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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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半世紀のうつろいを感じながら - 『カメラ京ある記』を読む(2)ー

京都本




青蓮院門跡


 粟田口の青蓮院

 前回紹介した『カメラ京ある記』。

 昭和30年代の京都風景をカメラで捉えたレポートです。
 朝日新聞京都支局編で、淡交新社から昭和34年(1959)と36年(1961)に正続で刊行されました。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正・続(淡交新社) 

 すでに半世紀余り前の書物です。
 その間に街や史跡も大きく変化しました。

 正編の29番目に「粟田口」という項があります。
 粟田口は、そうですね、平安神宮の南の方、と言えば分かりやすいでしょうか?

 かつては、三条大橋から始まる東海道の、京の町の出入口に当たるような場所でした。ゆるく長い坂道が続いており、沿道にあった料亭で歓迎や餞別の宴が開かれたのです。

 本書で取り上げるのは、青蓮院門跡。
 その冒頭。

 青蓮院 青蓮院

 夜、三条粟田口を青蓮院のほうに、ものすごいスピードで、スクーターがすっ飛んでいった。クスの木のこずえに、かん高い排気音だけが残っていた。
 ひっきりなしに通る車の流れ―。地べたに、食いつくようなうなりを立てる観光バス 乗用車のにぶい音、そんな流れを縫うようにして、アベックが、楽しげに語らいながら、ネオンの街へ下りていった。(64-65ページ) 


 『カメラ京ある記』の特徴は、新聞記者が書いたせいか、old & new というか、“古都” と “高度成長” する現代とを重ね合わせて捉えているところです。
 長屋門の前に、あの楠の大木がある門跡寺院を、スクーターの轟音から描き出すという離れ業です。

 でも、私には、この正直な書きっぷりが心地よく感じられます。

 青蓮院も、いつまでも格式張ってはいられなかった。代々、宮様が跡を継いでいた “門跡寺院” も、宮様が軍に籍を置かれるようになってからは、思うようにならなかったわけだ。
 とりわけ、戦後の荒れ方はひどく、一時は畳もスコップで捨てるまでにくさってしまった。
「一定のお客を引入れて接したい」と、五年ほど前観光寺院に踏み切った。昼と夜のひととき、お寺は観光客の応接にいとまがないくらいになった。
 今春、約五千平方メートルのバスプールも出来たおかげで、親鸞聖人の “植髪堂” は、その奥に押しやられてしまった。(65ページ) 


 江戸時代まで皇族方を受け入れてきた門跡寺院・青蓮院も、明治以降は皇族方が陸軍などの将校になられたため、経済的な後ろ盾を失った、と記しています。
 確かに、戦前の軍隊では「○○宮○○親王」が要職に就いているケースが多いですね。

 植髪堂
  植髪堂と駐車場  現在は舗装整備されている

 私が驚いたのは、植髪堂です。親鸞聖人の遺髪を祀るお堂です。
 この建物が、バス駐車場を作るため、「奥に押しやられてしまった」と書かれています!
 確かに、上の写真のように、寺内には広い駐車スペースがあり、その奥に植髪堂が建っています。

 植髪堂は、もとはウエスティン都ホテルの上あたりにあったはずですが、のちに三条神宮道に降りて来、最終的には青蓮院の寺内に落ち着きました。
 この記事を信じれば、昭和34年(1959)頃まで、もう少し道路寄りに建っていたことになります。

 記事では、この近くに住んだ陶芸家・楠部彌弌(くすべやいち)の「どこでもそうだが、観光観光と、すべてが、見るものから、見せられる風景に変っていくのですよ」という言葉を紹介しています。

 一般人とは無縁であった門跡寺院が、戦後「観光寺院」に転換したというところに、時代の変転を感じさせられます。


 尺貫法かメートル法か?

 東山七条の三十三間堂を取り上げたページでは、こんな逸話を紹介します。

  京都へ修学旅行に来た東京の女子高校生から、三十三間堂の寺務所へ抗議のハガキがとどいた。
「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さるはずなのに、あなたのところの案内係は、“お堂の長さが南北に六十四間五尺、奥行が九間三尺……” と説明も昔風の尺貫法でした。いまはメートル法になったことをご存じないのでしょうか」 きついおしかりだった。

 まさに一撃をくらった参拝部長、ご本山の妙法院へ出かけて、三崎門跡におうかがいを立ててみた。ところが、三十三間堂はお堂の長さが百二十メートル、奥行きが十七メートル、柱と柱の間が三・五メートルでは、どうしても実感が出てこない、ということになった。
 さてはいっそのこと「三十三間堂」の呼び名もメートル法に改めるかということで論議の花が咲いたということだ。(44ページ) 


