03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

「おことば」から読み解く天皇陛下のこころ - 退位をめぐる議論を理解する一助として・その2 -

京都本




  天皇陛下の本心 山本雅人『天皇陛下の本心』新潮新書


 「おことば」とは

 天皇陛下の退位を考える有識者会議も、年内(2016年)の会合は終了。いま、ちらほら上がって来た声が、天皇誕生日にどんな「おことば」があるのか、という関心です。

 この「おことば」というもの、ちょっと変わった言い方という気がします。
 振り返ってみると、明治憲法のもとでは、天皇のことばは「勅語」(ちょくご)と呼ばれていました。戦後、新憲法になって、この勅語が「おことば」に取って代わったのです。

 「デジタル大辞泉」は、「御言葉」について、

 勅語に代わる用語。
 国会開会の勅語が「お言葉」となったのは、昭和28年(1953)5月の第16回国会から。「おことば」と仮名書きになったのは昭和35年(1960)10月の第36回国会から。


 とまとめています。
 昭和天皇の時代から、すでにおことばという表現になっていたわけです。

 大辞泉では国会開会のおことばについて説明していますが、一般には、式典や記者会見など公の場でなされる発言をおことばと称しているようです。


 天皇陛下の「おことば」を読む

 今上天皇の「おことば」を丹念に読み解いた本が、山本雅人氏の『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』(新潮新書)です。

 山本氏は、前回紹介した『天皇陛下の全仕事』(講談社学術文庫)の著者で、宮内庁記者も務めた新聞記者です。

 『天皇陛下の本心』は、副題にあるように、約25万字分にのぼる「おことば」を通覧し、12章にわたってテーマごとにまとめたものです。

 山本氏によると、天皇陛下が築いてきた象徴天皇像は、2つの側面から捉えられると言います。

 ひとつは、ご行為。
 これは、「さまざまな公務や出席の行事、それらにおける陛下のご行動そのもの」ということです。
 
 いまひとつが、おことばです。
 「行為の前提となる陛下の考え方を示す」ものと言えます。

 このおことばを読むと、「陛下の人となりがかなり分かる」と、氏は述べます。
 
 しかし実はさまざまな事象について、ときに驚くほど率直に、ときにドキッとするほど鋭く、そしてある時は胸を打つようなおことばを述べられている。そこから、陛下のご本心も、「平成」の本質もつかむことができる。(6ページ)
 
 このような意図をもって、陛下のおことばが読み解かれます。


 率直なことば

 みなさんも経験があると思いますが、自分の考えを他人に伝える際、相手の気分を害しないようしながら、ズバリと本質を伝えることは、たいへん難しいことです。
 会議などでも、まわりに気を遣いつつ、自分の意見を述べることは、なかなか難題です。

 天皇陛下ともなると、ひとつひとつの発言がマスコミで報道され、全国民に知らされるということで、発言に際しては相当な配慮と熟考がなされていることでしょう。
 けれども、本書を読むと、天皇陛下が意外に率直に語られていることに気付きます。

 例えば、琵琶湖の外来魚に懸念を示した発言です。

 外来魚やカワウの異常繁殖などにより、琵琶湖の漁獲量は大きく減ってきています。外来魚の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています。(平成19(2007)年11月11日、「全国豊かな海づくり大会」での「おことば」)

 三大行幸のひとつ、全国豊かな海づくり大会でのおことばです。
 琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルなど外来魚の増加が深刻な問題です。そのうち、ブルーギルを日本に初めて持ち込んだのが陛下自身であったことを述懐されています。
 天皇陛下の責任というわけではないと思いますが、そのことに心痛を覚えるという発言です。
 あえて言う必要もないと思われるのですが、それを述べられるところに率直な人柄が表れていると感じられます。


 仕事の工夫

 さまざまな行事の内容についても、平成流で変更が加えられています。
 例えば、お茶会の持ち方です。

 学士院賞や芸術院賞受賞者を招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者・新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。(平成21(2009)年4月8日、ご結婚50年会見)

 さまざまな催しで、出席した方みんなと話をできるように腐心されているそうです。
 この場合も、昭和天皇の時代は長テーブルに座る形式であったため、端に座った人たちは話づらい配席でした。
 陛下は、いくつかの丸テーブルに数名ずつが座る形に変え、両陛下がテーブルを回って、みんなと言葉を交わせるようなレイアウトに変更されたと言います。

 ひとつひとつの仕事をゆるがせにされない姿勢が、よく表れている例だと思います。


 災害と戦争と
 
 16年前までは、1年を除き毎年100人以上の死者が自然災害によって起こりました。近年の自然災害による死者の減少は、長年にわたり治山治水に携わった人々、気象情報を正確に早く伝えようとしている人々などさまざまな関係者の努力の結果であり、心強く思っております。(平成14(2002)年12月19日、69歳のお誕生日会見)

