接にいとまがないくらいになった。
 今春、約五千平方メートルのバスプールも出来たおかげで、親鸞聖人の “植髪堂” は、その奥に押しやられてしまった。(65ページ) 


 江戸時代まで皇族方を受け入れてきた門跡寺院・青蓮院も、明治以降は皇族方が陸軍などの将校になられたため、経済的な後ろ盾を失った、と記しています。
 確かに、戦前の軍隊では「○○宮○○親王」が要職に就いているケースが多いですね。

 植髪堂
  植髪堂と駐車場  現在は舗装整備されている

 私が驚いたのは、植髪堂です。親鸞聖人の遺髪を祀るお堂です。
 この建物が、バス駐車場を作るため、「奥に押しやられてしまった」と書かれています!
 確かに、上の写真のように、寺内には広い駐車スペースがあり、その奥に植髪堂が建っています。

 植髪堂は、もとはウエスティン都ホテルの上あたりにあったはずですが、のちに三条神宮道に降りて来、最終的には青蓮院の寺内に落ち着きました。
 この記事を信じれば、昭和34年(1959)頃まで、もう少し道路寄りに建っていたことになります。

 記事では、この近くに住んだ陶芸家・楠部彌弌(くすべやいち)の「どこでもそうだが、観光観光と、すべてが、見るものから、見せられる風景に変っていくのですよ」という言葉を紹介しています。

 一般人とは無縁であった門跡寺院が、戦後「観光寺院」に転換したというところに、時代の変転を感じさせられます。


 尺貫法かメートル法か?

 東山七条の三十三間堂を取り上げたページでは、こんな逸話を紹介します。

  京都へ修学旅行に来た東京の女子高校生から、三十三間堂の寺務所へ抗議のハガキがとどいた。
「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さるはずなのに、あなたのところの案内係は、“お堂の長さが南北に六十四間五尺、奥行が九間三尺……” と説明も昔風の尺貫法でした。いまはメートル法になったことをご存じないのでしょうか」 きついおしかりだった。

 まさに一撃をくらった参拝部長、ご本山の妙法院へ出かけて、三崎門跡におうかがいを立ててみた。ところが、三十三間堂はお堂の長さが百二十メートル、奥行きが十七メートル、柱と柱の間が三・五メートルでは、どうしても実感が出てこない、ということになった。
 さてはいっそのこと「三十三間堂」の呼び名もメートル法に改めるかということで論議の花が咲いたということだ。(44ページ) 


 三十三間堂


 どこまでが本当で、どこからが誇張なのか? ちょっと掴みかねる話ではあります。

 女子高生が「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さる」などと発言することが、むしろ驚きです。そして、やっぱりメートル法は感じが出ないなぁ、と首をひねるお坊さんたちも昔気質ですね。

 ちょうどこの頃、三十三間堂でも東大門と回廊の建設工事をしていて、“観光化”していたのでしょう。お坊さんに「参拝部長」という肩書があることにも驚かされます。
 本書には、多い日には9,000人から1万人の「観光客」が押し寄せると記しています。

 社寺への観光的な参拝は昔からあったわけですが、戦後の昭和30年代に激しく進んだことがよく分かります。


 銅像も再建されて

 「三条大橋」の項目には、その交通の激しさ、路上での諸商売のありさまを語ったあと、このようなことに触れています。

 橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があった。戦時中に供出されたが、近ごろ建て直そうという話がある。市長は「建てるなら美術品としても鑑賞にたえられるものを」と注文をつけた。いつ建てるのか、その後音さたがないそうだが……。ご時勢というものだろう。(25ページ)

 本書が刊行された2年後の昭和36年(1961)、高山彦九郎像は再建されました。

 高山彦九郎像 高山彦九郎像

 「その後音さたがない」「ご時勢というものだろう」と書いた記者は、戦後の民主化が進む中で、かつての尊皇家の像が復活するとは考えなかったのでしょう。
 世の中は、いつも意想外のことが起きるものです。

 この三条大橋界隈、改めて少し歩いてみたい気がしますね。
  



 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年




50年前の京都の街は…… 『カメラ京ある記』を読む

京都本




木屋町


 朝日新聞のカメラルポ

 前回、『新編 随筆京都』という半世紀前に出版されたエッセイ集を読んでみました。

 今日は、同じ頃に刊行された写真ルポのページをめくってみましょう。
 タイトルは『カメラ京ある記』。そして『跡 続・カメラ京ある記』です。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正続(淡交新社) 