 三十三間堂


 どこまでが本当で、どこからが誇張なのか? ちょっと掴みかねる話ではあります。

 女子高生が「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さる」などと発言することが、むしろ驚きです。そして、やっぱりメートル法は感じが出ないなぁ、と首をひねるお坊さんたちも昔気質ですね。

 ちょうどこの頃、三十三間堂でも東大門と回廊の建設工事をしていて、“観光化”していたのでしょう。お坊さんに「参拝部長」という肩書があることにも驚かされます。
 本書には、多い日には9,000人から1万人の「観光客」が押し寄せると記しています。

 社寺への観光的な参拝は昔からあったわけですが、戦後の昭和30年代に激しく進んだことがよく分かります。


 銅像も再建されて

 「三条大橋」の項目には、その交通の激しさ、路上での諸商売のありさまを語ったあと、このようなことに触れています。

 橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があった。戦時中に供出されたが、近ごろ建て直そうという話がある。市長は「建てるなら美術品としても鑑賞にたえられるものを」と注文をつけた。いつ建てるのか、その後音さたがないそうだが……。ご時勢というものだろう。(25ページ)

 本書が刊行された2年後の昭和36年(1961)、高山彦九郎像は再建されました。

 高山彦九郎像 高山彦九郎像

 「その後音さたがない」「ご時勢というものだろう」と書いた記者は、戦後の民主化が進む中で、かつての尊皇家の像が復活するとは考えなかったのでしょう。
 世の中は、いつも意想外のことが起きるものです。

 この三条大橋界隈、改めて少し歩いてみたい気がしますね。
  



 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年




50年前の京都の街は…… 『カメラ京ある記』を読む

京都本




木屋町


 朝日新聞のカメラルポ

 前回、『新編 随筆京都』という半世紀前に出版されたエッセイ集を読んでみました。

 今日は、同じ頃に刊行された写真ルポのページをめくってみましょう。
 タイトルは『カメラ京ある記』。そして『跡 続・カメラ京ある記』です。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正続(淡交新社) 

 朝日新聞京都支局編とあって、もとは同紙の京都版に連載されたものと言います。
 正編100、続編98の項目があり、著名人へのアンケートをもとに立項したそうなのですが、メインの写真や記事は支局員によるものです。
 記者とカメラマンが現場に行って写真を撮ったり、記事を書いたりしたわけで、「たのしい仕事だった」と木村庸太郎支局長のあとがきに記してあります。確かに、街を歩いて話を聞き、撮影するのは、とても楽しいですよね。よく分かります。

 刊行された時期は、正編が昭和34年(1959)、続編が2年後の昭和36年(1961)。
 前回の『新編 随筆京都』と同時代で、ようやく戦後復興も成り、京都の街にも賑わいが戻って来た頃だったのでしょう。


 変わる先斗町 

 私は年明けから、ふらっと木屋町、先斗町界隈を歩いて、ここにも少し道案内を書きました。
 それで関心もそちらに向き、『カメラ京ある記』にも、どう書かれているか気になります。

 正編の12番目に「先斗町」があります。

 先斗町(ポントちょう)は夜の町だ。昼間はどこか白白しいが、日が暮れると、町全体が夜のよそおいをこらして活気づく。(30ページ) 

 傘を差してすれ違えないほど狭い通りで、そこで傘を傾けながら芸妓さんと行き合うのも、このあたりの風情だと記します。

 ここでもやはり触れられるのは、街の変化。

 昭和の初めごろには、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。
 先斗町お茶屋組合長の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。


 祇園が保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆に取り入れると記者は言います。
 毎年5月に先斗町歌舞練場で行われる鴨川をどりに、「パリのマロニエ」云々といった歌も飛び出すあたりが、ここらしいと指摘します。

  先斗町 先斗町

 この記事で目を引くのは、昭和の初めには150軒あったお茶屋が、約30年後の当時は半減している、ということです。
 京都市街のほとんどは戦災を免れていて、先斗町もそうですが、やはり終戦後の荒波で持ちこたえられないお茶屋も多かったのでしょうか。

 ちょっと軒数を調べようと思い探っていると、興味深い論文に行き当りました。
 松井大輔・岡井有佳「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」というものです。
 この論文のテーマ設定は、意外ですが大変重要なものです。ただ、本題から外れるので、興味のある方は原著を読んでみてください。実際、昨年(2016年)も、先斗町の飲食店で火災が起きたのは記憶に新しいところです。
 
 論文によると、明治43年(1910)にはお茶屋は152軒あり、ピーク時の昭和初期には172軒(昭和5年=1930)まで増加しています。
 戦時下の昭和10年代も、140軒以上あります。