 山本氏は、短い期間で交代する首相などの政治家と異なり、長いスパンで国内の出来事を見ている点に天皇陛下ならではの特質をみています。

 地域的にも、都市部など特定の地域に偏らず、離島も含めた国内の隅々まで広い関心を示されています。

 戦争については、絶えることなく考えておられる問題です。

 私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第1次世界大戦のヴェルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。(平成21(2009)年11月6日、ご即位20年会見)

 自身は小学校6年生の時に終戦を迎えられましたが、父である昭和天皇の戦争への対峙の仕方も常に意識されているようです。

 このような戦争への発言は、本書刊行後の戦後70年に至るまで、なお強まっているように思えます。
 2015年8月15日の全国戦没者追悼式のおことばで、「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と、「深い反省」と述べられたことは陛下自身の省察を物語っているのでしょう。

 戦争で苦労した人たちを等しく見詰めていこうという姿勢にも、強いものがあります。
 皇太子時代に、こんな発言をされています。

 私なんかどうしても腑に落ちないのは、広島の時はテレビ中継がありますね(筆者補足・原爆が投下された日に現地で行われる平和記念式典)。それに合わせて黙禱するわけですが、長崎は中継ないんですね。やはり同じような被害を受けたわけだから、当然同じに扱われるべきものなんじゃないかと思うんですけれども。それから沖縄戦も県では慰霊祭を行っていますが、それの実況中継はありませんね。(中略)どういうわけですかね。(昭和56(1981)8月7日、夏の定例会見)

 皇太子時代とは言え、かなり踏み込んだ表明のように思えます。
 なかなかこういう点は意識しづらいし、発言する人も少ないのではないでしょうか。


 国民との信頼関係

 侍従を務められた渡邉允(まこと)氏も述べられていましたが、天皇陛下は皇室と国民との信頼関係の醸成に意を注いで来られました。折に触れ、記者の質問に対してそのことを語っておられます。

 私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は国民と苦楽をともにすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが皇室のあり方として望ましいということであり、また、このあり方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。(平成17(2005)年12月19日、72歳のお誕生日会見)

 「このあり方が皇室の伝統」と言われているのは、明治、大正、昭和と、戦前の天皇の位置付けが特殊なものだった、という意味合いです。
 もちろん、このような「伝統」が、現代ともマッチすると考えておられるのでしょう。

 NHKが今上天皇即位20年に際して行った世論調査によると、皇室に対して親しみを感じている国民は62%です。
 また、即位から20年で、皇室との距離が近くなったと感じている国民が62%で、変らない、遠くなったと感じる人の36%を上回っています。
 そして、34%の国民が、距離を縮めるためには、天皇自身の考えや思いをもっと積極的に伝えるべきだ、と回答しています。
 これは想像ですが、天皇陛下はこのような調査結果も十分に踏まえ、ご自身のことばを述べておられるのではないでしょうか。

 天皇陛下のおことばは、書籍としても刊行されていますし、宮内庁のウェブサイトでも読むことができます。
 『天皇陛下の本心』は、その膨大な発言を読み込んで、分かりやすく示した本として、得難い案内書となるでしょう。
 最終章「次世代への継承」には、公務軽減や「定年制」など、今回の「生前退位」に関連する発言も収録されています。




 書 名 『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』
 著 者  山本雅人
 刊行者  新潮社(新潮新書595)
 刊行年  2014年



 【参考文献】
 加藤元宣「平成の皇室観」(「放送研究と調査」2010年2月号所収、NHK放送文化研究所)


天皇陛下の日常を知る本 - 退位をめぐる議論を理解する一助として ー

京都本




  天皇陛下の全仕事 山本雅人『天皇陛下の全仕事』講談社現代新書


 2016年の大きな論題のひとつ「生前退位」 

 今年も、あと僅か。
 さまざまなニュースが駆け巡った1年でした。

 海外では、米・トランプ新大統領の誕生、英国のEU離脱、韓国・朴大統領弾劾、国内でも、熊本地震、舛添→小池の東京都問題、自公参院選勝利、オバマ大統領広島訪問、スポーツでは、リオ五輪、カープ優勝、そして、SMAP解散からピコ太郎まで。内外とも盛りだくさんでした。

 そんな中で、私が重く受け止めたのが、天皇陛下の「退位」の意向表明です。
 退位の意向を受けて、政府で有識者会議が設置されました。今日(12月14日)、年内最後の会合が開かれて、恒久的な制度で退位を定めるのではなく、特例として検討していくという方向性が見えて来たようです。

 この有識者会議の正式名称は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」と言います。
 天皇陛下は高齢ですが、公務が多すぎて負担が大きいから、それを軽くするためにどういう方法を取るのか、ということです。