 朝日新聞京都支局編とあって、もとは同紙の京都版に連載されたものと言います。
 正編100、続編98の項目があり、著名人へのアンケートをもとに立項したそうなのですが、メインの写真や記事は支局員によるものです。
 記者とカメラマンが現場に行って写真を撮ったり、記事を書いたりしたわけで、「たのしい仕事だった」と木村庸太郎支局長のあとがきに記してあります。確かに、街を歩いて話を聞き、撮影するのは、とても楽しいですよね。よく分かります。

 刊行された時期は、正編が昭和34年(1959)、続編が2年後の昭和36年(1961)。
 前回の『新編 随筆京都』と同時代で、ようやく戦後復興も成り、京都の街にも賑わいが戻って来た頃だったのでしょう。


 変わる先斗町 

 私は年明けから、ふらっと木屋町、先斗町界隈を歩いて、ここにも少し道案内を書きました。
 それで関心もそちらに向き、『カメラ京ある記』にも、どう書かれているか気になります。

 正編の12番目に「先斗町」があります。

 先斗町(ポントちょう)は夜の町だ。昼間はどこか白白しいが、日が暮れると、町全体が夜のよそおいをこらして活気づく。(30ページ) 

 傘を差してすれ違えないほど狭い通りで、そこで傘を傾けながら芸妓さんと行き合うのも、このあたりの風情だと記します。

 ここでもやはり触れられるのは、街の変化。

 昭和の初めごろには、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。
 先斗町お茶屋組合長の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。


 祇園が保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆に取り入れると記者は言います。
 毎年5月に先斗町歌舞練場で行われる鴨川をどりに、「パリのマロニエ」云々といった歌も飛び出すあたりが、ここらしいと指摘します。

  先斗町 先斗町

 この記事で目を引くのは、昭和の初めには150軒あったお茶屋が、約30年後の当時は半減している、ということです。
 京都市街のほとんどは戦災を免れていて、先斗町もそうですが、やはり終戦後の荒波で持ちこたえられないお茶屋も多かったのでしょうか。

 ちょっと軒数を調べようと思い探っていると、興味深い論文に行き当りました。
 松井大輔・岡井有佳「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」というものです。
 この論文のテーマ設定は、意外ですが大変重要なものです。ただ、本題から外れるので、興味のある方は原著を読んでみてください。実際、昨年(2016年)も、先斗町の飲食店で火災が起きたのは記憶に新しいところです。
 
 論文によると、明治43年(1910)にはお茶屋は152軒あり、ピーク時の昭和初期には172軒(昭和5年=1930)まで増加しています。
 戦時下の昭和10年代も、140軒以上あります。

 戦中戦後のデータのない時期を経て、昭和28年(1953)になると、82軒に激減しています。
 先斗町は通りの両側にお茶屋が並んでいるのですが、戦前は西側に多かったのです。ところが、戦後は西側のお茶屋が数多く廃業しています。
 論文では、その理由を「第二次世界大戦中に地区中央部の一帯が建物疎開によって空地化し、当地にあったお茶屋が廃業したためと考えられる」としています。現在、先斗町を歩くと、ほぼ中程に公園(東)と駐輪場(西)がありますが、ここが建物疎開した場所です。
 それだけの理由ではないかも知れませんが、戦争を挟んで約60軒減少したわけです。

 その後、昭和30年代はおよそ70軒、40年代はおよそ60軒のお茶屋がありました。
 昭和60年代から平成の初めにかけては、40軒ほど。現在の平成20年代になると20軒余りまで減っています。2013年の時点では、26軒ということです。
 
 『カメラ京ある記』が出された頃は、まだ70数軒のお茶屋があり、飲食店はお茶屋の数よりも少なく、花街らしい風情が残っていたことが分かります。


 かつての木屋町は 

 木屋町もまた、昭和30年代は現在とは違った様相を呈していました。

  木屋町 木屋町

 木屋町を幾重にも切る細い路地には、色とりどりのネオンとバーの看板が、ひしめき合っている。五条署の話によると、このかいわいで、バー、キャバレーのたぐいは五百軒に近い。しかも年に百軒もふえているそうだ。(32ページ) 