 戦中戦後のデータのない時期を経て、昭和28年(1953)になると、82軒に激減しています。
 先斗町は通りの両側にお茶屋が並んでいるのですが、戦前は西側に多かったのです。ところが、戦後は西側のお茶屋が数多く廃業しています。
 論文では、その理由を「第二次世界大戦中に地区中央部の一帯が建物疎開によって空地化し、当地にあったお茶屋が廃業したためと考えられる」としています。現在、先斗町を歩くと、ほぼ中程に公園(東)と駐輪場(西)がありますが、ここが建物疎開した場所です。
 それだけの理由ではないかも知れませんが、戦争を挟んで約60軒減少したわけです。

 その後、昭和30年代はおよそ70軒、40年代はおよそ60軒のお茶屋がありました。
 昭和60年代から平成の初めにかけては、40軒ほど。現在の平成20年代になると20軒余りまで減っています。2013年の時点では、26軒ということです。
 
 『カメラ京ある記』が出された頃は、まだ70数軒のお茶屋があり、飲食店はお茶屋の数よりも少なく、花街らしい風情が残っていたことが分かります。


 かつての木屋町は 

 木屋町もまた、昭和30年代は現在とは違った様相を呈していました。

  木屋町 木屋町

 木屋町を幾重にも切る細い路地には、色とりどりのネオンとバーの看板が、ひしめき合っている。五条署の話によると、このかいわいで、バー、キャバレーのたぐいは五百軒に近い。しかも年に百軒もふえているそうだ。(32ページ) 

 このバー、キャバレーの数500軒というのが、多いのか少ないのかよく分かりません。ただ、当時の京都としては随一の飲み屋街だったということでしょう。
 
 続編には、もう少し突っ込んで書いています。

 明治以前の木屋町通には川ぞいに材木置き場や薪炭納屋が並んでいた。三条小橋から四条小橋までの間にある西木屋町筋にも、材木がたくさん立てかけられ、先斗町の陰に隠れたさびれた町筋だったという。
 ところがここ数年のうちに、このあたりのネオンの数が木屋町通でいちばん多くなった。五条署の調べだと、去る三十四年末、五百四十九軒だった酒場の数が一年たらずに五百八十軒にふえている。(続編、185ページ) 


 昭和35年(1960)頃、木屋町界隈に580軒もの酒場があったと言います。
 この急増ぶりは、地元以外の資本も入って来た結果のようです。

 経営者は地の人ばかりではなく、関東弁でサービスする女給さんの数も多い。古い京都を知っている人たちは、この変わりっぷりを “ニューキョートの誕生” という言葉で表現する。
 過去の存在を無視し、京都的なものを否定した新しい場所が、とつぜん生まれたわけだ。


 正編には、ここらのキャバレーやバーには美人がいて、客をちやほやするものだから、男の方も「オレはもてたんだ、などと勘ちがいするものも現われる」と書いています。微笑ましいと言うべきでしょうか。

  看板


 閑古鳥のなく寺、流行る寺

 私が、この本の中で驚いたのは、「東福寺」のページでした。
 そこには、次のように記されています。

「きょうもまたカンコ鳥どすなあ…」 拝観料をとるおばあさんがぼやいていた。観光シーズンのさなかだというのに、名所通天橋の紅葉もやがて散ってしまおうというのに、広大な寺域はひっそり閑。
 都心の近くにありながら平日の観光客は四十人程度、京洛五山の一つに数えられる東福寺は、いまや観光から全く置き忘れられたかたちだ。
「珍しく観光バスが入って来たと思うたら、お客が公衆便所を使うとさっさと回れ右しはるのどすぇ」 おばあさんはお寺の宣伝不足を口惜がる。(127ページ)  


 紅葉のシーズン、平日の入山者がたったの40人とは…… いまの東福寺では考えられません。
 もっとも、いまでもオフシーズンは割りと静かで(私はそれが好きなのですが)、落ち着いたお寺なのが東福寺。それでも、40人とはケタが違うでしょう。

 通天橋
  賑わう現代の東福寺・通天橋

 この記事を読んで、私が感じたもうひとつのこと、それは昔の記者は自由に書くなぁ、ということでした。
 たった40人しか来ておらず、それを受付のおばあさんが嘆いている――いまだったら、いろいろ配慮してこういう記事は書けないのではないでしょうか。

 そう思ってページを繰っていくと、こんな記述もありました。

 昭和二十五年七月二日未明、北山鹿苑寺の舎利殿金閣は、その美しさに魅せられた一仏教学生の手で焼き払われた。
 (中略)
 “昭和の金閣” はその後五年、二千八百万円でまばゆく再建された。三万人もの拝観客が毎日のようにぞろぞろと列をつくって、金閣ブームをあおったのもそのころである。
 (中略)
 たそがれの鏡湖池は美しい。昔は金閣も池の中に浮かんでいたものだ。対岸は紅葉山という。もみじは少なくなったがここから優雅な金閣へのカメラアングルは見事だ。
 写真を撮りたいと案内人に申し出ると、お供えをと金千円ナリの撮影料を請求されて、とたんに幻想の夢はやぶれる。金閣の再建費などとっくに回収しただろうに-。一億円ほどたまれば金閣会館をたて室町文化の資料室や図書館なども作って社会事業に還元するそうだが… (85ページ)   