 私は、この7月、天皇陛下の「生前退位」(聞き慣れない、かつ生々しい言葉で「譲位」ではだめなのかなと思いました)がスクープ報道され、それに続いて8月8日にご自身のビデオメッセージ(「お気持ち」)がテレビ中継されました。私も、リアルタイムで見ました。
 そこで語られたメッセージの内容には、うなずける面も多いなと思いました。やはり、天皇の職務を自ら行ってきた人でなければ述べられないような内容であると感じました。

 それにしても、私はこれまで、天皇陛下の日常についてさしたる関心を抱いていませんでした。
 それで少し反省して、お盆前後に、4、5冊ですが今回の問題を考えるための本を読んでみたのでした。


 “全仕事” を通覧

 天皇陛下の公務について、真正面から扱った書物があります。
 山本雅人氏の『天皇陛下の全仕事』(講談社現代新書)です。

 山本氏は新聞記者で、宮内庁担当をしていたこともあります。
 2009年の刊行ですので、特に今回の問題をうけて著されたものではありません。
 新書ですが、360ページに及ぶ大著で、タイトル通り、23章にわたって天皇陛下の仕事を網羅的に紹介しています。類書のない労作です。

 ひと口に、天皇陛下の「仕事」といっても、その性質はそれぞれに異なります。
 本書では、その仕事を大きく3つに分類しています。

 1つめは、国事行為。これは憲法に定められた仕事で、首相の任命、国会の召集、栄典の授与など、13の行為があります。

 2つめが、公的行為。明文規定はありませんが、天皇の「象徴」という地位に基づき、公的な立場で行われるものです。外国訪問、地方訪問、一般参賀、歌会始、園遊会、宮中晩餐会などがあります。
 地方訪問のうち、毎年行われれる国民体育大会(国体)、全国植樹祭、豊かな海づくり大会は、三大行幸啓と称されるそうです。

 3つめは、その他の行為(私的行為)です。この中でも、やや公的性格がある福祉施設訪問などと、まったく私的な宮中祭祀や、コンサート、展覧会、大相撲などの鑑賞、観戦、専門のハゼの研究、趣味のテニスなどが、これに当たります。
 私的な行為の中で、最も天皇らしいものが宮中祭祀(皇室祭祀)でしょう。
 正月の歳旦祭(1月1日)から始まって、昭和天皇祭(1月7日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、新嘗祭(11月23日)など、たくさんの祭祀が執行されます。

 これらのうち、国事行為は定められているものですから、激増激減しないものでしょうけれど、そのボリュームはかなりあるようです。
 例えば、毎週火曜と金曜には、書類の決裁を行っているそうです。署名したり押印したりするわけですが、内閣からの上奏書類を数えると年間1,000件以上に上ると言います。
 山本氏がまとめた天皇陛下の仕事の「性質別の内訳」を見ても、最も多いのは「人と会う」53%ですが、次に多いのが「事務処理」14%なのです。別の分け方である「行事別の内訳」でも、「執務」14%がトップとなっています。
 ちなみに「(外国賓客など)会見・引見」は7%、「祭祀」は5%、報道等で目立って見える「記念式典」などは僅か3%に過ぎません。意外な事実と言えるでしょう。

 “負担軽減” という意味で問題となるのが、公的行為です。これは何をやるかやらないかという定めがないので、増やそうと思えば増えていきます。つまり、負担増になるわけです。
 陛下は、地震などの際に被災地訪問を積極的に行われています。これは公的行為に当たるもので、憲法に定められた国事行為ではありません。まさに、お気持ちから発する「平成流」の仕事なのです。
 また、太平洋戦争の激戦地(沖縄、サイパンなど)への追悼・慰霊の訪問も、ここに分類されます。昨年(2015年)のパラオやペリリューへの旅もこれに当たります。

 『天皇陛下の全仕事』には、細々としたルーティーン的な仕事や毎年行われる催しから、外国訪問のような大きな行事まで、委細漏らさず記しています。
 天皇陛下の負担軽減を考える際、基本的文献となる良書と言えるでしょう。


 側近のみた天皇陛下

  天皇家の執事 渡邉允『天皇家の執事』文春文庫

 併せて読むと理解が深まる本が、渡邉允(まこと)氏の『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文春文庫)です。
 渡邉氏は、1996年から10年半にわたり侍従長を務めて来た方です。

 本書も、陛下の仕事を種類別に分けて章ごとに語っています。

 印象的なのは、第6章のタイトル「人々に「心を寄せる」ということ」です。
 ここでは、福祉施設への訪問や災害のお見舞いなどについて取り上げ、天皇皇后両陛下の思いに触れています。
 天皇の最も重要な仕事のひとつに祭祀があり、それは「祈り」という行為です。一方、直に国民と触れ合って、言葉を交わす部分に、この「心を寄せる」という態度があるのでしょう。
 皇太子時代、そして平成になってからも、積極的に進められてきた部分だと思います。これが公的行為を拡大されていると捉えることもできます。