 このバー、キャバレーの数500軒というのが、多いのか少ないのかよく分かりません。ただ、当時の京都としては随一の飲み屋街だったということでしょう。
 
 続編には、もう少し突っ込んで書いています。

 明治以前の木屋町通には川ぞいに材木置き場や薪炭納屋が並んでいた。三条小橋から四条小橋までの間にある西木屋町筋にも、材木がたくさん立てかけられ、先斗町の陰に隠れたさびれた町筋だったという。
 ところがここ数年のうちに、このあたりのネオンの数が木屋町通でいちばん多くなった。五条署の調べだと、去る三十四年末、五百四十九軒だった酒場の数が一年たらずに五百八十軒にふえている。(続編、185ページ) 


 昭和35年(1960)頃、木屋町界隈に580軒もの酒場があったと言います。
 この急増ぶりは、地元以外の資本も入って来た結果のようです。

 経営者は地の人ばかりではなく、関東弁でサービスする女給さんの数も多い。古い京都を知っている人たちは、この変わりっぷりを “ニューキョートの誕生” という言葉で表現する。
 過去の存在を無視し、京都的なものを否定した新しい場所が、とつぜん生まれたわけだ。


 正編には、ここらのキャバレーやバーには美人がいて、客をちやほやするものだから、男の方も「オレはもてたんだ、などと勘ちがいするものも現われる」と書いています。微笑ましいと言うべきでしょうか。

  看板


 閑古鳥のなく寺、流行る寺

 私が、この本の中で驚いたのは、「東福寺」のページでした。
 そこには、次のように記されています。

「きょうもまたカンコ鳥どすなあ…」 拝観料をとるおばあさんがぼやいていた。観光シーズンのさなかだというのに、名所通天橋の紅葉もやがて散ってしまおうというのに、広大な寺域はひっそり閑。
 都心の近くにありながら平日の観光客は四十人程度、京洛五山の一つに数えられる東福寺は、いまや観光から全く置き忘れられたかたちだ。
「珍しく観光バスが入って来たと思うたら、お客が公衆便所を使うとさっさと回れ右しはるのどすぇ」 おばあさんはお寺の宣伝不足を口惜がる。(127ページ)  


 紅葉のシーズン、平日の入山者がたったの40人とは…… いまの東福寺では考えられません。
 もっとも、いまでもオフシーズンは割りと静かで(私はそれが好きなのですが)、落ち着いたお寺なのが東福寺。それでも、40人とはケタが違うでしょう。

 通天橋
  賑わう現代の東福寺・通天橋

 この記事を読んで、私が感じたもうひとつのこと、それは昔の記者は自由に書くなぁ、ということでした。
 たった40人しか来ておらず、それを受付のおばあさんが嘆いている――いまだったら、いろいろ配慮してこういう記事は書けないのではないでしょうか。

 そう思ってページを繰っていくと、こんな記述もありました。

 昭和二十五年七月二日未明、北山鹿苑寺の舎利殿金閣は、その美しさに魅せられた一仏教学生の手で焼き払われた。
 (中略)
 “昭和の金閣” はその後五年、二千八百万円でまばゆく再建された。三万人もの拝観客が毎日のようにぞろぞろと列をつくって、金閣ブームをあおったのもそのころである。
 (中略)
 たそがれの鏡湖池は美しい。昔は金閣も池の中に浮かんでいたものだ。対岸は紅葉山という。もみじは少なくなったがここから優雅な金閣へのカメラアングルは見事だ。
 写真を撮りたいと案内人に申し出ると、お供えをと金千円ナリの撮影料を請求されて、とたんに幻想の夢はやぶれる。金閣の再建費などとっくに回収しただろうに-。一億円ほどたまれば金閣会館をたて室町文化の資料室や図書館なども作って社会事業に還元するそうだが… (85ページ)   


 歯に衣着せぬという感じで、ガンガン書きますねぇ。
 これも時代でしょうか。

 古い本を繙くと、いろんな意味で勉強になります。




 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年



 【参考文献】
 松井大輔ほか「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」(「歴史都市防災論文集」vol.8、2014年)