 歯に衣着せぬという感じで、ガンガン書きますねぇ。
 これも時代でしょうか。

 古い本を繙くと、いろんな意味で勉強になります。




 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年



 【参考文献】
 松井大輔ほか「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」(「歴史都市防災論文集」vol.8、2014年)



川勝政太郎「京都の街路の名」を読んで

京都本




通り名


 昔の随筆を読む

 いきなり脱線めきますが、最近 “ポスト・トゥルース” とか “フェイク・ニュース” というのが流行っていますよね。流行りというのは変ですけれども。
 自分の見解を述べる際には、客観的事実に基づいて発言するのは当然のこと。ところが、なかなかそうじゃないケースが多い昨今です。
 
 それとはまたずれるのですが、若い学生たちを見ていると、何かを調べるときに、だいたい今現在の参考文献を読んでくるわけですね。最たるものはインターネット情報ですし、書物でも2000年代になってからのものが多い。そんな傾向です。

 それとは逆に、私が薦めるのは、できるだけ古い参考文献を読もう、ということ。
 例えば、そのテーマについて、戦前の学者はどういうことを言っているのか、さらにさかのぼって明治時代はどうっだったのか、など。
 何も、最新の研究だけが優れているのではありません。その時代時代でさまざまな調査・研究がなされており、それを参照することはとても有意義なことです。

 特に、時代によって人が関心を持っていることは相当異なります。
 なので、違った時代の文献を読むと、自分が思いもよらない指摘に出会えることも多いのです。

 ということで、京都の話でも折にふれて古い書物を繙きます。
 今日は、昭和35年(1960)に出された『新編 随筆京都』を開いてみました。
 「新編」というタイトルの通り、『随筆京都』は戦前に出ているのですが、これはその戦後版というところ。京都本の老舗・白川書院から刊行されました。いまから半世紀以上前、私などの生まれる前の随筆集です。
 カバーに「日本の一流文人による文学的京都案内記」と宣伝文句があるところなど、時代を感じさせます。


 場所の示し方

  新編随筆京都 『新編 随筆京都』白川書院

 ここに、川勝政太郎氏の「京都の街路の名」というエッセイが載せられています。
 川勝政太郎と言えば、京都で著名な古美術研究家で、石造美術の研究などで知られています。

 この随筆は、こんな一節から始まります。

 京都の地理に不案内な人から「大宮へ行きたいのですが、どう行けばよいのですか」と言う風な質問を受けることがある。大宮と言えば或る地点を指すものだと思つているらしい。「大宮のどこへ行きたいのですか」と問い返すと相手は変な顔をする。大宮というのは京都の北から南へ貫通している街路の名だから、それだけでは目的地がはつきりしないのだと説明しなければならない。(88ページ) 
 
 こう述べて、京都では例えば「大宮三条」というふうに、南北の街路と東西の街路の交差点を指すことで地名を示すのだ、と言っています。

 このことは今日では京都以外の方にもよく知られていることでしょう。
 川勝氏によると、こういう表現は意外に古くて、すでに「平安時代の中頃、即ち藤原道長などが現われた頃」になると、高倉とか室町、油小路といった現在でも用いる街路名が登場し、タテヨコの路名の交差点によって地点を示す方法も起ってきたらしい、と言います。例えば、「大宮与三条」というふうな表現です。「与」は「と」ですから、“大宮と三条” という言い方です。案外古いのだなぁ、と思わせます。

 御幸町通


 通り名の覚え歌

 京都市内の地理を知るには従つて数多い縦横の街路を暗記する必要がある。何通の東が何通と言うことを覚えなければ、それこそ足も出せないことになる。以前、地方から京都の商店へ謂(い)わゆる丁稚奉公に来た少年が先(ま)ず課せられたことは、この街路名を覚えることであつた。(90ページ)

 これは大事な指摘なのです。
 私は、大阪でも同じことを聞いたことがあります。

 京都や大阪は、地方から奉公に上がる子供たちが多かったわけですが、彼らは、番頭さんなどから「どこそこまで、これ届けて来て」などと言い付けられたのです。
 地図など使わない頃、その場所は「○○町だ」と表現していたのでは、市街全部の町名を暗記しなければ用が足せません。
 このとき、例えば「その店は、四条室町や」というふうに言うと、四条通と室町通の交点へ行けばよいのです。実に合理的な指し示し方なのですが、通り名だけは最低限覚えなくてはなりません。