 また、渡邉氏は、傍でつぶさに見詰めてきた方だけあって、さまざまな逸話が紹介されています。

 例えば、沖縄に関する陛下の思いを述べた章では、琉歌についての話が印象的です。
 琉歌とは、八・八・八・六調の沖縄の短歌です。昭和40年代に外間守善氏の進講を受け、昭和50年(1975)、初の沖縄訪問のあと、2首の琉歌を詠まれたそうです。
 自身で「おもろそうし」所載の1,200首の中から抜き書きを作り、琉歌を学ばれたと言います。
  
 沖縄海洋博(1976年)の際、次の琉歌を作られました。

  広がる畑立ちゆる城山肝のしのばらぬ戦世の事
 (フィルガユルハタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌクトゥ)

 このようなエピソードは、一般にはなかなか伝わって来ないものです。
 渡邉氏は、国民と天皇陛下(皇室)との間には、信頼関係が醸成されていると考えています。そして、それは国民のために尽すという陛下の思いに基づいた公務によって実現してきたと考えられているようです。
 
 公務軽減は、すでに渡邉氏の在任中から課題となっていました。しかし、その公務が国民との関係を支えているとすれば、容易に軽減するというわけにもいかない、ということなのでしょうか。


(この項、つづく)




 書 名 『天皇陛下の全仕事』
 著 者  山本雅人
 刊行者  講談社(講談社現代新書1977)
 刊行年  2009年

 書 名 『天皇家の執事 侍従長の十年半』
 著 者  渡邉允
 刊行者  文藝春秋(文春文庫)
 刊行年  原著 2009年(文庫版 2011年)


社会学について考える本 - 古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい !!』-

京都本




  古市くん表紙 古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』光文社新書


 テレビでよく見る古市くんの本

 今年は、精を出して通勤電車中で読書をしています。
 一番困ることは、読むための本がないこと!
 正確に言うと、読んでおもしろそうな本がなかなか見付からないことです。

 とは言え、最近はインターネットで本探しが出来、実際に読んだ人のレビューも見られます。そのため、以前に比べて、おもしろい本が見付けやすくなりました。これは思ってもみなかった事実で、いきなり書店に行って本探しをするより、インターネットで下調べしてから本屋さんで選ぶ方が、当りの確率は高まっています。

 それでも、下調べが出来ないまま書店に行ってしまうことも多く、そんなときは買う本が決まらず呻吟することになります。

 今週も、準備なしに本屋さんに行き、困ったなぁ~、となってしまいました。
 そのとき目に飛び込んできた本が、

  古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』 

 でした。

 タイトルだけ見ると、キワモノっぽい。
 そして、著者が古市憲寿という、テレビなどでよく見掛ける若い人です。印象としても、毀誉褒貶があるような論者ですよね。
 それでも、なかみをペラペラ繰ってみて、これ買うか、と思いました。


 社会学って、なんだ ! ? 

 私は知らなかったのですが、この古市憲寿という人は、社会学が専攻で、なおかつ東大の大学院生だったのです! 年齢も31歳のようで、お若いですね。
 その古市くんが、12人の著名な社会学者と対談したのが本書です。2人ほどの例外を除いて、みんな東大出身か東大の先生という、なんともいえない顔ぶれなんですが……

 ご愛嬌はさておくとして、結構おもしろいんですね、この本が。
 古市くんは、12人の社会学者に、まず「社会学って、なんですか」と問い掛けます。
 その答えがさまざまで、楽しいんですね。

*小熊英二先生(本書では、みんな「○○先生」と書いてある)
「現在の日本社会の文脈では『評論家』でしょうね」

*上野千鶴子先生
「ふつうは『社会と個人についての学問』だと言われているけど、もう少し厳密に定義するなら、『人と人とのあいだに起きる現象について研究する学問』ですね」

*宮台真司先生
「いちばん短く答えれば、『僕たちのコミュニケーションを浸している、非自然的な--自然的ではない--前提の、総体を研究する学問』ということになります」

*大澤真幸先生
「うんと抽象的に定義すれば、社会学は『社会の自己意識』です」

*橋爪大三郎先生
「社会学はフワフワしている、とよく言われる。どうしてフワフワしているかと言うと、「社会学とは何ですか」という問いよりも、もっと本質的な「社会とは何ですか」という問いを、飛ばしているから」

 分かったような、分からないような……という感じですね(笑)
 本書の対談は、月刊誌に連載されたものでした。
 それで、10番目に登場した吉川徹先生は、それまでの対談を読んで「びっくりするぐらい、皆さん同じポイントを押さえていますね」と言って、こうまとめています。

 大きく言うと二つあって、まずは社会学は、政治学や法学、経済学など他の社会科学がカバーしていない残余の領域を研究する学問だということ。
 もう一つは、誰もが日常的に知っている「世の中」を研究対象として、そこに生活者の目線で見えているのとは違う事実が隠れていることを説明するのが社会学者の仕事だということです。(235ページ)


 こういうふうにまとめるところが、学者らしくていいですねぇ。吉川先生は、大阪大学の先生ですね。私も『学歴分断社会』(ちくま新書)、読みました。

「社会学って、なんですか?」という単純でズバリな質問は、概説書や事典には出て来るけれど、個々の学者の答えは、案外聞けません。教室では、よくあるQ&Aかも知れないけれど。

 こういうところを読むだけでも、本書は楽しめます。

 古市くん中身
  先生の肖像も、イラストです。


 パブリック社会学とは?

 どの先生との問答も、それなりにおもしろいのですが、興味という点では「パブリック社会学」ですかね。
 これは、鈴木謙介先生との対話に出て来ます。
 
 私は、寡聞にして「パブリック社会学」という言葉を聞いたことがありませんでした。過去に「パブリック考古学」というのは聞いたことがあるのですが。
 では、これはどういったものなのでしょうか。

 そのパブリック社会学とはどういうものかというと、[米国の社会学者マイケル・ブラウォイは]一般の人々に認知される実践であるというんです。現実の社会をうまく説明できる理論や経験的な研究を用いて、それを講義やメディア露出という形でアウトプットするわけですね。 
 アウトプットの受け手になるのは、学生や地域社会、宗教教団を含む「パブリック」な領域だと言います。(192ページ) 

 
 乱暴にまとめると、社会学の実社会への還元ということです。それ自体は誰も反対しないのですが、問題は<誰がパブリック社会学を担うのか>という問題でした。
 
 社会学の研究者自身がその役割を担うべきなのか、それとも「パブリック社会学の専門家」が担うべきなのか?
 後者は、自分では研究せずに他人の研究結果の社会還元だけをする人、ということになります。それっていいのかな、という意見もありそうですね。
 しかし、鈴木先生は、それは必要、と明言します。
 その3つの理由は……

(1)もともと社会学は、社会に自分たちの知識を投げ返すことが求められる学問だということ。

(2)厳密な研究をするためには、大きな時間とお金が必要。大規模な調査を行ったりするためには、予算配分の潤沢な大学(東大、京大など)に属さないと無理。
「多くの予算を必要とする厳密な研究をしなければ社会学とはいえない、というのは、あまりに権威主義的な発想だし、学生と一緒に近隣を調査して、地域の課題を発見・解決したり、学生や地元の人々に自分たちへの理解が深まるような知識を提供する、まさに「パブリック社会学」と言うべき活動をしたりしている人がたくさんいる。社会学の価値は、海外のジャーナルに何本論文が掲載されたかといった指標だけで測られるようなものではないと思う」(194ページ)。

(3)現在は、研究の幅はどんどん広がっているので、自分の研究分野を追究しながら、あらゆる分野を平均的に知っているというのは無理だということ。おおざっぱでもよいから、社会学全体の研究成果を把握しないと、細分化、タコツボ化は収まらない。

 古市くんが「社会学の全体像を見渡したうえで、世の中に説明するような仕事が必要になってくるわけですね」とまとめます。

 この部分は、本書の中では異質感があるんですよね。
 特に(2)の部分です。
 私のように博物館に勤務して、いつも市民の方々と接していると、地元の人たちが地域について学習したりするのは当然だと思うのですけれど。

 あぁ、そうか! 鈴木先生、東大出身でもなく東大の先生でもないんですよ ! ! (関学こと、関西学院大学の先生です)

 私は、こういった発想、賛成です。
 よく考えると、このブログも、パブリック歴史学? なんですよね!

 いやいや、「よく考えると」というのは照れ隠しで(笑)、最初からパブリック歴史学なんです。
 学問が社会とどのように接点を持つのか、というのは私にとっては大きな課題。
 特に、歴史的に物事を考えるというのはどういうことか、を多くの方に伝えたいと考えています。

 もちろん、これ以外にもいろいろな話題満載の本書。
『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』、読みやすい対談形式のうえ、なかなか興味深い本なので、ご一読を。




 書 名 『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』
 著 者  古市憲寿
 刊行者  光文社(光文社新書844)
 刊行年  2016年


懐かしい西陣の町を歩く - 駒 敏郎『京都西陣織屋町』 -

京都本




  京都西陣織屋町 駒 敏郎『京都西陣織屋町』駸々堂出版


 織物のふるさと・西陣 

 お盆ですね。
 毎日とても暑くて、今日(8月16日)も、最高気温は35.4℃まで上がりました。
 そして大文字の送り火は、夜になって降り出した強雨で大変心配されましたが、無事点灯されましたね。

 前回、下鴨神社の古本まつりを紹介しましたが、今日はもう1回、求めた本の話です。
 
 その本は、駒 敏郎『京都西陣織屋町』(駸々堂ユニコンカラー双書)。
 タイトル通り、西陣の町について写真を織り交ぜて紹介したものです(写真・松尾弘子)。
 刊行は昭和50年(1975)ですから、40年も前になります。