 京都も大阪も、市街地の街路には全て名前が付いています。こういうことは世界的にも珍しいのだと何かの本に書いてありましたが、本当かどうか、よく分かりません。
 いずれにせよ、京都の街路には、便宜のために通り名が付いています。
 そして、それを覚えるための歌が存在したのです(ちなみに、大阪にも同様の歌がありました)。

 [縦街] 丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条。
 [横街] 寺御幸麩屋富柳場、高間ノ東ガ車屋町、烏両替室町ヤ、衣新釜西小川。

 これだけで北は丸太町から南は五条まで、東は寺町から西は小川までが記憶される。又この域内が明治頃までの京都の重要な地域であつたことがわかる。(90ページ) 


 そう、よく知られているこの歌は「京都の重要な地域」も示しているのですね。

 通り名マップ


 地名の読みぐせ

 そのあと、川勝氏は、これらの通り名には読みぐせがあると言い、親切にすべての通り名の読み方を掲出しています。
 これを読むと、随筆が書かれた半世紀前と今日とでも若干の変化があることに気付きます。

 まず、「姉小路」。
 これは「あねこうじ」ではなくて、「あねやこうじ」と「や」を入れて読んでいます。
 ところが、随筆では「あねがこうじ」と「が」になっていて、「俗に「あねやこうじ」」と書かれています。50年前は、少しばかり古風に「あねがこうじ」と言っていたわけです。

 次に、「松原」です。
 これは「まつばら」じゃないの、と思います。
 でも、川勝氏は「まつわら」と書いています。
 「まつわら」かぁ…… そう言っていたんですね。

 その南の「万寿寺」も、「まんじゅじ」ではなくて「まんじゅうじ」だとしています。
 これはたぶん(ちょっとずれますが)、伏見区の「中書島」を「ちゅうしょじま」ではなく「ちゅうしょうじま」という類ですね。この方が言いやすいわけです。

 続いて縦の通り。
 「御幸町」は、「ごこまち」で、「幸」を「こう」と言わないのですね。これは現在でもこうなっています。

 烏丸通の1本西にある「両替町」。
 これは「りょうがいまち」と、「りょうがい」と読むのが習慣だそうです。

 そして、「室町」。
 これはもちろん「むろまち」でよいのですが、「古い習慣では「もろまち」と言う」とされています。「もろまち」ですか。

 あとは、「釜座」が「かまんざ」とか、「小川」が「こがわ」だとかいうことで、後者は今では「おがわ」と言っているのでしょうか。

 こう見てくると、微妙な部分とは言え、現在とはいろいろ変わっていることが分かります。
 こんなことも、些細なことに思えますが、地元の人にとっては大事なことでしょう。
 いまの本だけ読んでいるとなかなかわからないことばかり。やはり、たまには古い本を読んでみるものですね。




 書 名  『新編 随筆京都』
 編 者  臼井喜之介
 刊行者  白川書院
 刊行年  昭和35年(1960)



「おことば」から読み解く天皇陛下のこころ - 退位をめぐる議論を理解する一助として・その2 -

京都本




  天皇陛下の本心 山本雅人『天皇陛下の本心』新潮新書


 「おことば」とは

 天皇陛下の退位を考える有識者会議も、年内(2016年)の会合は終了。いま、ちらほら上がって来た声が、天皇誕生日にどんな「おことば」があるのか、という関心です。

 この「おことば」というもの、ちょっと変わった言い方という気がします。
 振り返ってみると、明治憲法のもとでは、天皇のことばは「勅語」(ちょくご)と呼ばれていました。戦後、新憲法になって、この勅語が「おことば」に取って代わったのです。

 「デジタル大辞泉」は、「御言葉」について、

 勅語に代わる用語。
 国会開会の勅語が「お言葉」となったのは、昭和28年(1953)5月の第16回国会から。「おことば」と仮名書きになったのは昭和35年(1960)10月の第36回国会から。


 とまとめています。
 昭和天皇の時代から、すでにおことばという表現になっていたわけです。

 大辞泉では国会開会のおことばについて説明していますが、一般には、式典や記者会見など公の場でなされる発言をおことばと称しているようです。


 天皇陛下の「おことば」を読む

 今上天皇の「おことば」を丹念に読み解いた本が、山本雅人氏の『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』(新潮新書)です。