 西陣は、西陣織の産地としてよくご存知と思いますが、この本のカバーに簡潔にまとめられているので引いておきましょう。

 京都西陣は絹織物のふるさとである。
 平安の昔から織部町として栄え、その後たびたびの火災にもめげず、現在まで受けつがれている絹織の町である。
 機音のする町角を少しはいると、町家の紅がら格子、細い露地奥の地蔵にも歴史と生活の勾いが感じられる。
 京都の下町ともいえる西陣から織り出された錦には千年の歴史を生きぬいた庶民の生活と京都の文化を生み出したエネルギーが、燦爛たる模様としてくり展げられているのだ。 

 
 西陣の町並み 西陣の町並み

 屋根の低い家並みが続く西陣。その家の中からカッシャンカッシャンという織機の音が聞こえてくるのが、かつての西陣でした。
 いまでは、その音もたいそう少なくなった気がしますが。

 
 西陣の範囲

 目次を紹介しておきましょう。

  西陣の四季
  絹織一千年
    平安の織手町
    西陣の誕生
    幕府の絹工場
    災厄の時代
    甦る機音
  西陣散歩
    西陣の区域
    紫野
    千本通
    北野
    内野
    古町
    御霊前
    小川・堀川
  西陣ガイド
    西陣の行事
    西陣の歴史
    道しるべ
    西陣味しるべ
  地図 


 150ページ足らずの本に、これらの事項とカラー写真が多数収録されていて盛り沢山です。

 京都西陣織屋町


 西陣ってよく聞くけど、どこかなぁ? という方もおられるでしょう。
 著者は「北は今宮神社前を東西に走る今宮通、西は西大路通、南は丸太町通、東は烏丸通に囲まれただいたい三キロ四方の地域だろう」と言います。
 もちろん、時代によって範囲は変わるのですが、戦後はこのような感覚だったわけです。東はやや狭く堀川通、という見方もあるし、北は北大路通くらいに見ることもあるでしょう。
 
 けれども、私が “もっともだなぁ” と思った駒氏の見解は、別に述べられています。

 西陣の範囲というのは漠然としていて、はっきりどこからどこまでと区分することが難しい。
 (中略)
 早い時代に絹織物の産地という意味にすりかえられてしまったので、機[はた]の音のする所がすなわち西陣、と考えられてきた。したがって、機業が盛んになるにつれて、西陣はどんどん拡がっていった。今では、その方式を当てはめると、鷹ケ峰や御室のあたりまで西陣の中にはいってしまうことになる。

 微妙な変化なのでどこがどうとはいえないのだが、西陣的な雰囲気に濃淡があって、周辺部へ行くにつれてそれが薄くなっていくのは、肌に感じられるようだ。もうここは西陣ではないということだけは、何となく判るのである。(97ページ) 


 これはおもしろいですね、「西陣的な雰囲気」って。

 でも、これはあるように感じます。上の町並みの写真のような、低い瓦屋根の家々が並んでいる。でも、よくみると「○○織物株式会社」の表札が掛っている。そういう雰囲気です。
 私の両親の実家も、西陣の東の端と西の端にあるのですが、確かに微妙に西陣的な雰囲気が残っていますね(笑) 高校は北端でしたが、その辺はちょっと外れつつあるかな、という印象があります。
 いずれにせよ、こういう地域の捉え方って素敵ですよね。少し分かりづらいのですが……


 千本今出川のミヨシ堂

 それにしても、「西陣散歩」の章を見ていると、いくつもの通りの名が出てきて感心させられます。
 千本通や今出川通の大きな通りはもちろん、寺之内通とか五辻通とか上御霊前通とか、どう読むの? と思われるような通り名が平気で出て来ます。
 俗に、京都ではすべての街路に名前が付いている、と言われます。それだけ、通りというものの存在が大きな意味を持っており、地域住民も通りを基準に地理を覚えているわけです。

 西陣の織屋町の中心は、今出川通と大宮通の交点と言われ、「千両ケ辻」と呼ばれます。
 もっとも、大きな交差点と言えば、千本今出川でしょうか。

 そこに、こんな建物があるのをご存知ですか?

 ミヨシ堂

 壁面にもある通り、ミヨシ堂です。
 この時計塔がランドマークになっていて、私にも昔からお馴染みでした。

 先日、京都新聞に「京都を彩る建物や庭園」の選定(京都市)についての記事が出ました(2016年7月18日付)。
 これにミヨシ堂が選ばれたそうなのです。

 ミヨシ堂は時計店で(現在は閉店)、昭和4年(1929)の建築です。
 市電開通の際、道路拡幅で交差点が隅切りされたので、表の町家を洋館に建て替えたのだそうです。
 いまは高いビルに囲まれていますが、当時はモダンなランドマークだったのでしょうね。

 西陣というと古風なイメージですが、繁華街という一面もあっただけに、このようなモダニズムも花開いたのでしょう。




 書 名:『京都西陣織屋町』
 著 者:駒 敏郎
 刊行者:駸々堂出版
 刊行年:1975年


古本市で見付けた『カメラ京ある記』は、戦後まもない昭和30年代の空気を活写

京都本




古本まつり


 下鴨神社・糺の森で古書市

 毎年恒例、下鴨納涼古本まつりに行ってきました!

 下鴨神社(左京区)の境内、糺の森(ただすのもり)が会場。
 つまり、屋外で開催されているのですが、40ばかりの出店があって盛観です。

 年々店舗数も増え、ひと通り見て回るのに、私の場合、3時間くらいかかります(笑)
 写真では年配のお客さんが多いように見えますが、若い学生風の方もたくさん来られていて、そのあたりは京都らしいというところでしょう。

 古本まつり


 何を買おうか?

 昔に比べ、近頃は “これは!” という本が余り見付からない、という印象です。
 なぜなんだろう?

 万巻の書を買い尽したわけでもなし、本への興味関心が薄れたわけでもないけれど、不思議ですね。

 今回買った本は、例えば風流なところでは、

 山根翠堂『花道日本』教育研究会、昭和18年
 重森三玲『日本庭園の鑑賞』スズカケ出版部、昭和10年 

 
 実は、生け花の歴史を書いた本で、素人にも手ごろなものって、なかなかないんですよね。著者で言うと、西堀一三や、この山根翠堂ですか。
 山根翠堂は華道家ですが、本は戦時中の刊行。紙は悪いけれど、図版も入っていて、いいですね。

 庭の本も、通俗的な解説書は数多くありますが、しっかりしたものは少なそうです。
 戦前では、作庭家の重森三玲(しげもりみれい)でしょう。
 重森には『日本庭園史図鑑』といった完備した全集もあって、これは私の職場にもありますが、図面も入っていてとてもいい本です。ただ、全26巻あるので、個人では持てないです……
 今回見付けた『日本庭園の鑑賞』は、とてもコンパクト。庭園史と庭園の見どころ、実例などが、図版入りで紹介されています。

 他の分野では、最近お芝居について考えているので、こんなものを求めました。

 岡本綺堂『明治の演劇』大東出版社、昭和17年
 三宅周太郎『芝居』生活社、昭和18年
 郡司正勝『地芝居と民俗』岩崎美術社、昭和46年 


 岡本綺堂(きどう)は、『半七捕物帳』でお馴染みの作家ですが、もとは新聞記者でした。小説とともに戯曲も書いていて、代表作の「修善寺物語」は現在の歌舞伎でもよく上演されますね。
 
 『明治の演劇』は、昭和10年(1935)に出版された『明治劇談 ランプの下にて』(岡倉書房)を改題したもののようです。『ランプの下にて』は、明治5年(1872)生まれの綺堂が実見した明治時代の歌舞伎を回顧した随筆です。
 綺堂は、学校を出たあと、東京日日新聞に入ります。当時も、新聞記者は劇場に招待されて観劇し、劇評を紙面に書いていました。綺堂はその担当となるのですが、新米記者が招待見物でウロウロしながら観劇するさまが面白おかしく描かれています。

 他にもいろんな回想があって、楽しい本なのですが、どうも岩波文庫に入っていたらしい……。でも、古書めぐりは「出会い」ですからね、ここで買って手に取ることが意味があるのです。
 

 昭和30年代の京都を激写?

 上記のいろいろな本も、なかなか面白いのですが、手に取った瞬間 “おっ” と思ったのはこの本です。

 朝日新聞京都支局編『カメラ京ある記』淡交新社、昭和34年
    同     『跡 続・カメラ京ある記』同、昭和36年


 この本は、これまで見たことがなかったですね。

 京ある記 『カメラ京ある記』

 正編は、朝日新聞京都版に昭和33年(1958)に連載したものを翌年に刊行。続編は、昭和35年(1960)の連載を翌年にまとめています。
 昭和33年、35年というと、戦後の復興が目覚ましく進んでいた頃でしょうか。京都の街も、みるみる変わっていきました。
 そのため、本書には、現在の私たちが見ると、衝撃的な写真が並んでいます(以下、著作権の関係で写真を掲載できないことが残念です)。

 例えば「大雲院境内」という写真。
 大雲院は、いまは円山公園の南側にあり、祇園閣があるお寺として有名です。
 実は、かつては寺町四条の南にありました。現在の高島屋の西側、立体駐車場などがある辺りです。藤井大丸の東向いになります。