 山本氏は、前回紹介した『天皇陛下の全仕事』(講談社学術文庫)の著者で、宮内庁記者も務めた新聞記者です。

 『天皇陛下の本心』は、副題にあるように、約25万字分にのぼる「おことば」を通覧し、12章にわたってテーマごとにまとめたものです。

 山本氏によると、天皇陛下が築いてきた象徴天皇像は、2つの側面から捉えられると言います。

 ひとつは、ご行為。
 これは、「さまざまな公務や出席の行事、それらにおける陛下のご行動そのもの」ということです。
 
 いまひとつが、おことばです。
 「行為の前提となる陛下の考え方を示す」ものと言えます。

 このおことばを読むと、「陛下の人となりがかなり分かる」と、氏は述べます。
 
 しかし実はさまざまな事象について、ときに驚くほど率直に、ときにドキッとするほど鋭く、そしてある時は胸を打つようなおことばを述べられている。そこから、陛下のご本心も、「平成」の本質もつかむことができる。(6ページ)
 
 このような意図をもって、陛下のおことばが読み解かれます。


 率直なことば

 みなさんも経験があると思いますが、自分の考えを他人に伝える際、相手の気分を害しないようしながら、ズバリと本質を伝えることは、たいへん難しいことです。
 会議などでも、まわりに気を遣いつつ、自分の意見を述べることは、なかなか難題です。

 天皇陛下ともなると、ひとつひとつの発言がマスコミで報道され、全国民に知らされるということで、発言に際しては相当な配慮と熟考がなされていることでしょう。
 けれども、本書を読むと、天皇陛下が意外に率直に語られていることに気付きます。

 例えば、琵琶湖の外来魚に懸念を示した発言です。

 外来魚やカワウの異常繁殖などにより、琵琶湖の漁獲量は大きく減ってきています。外来魚の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています。(平成19(2007)年11月11日、「全国豊かな海づくり大会」での「おことば」)

 三大行幸のひとつ、全国豊かな海づくり大会でのおことばです。
 琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルなど外来魚の増加が深刻な問題です。そのうち、ブルーギルを日本に初めて持ち込んだのが陛下自身であったことを述懐されています。
 天皇陛下の責任というわけではないと思いますが、そのことに心痛を覚えるという発言です。
 あえて言う必要もないと思われるのですが、それを述べられるところに率直な人柄が表れていると感じられます。


 仕事の工夫

 さまざまな行事の内容についても、平成流で変更が加えられています。
 例えば、お茶会の持ち方です。

 学士院賞や芸術院賞受賞者を招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者・新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。(平成21(2009)年4月8日、ご結婚50年会見)

 さまざまな催しで、出席した方みんなと話をできるように腐心されているそうです。
 この場合も、昭和天皇の時代は長テーブルに座る形式であったため、端に座った人たちは話づらい配席でした。
 陛下は、いくつかの丸テーブルに数名ずつが座る形に変え、両陛下がテーブルを回って、みんなと言葉を交わせるようなレイアウトに変更されたと言います。

 ひとつひとつの仕事をゆるがせにされない姿勢が、よく表れている例だと思います。


 災害と戦争と
 
 16年前までは、1年を除き毎年100人以上の死者が自然災害によって起こりました。近年の自然災害による死者の減少は、長年にわたり治山治水に携わった人々、気象情報を正確に早く伝えようとしている人々などさまざまな関係者の努力の結果であり、心強く思っております。(平成14(2002)年12月19日、69歳のお誕生日会見)

 山本氏は、短い期間で交代する首相などの政治家と異なり、長いスパンで国内の出来事を見ている点に天皇陛下ならではの特質をみています。

 地域的にも、都市部など特定の地域に偏らず、離島も含めた国内の隅々まで広い関心を示されています。

 戦争については、絶えることなく考えておられる問題です。

 私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第1次世界大戦のヴェルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。(平成21(2009)年11月6日、ご即位20年会見)

 自身は小学校6年生の時に終戦を迎えられましたが、父である昭和天皇の戦争への対峙の仕方も常に意識されているようです。

 このような戦争への発言は、本書刊行後の戦後70年に至るまで、なお強まっているように思えます。
 2015年8月15日の全国戦没者追悼式のおことばで、「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と、「深い反省」と述べられたことは陛下自身の省察を物語っているのでしょう。

 戦争で苦労した人たちを等しく見詰めていこうという姿勢にも、強いものがあります。
 皇太子時代に、こんな発言をされています。

 私なんかどうしても腑に落ちないのは、広島の時はテレビ中継がありますね(筆者補足・原爆が投下された日に現地で行われる平和記念式典)。それに合わせて黙禱するわけですが、長崎は中継ないんですね。やはり同じような被害を受けたわけだから、当然同じに扱われるべきものなんじゃないかと思うんですけれども。それから沖縄戦も県では慰霊祭を行っていますが、それの実況中継はありませんね。(中略)どういうわけですかね。(昭和56(1981)8月7日、夏の定例会見)

 皇太子時代とは言え、かなり踏み込んだ表明のように思えます。
 なかなかこういう点は意識しづらいし、発言する人も少ないのではないでしょうか。


 国民との信頼関係

 侍従を務められた渡邉允(まこと)氏も述べられていましたが、天皇陛下は皇室と国民との信頼関係の醸成に意を注いで来られました。折に触れ、記者の質問に対してそのことを語っておられます。