 おそらく藤井大丸の上から撮った俯瞰写真には、昔の体育館のような建物が写っています。壁面には「PALACE」の文字があって、これがパレス劇場です。
 本書によると、昭和28年(1953)に大雲院の境内に出来たアイススケート場で、まもなく映画館に転換したと言います。
 このあたりのややこしい事情も書かれているのですが、差し障りがありそうなので割愛し、結局お寺は土地を売って移転された、ということだけ書いておきましょう。
 また、境内には労働運動の牙城である労働会館もあり、異観を呈していたようです。

 本文には、

 山門をくぐって、映画館と本堂と労働会館のあい住まい--ある意味では一番“いまの京都”らしい場所といえようか。(続編83ページ)

 と締めくくっています。
 やはり戦後らしい風景がありますね。

 私が驚いたもう1枚の写真は「顔見世」というもの。
 南座を西側(鴨川側)から撮ったショットですが、なんと数多くの幟(のぼり)が立てられているのでした。南座の脇には京阪電車が走っていた(もちろん地上)ので、その間に立っていたようです。
 当代ではありませんが「片岡仁左衛門」とか「中村時蔵」とか、馴染みのある名前が並んでいます。「片岡秀太郎」は当代ですね。


 文化財の爪痕

 「通天橋」という写真には、なんと真ん中で分断された東福寺・通天橋が収められています。
 昭和34年(1959)夏、豪雨で流されて、「秋になっても橋なしのモミジではいかにもさびしい」(続編118ページ)。
 橋の復興のために、拝観料を10円値上げし、雲水たちが喜捨集めに駆け回った。その結果、最近になって復旧工事に取り掛かったと、伝えています。

 「鷹ケ峰」の写真には、真新しい住宅が写されています。
 通称・鷹ケ峰街道は、千本北大路から北へ延びる一本道で、付近には秀吉が造った「御土居(おどい)」があります。

しかしこの道をよぎって連なっていた「お土居」(秀吉が京都の周囲をかこって築いた土塁)の跡に“文化住宅”が最近バタバタと建ちはじめた。道の東側の「お土居」だけが史跡に指定されていないのに目をつけた人が買い占め、ブルドーザーを入れて谷をうめ“宅地”にしてしまった。おかげで、付近の地価ははね上がった。
 
 “京の箱根”がうたい文句。同じようなつくりの分譲住宅が二百戸建つのだそうだが、ニスとモルタルで化粧されたマッチ箱をくっつけたような家がずらりと並んでいる。壮観だ。(続編25ページ) 


 新聞記者が書いているので、なんだか皮肉っぽく、社会の裏をうがつような記述が多いのです、どのページにも。
 それにしても「京の箱根」は初めて聞きましたね。

 「京の○○」と言えば、「四条大宮」も。

 四条大宮が、かつて何と呼ばれていたかご存知でしょうか?
 戦後、この場所は阪急電車の京都方の起終点となりました。

 ターミナルの朝は、もう六時すぎに明ける。職場に急ぐ人たちが吸い込まれ、吐き出され、一日の活動がはじまる。人のウズ、足どりもせわしそうだ。阪急京都駅の話では、乗降客は日に四万五千。東の三条京阪とならんで京都の二大ターミナルである。

 “京都の新宿”とはだれがいい出したのか。
 「京新宿」「新宿大宮」と二つの商店会もある。
 新宿にくらべるとお粗末だが、かいわいに酒場が七十軒ぐらい、パチンコ店や映画館が軒をならべている。(後略) (後編196ページ) 


 京都の新宿かぁ。
 聞いたことなかったですね。
 私が知っている阪急京都線のターミナルは、すでに河原町ですから。
 本書にも、河原町延伸の話が出ており、四条大宮界隈でも「「商売にさしつかえる」と反対の空気が強い」と記されています。

 私が学生の頃、四条大宮には映画館がいくつもあって、コマゴールドとかコマシルバーとかに名画を見に行ったものです。いまはそれもなくなって、やはり「商売にさしつかえ」たのでしょうか。


 50年で大きく変貌

 本書が刊行されてから、50年余りが経っています。

 正編冒頭には「鴨川」の写真--四条大橋西詰の東華菜館から俯瞰したもの--が載っています。
 夜の四条大橋は、ひっそりと街灯に照らされ、「鰻まむし」の電飾を灯した角の「いづもや」は二階建の木造のようです。つづく家並みも低く、ここが四条大橋、先斗町かと思わせます。

 「加茂大橋畔」は、賀茂川と高野川が合流する三角州を捉えています。河原には、友禅染の反物が何十も並び、背後には建物に妨げられることなく比叡山がそびえています。

 正編の最後から2枚目「舞子」は、なぜか京都駅にたたずむ舞妓さんなのですが、彼女の前にあるはず? の京都タワーは未だなく、関西電力のビルだけが建っています。

 半世紀のうちに、京都の景観も、人々のなりわい、くらしも大きく変わったのでした。

 当時の人たちも、京都は変わってゆく、と感じていたのでしょうけれど、やはりそれからの50年間の変貌ぶりは凄まじいですね。


  古本まつり




 書 名 『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年