 私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は国民と苦楽をともにすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが皇室のあり方として望ましいということであり、また、このあり方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。(平成17(2005)年12月19日、72歳のお誕生日会見)

 「このあり方が皇室の伝統」と言われているのは、明治、大正、昭和と、戦前の天皇の位置付けが特殊なものだった、という意味合いです。
 もちろん、このような「伝統」が、現代ともマッチすると考えておられるのでしょう。

 NHKが今上天皇即位20年に際して行った世論調査によると、皇室に対して親しみを感じている国民は62%です。
 また、即位から20年で、皇室との距離が近くなったと感じている国民が62%で、変らない、遠くなったと感じる人の36%を上回っています。
 そして、34%の国民が、距離を縮めるためには、天皇自身の考えや思いをもっと積極的に伝えるべきだ、と回答しています。
 これは想像ですが、天皇陛下はこのような調査結果も十分に踏まえ、ご自身のことばを述べておられるのではないでしょうか。

 天皇陛下のおことばは、書籍としても刊行されていますし、宮内庁のウェブサイトでも読むことができます。
 『天皇陛下の本心』は、その膨大な発言を読み込んで、分かりやすく示した本として、得難い案内書となるでしょう。
 最終章「次世代への継承」には、公務軽減や「定年制」など、今回の「生前退位」に関連する発言も収録されています。




 書 名 『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』
 著 者  山本雅人
 刊行者  新潮社(新潮新書595)
 刊行年  2014年



 【参考文献】
 加藤元宣「平成の皇室観」(「放送研究と調査」2010年2月号所収、NHK放送文化研究所)


天皇陛下の日常を知る本 - 退位をめぐる議論を理解する一助として ー

京都本




  天皇陛下の全仕事 山本雅人『天皇陛下の全仕事』講談社現代新書


 2016年の大きな論題のひとつ「生前退位」 

 今年も、あと僅か。
 さまざまなニュースが駆け巡った1年でした。

 海外では、米・トランプ新大統領の誕生、英国のEU離脱、韓国・朴大統領弾劾、国内でも、熊本地震、舛添→小池の東京都問題、自公参院選勝利、オバマ大統領広島訪問、スポーツでは、リオ五輪、カープ優勝、そして、SMAP解散からピコ太郎まで。内外とも盛りだくさんでした。

 そんな中で、私が重く受け止めたのが、天皇陛下の「退位」の意向表明です。
 退位の意向を受けて、政府で有識者会議が設置されました。今日(12月14日)、年内最後の会合が開かれて、恒久的な制度で退位を定めるのではなく、特例として検討していくという方向性が見えて来たようです。

 この有識者会議の正式名称は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」と言います。
 天皇陛下は高齢ですが、公務が多すぎて負担が大きいから、それを軽くするためにどういう方法を取るのか、ということです。

 私は、この7月、天皇陛下の「生前退位」(聞き慣れない、かつ生々しい言葉で「譲位」ではだめなのかなと思いました)がスクープ報道され、それに続いて8月8日にご自身のビデオメッセージ(「お気持ち」)がテレビ中継されました。私も、リアルタイムで見ました。
 そこで語られたメッセージの内容には、うなずける面も多いなと思いました。やはり、天皇の職務を自ら行ってきた人でなければ述べられないような内容であると感じました。

 それにしても、私はこれまで、天皇陛下の日常についてさしたる関心を抱いていませんでした。
 それで少し反省して、お盆前後に、4、5冊ですが今回の問題を考えるための本を読んでみたのでした。


 “全仕事” を通覧

 天皇陛下の公務について、真正面から扱った書物があります。
 山本雅人氏の『天皇陛下の全仕事』(講談社現代新書)です。

 山本氏は新聞記者で、宮内庁担当をしていたこともあります。
 2009年の刊行ですので、特に今回の問題をうけて著されたものではありません。
 新書ですが、360ページに及ぶ大著で、タイトル通り、23章にわたって天皇陛下の仕事を網羅的に紹介しています。類書のない労作です。

 ひと口に、天皇陛下の「仕事」といっても、その性質はそれぞれに異なります。
 本書では、その仕事を大きく3つに分類しています。

 1つめは、国事行為。これは憲法に定められた仕事で、首相の任命、国会の召集、栄典の授与など、13の行為があります。

 2つめが、公的行為。明文規定はありませんが、天皇の「象徴」という地位に基づき、公的な立場で行われるものです。外国訪問、地方訪問、一般参賀、歌会始、園遊会、宮中晩餐会などがあります。
 地方訪問のうち、毎年行われれる国民体育大会(国体)、全国植樹祭、豊かな海づくり大会は、三大行幸啓と称されるそうです。

 3つめは、その他の行為(私的行為)です。この中でも、やや公的性格がある福祉施設訪問などと、まったく私的な宮中祭祀や、コンサート、展覧会、大相撲などの鑑賞、観戦、専門のハゼの研究、趣味のテニスなどが、これに当たります。
 私的な行為の中で、最も天皇らしいものが宮中祭祀(皇室祭祀)でしょう。
 正月の歳旦祭(1月1日)から始まって、昭和天皇祭(1月7日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、新嘗祭(11月23日)など、たくさんの祭祀が執行されます。

 これらのうち、国事行為は定められているものですから、激増激減しないものでしょうけれど、そのボリュームはかなりあるようです。
 例えば、毎週火曜と金曜には、書類の決裁を行っているそうです。署名したり押印したりするわけですが、内閣からの上奏書類を数えると年間1,000件以上に上ると言います。
 山本氏がまとめた天皇陛下の仕事の「性質別の内訳」を見ても、最も多いのは「人と会う」53%ですが、次に多いのが「事務処理」14%なのです。別の分け方である「行事別の内訳」でも、「執務」14%がトップとなっています。
 ちなみに「(外国賓客など)会見・引見」は7%、「祭祀」は5%、報道等で目立って見える「記念式典」などは僅か3%に過ぎません。意外な事実と言えるでしょう。

 “負担軽減” という意味で問題となるのが、公的行為です。これは何をやるかやらないかという定めがないので、増やそうと思えば増えていきます。つまり、負担増になるわけです。
 陛下は、地震などの際に被災地訪問を積極的に行われています。これは公的行為に当たるもので、憲法に定められた国事行為ではありません。まさに、お気持ちから発する「平成流」の仕事なのです。
 また、太平洋戦争の激戦地(沖縄、サイパンなど)への追悼・慰霊の訪問も、ここに分類されます。昨年(2015年)のパラオやペリリューへの旅もこれに当たります。

 『天皇陛下の全仕事』には、細々としたルーティーン的な仕事や毎年行われる催しから、外国訪問のような大きな行事まで、委細漏らさず記しています。
 天皇陛下の負担軽減を考える際、基本的文献となる良書と言えるでしょう。


 側近のみた天皇陛下

  天皇家の執事 渡邉允『天皇家の執事』文春文庫

 併せて読むと理解が深まる本が、渡邉允(まこと)氏の『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文春文庫)です。
 渡邉氏は、1996年から10年半にわたり侍従長を務めて来た方です。

 本書も、陛下の仕事を種類別に分けて章ごとに語っています。

 印象的なのは、第6章のタイトル「人々に「心を寄せる」ということ」です。
 ここでは、福祉施設への訪問や災害のお見舞いなどについて取り上げ、天皇皇后両陛下の思いに触れています。
 天皇の最も重要な仕事のひとつに祭祀があり、それは「祈り」という行為です。一方、直に国民と触れ合って、言葉を交わす部分に、この「心を寄せる」という態度があるのでしょう。
 皇太子時代、そして平成になってからも、積極的に進められてきた部分だと思います。これが公的行為を拡大されていると捉えることもできます。

 また、渡邉氏は、傍でつぶさに見詰めてきた方だけあって、さまざまな逸話が紹介されています。

 例えば、沖縄に関する陛下の思いを述べた章では、琉歌についての話が印象的です。
 琉歌とは、八・八・八・六調の沖縄の短歌です。昭和40年代に外間守善氏の進講を受け、昭和50年(1975)、初の沖縄訪問のあと、2首の琉歌を詠まれたそうです。
 自身で「おもろそうし」所載の1,200首の中から抜き書きを作り、琉歌を学ばれたと言います。
  
 沖縄海洋博(1976年)の際、次の琉歌を作られました。

  広がる畑立ちゆる城山肝のしのばらぬ戦世の事
 (フィルガユルハタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌクトゥ)

 このようなエピソードは、一般にはなかなか伝わって来ないものです。
 渡邉氏は、国民と天皇陛下(皇室)との間には、信頼関係が醸成されていると考えています。そして、それは国民のために尽すという陛下の思いに基づいた公務によって実現してきたと考えられているようです。
 
 公務軽減は、すでに渡邉氏の在任中から課題となっていました。しかし、その公務が国民との関係を支えているとすれば、容易に軽減するというわけにもいかない、ということなのでしょうか。


(この項、つづく)




 書 名 『天皇陛下の全仕事』
 著 者  山本雅人
 刊行者  講談社(講談社現代新書1977)
 刊行年  2009年

 書 名 『天皇家の執事 侍従長の十年半』
 著 者  渡邉允
 刊行者  文藝春秋(文春文庫)
 刊行年  原著 2009年(文庫版 2011年)