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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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2017年は、西陣550年!





千本中立売


 西陣誕生のきっかけは応仁の乱

 今朝、なにげなく「府民だより」2月号を見ていたら、伝統工芸を紹介するページに、小さく、

   西陣550

 というロゴマークが載っていました。

 何かな? と思って、説明を読んで分かりました。
 今年(2017年)は、応仁の乱から550年、つまり「西陣」が出来て550周年ということらしいのです。

 念のため、応仁の乱(応仁・文明の乱)について教科書を見ると、次のように書いてあります。

 嘉吉の変後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこった。
 (中略)
 幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が、これらの家督争いに介入したため対立が激化し、1467(応仁元)年、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まった。

 守護大名はそれぞれ細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍にわかれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃した。応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いに疲れた両軍のあいだに和議が結ばれて終戦を迎え(後略)  (『詳説日本史』山川出版社) 


 まあ、10年以上やっていたのだから、疲れますよね。

 戦いの舞台は、室町幕府が置かれていた京都。
 両軍の大将は、細川勝元と山名宗全。勝元が東軍、宗全が西軍です。

 そして、教科書には書いてないけれど、西軍が陣を置いた場所が、「西陣」呼ばれるようにとなった、ということなのですね。

 つまり、“西陣誕生” のきっかけは応仁の乱で、それが勃発したのが1467年、いまから550年前というわけです。

 堀川今出川西入ル、つまり西陣の一画にある京都市考古資料館。この大正時代に建てられた建物は、かつては西陣織物館でした。
 その前に、西陣と西陣織の由来を記した石碑があります。

  西陣碑 「西陣」碑

 昭和3年(1928)に建てられた堂々たる碑。立派な「西陣」の二文字は、京都帝大総長・荒木寅三郎によるもの。また、由来を記した文章も、京都帝大の歴史学者・三浦周行が起草しています。

 なお、大正の西陣織物館については、以前記事を書きましたので、そちらもご覧ください。
 
 記事は、こちら! ⇒ <ふたつの「革新」が出会い、西陣織物館は生まれた>

 京都市考古資料館
  旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 始まっている「西陣550」

 550周年というのは、ちょっとキリが悪いけど、それはまぁいいですよね。
 調べてみると、「西陣550」は、西陣織工業組合が行っている西陣呼称550年にちなんだキャンペーン。きものショーなどのイベントを展開されるようで、すでに昨年11月からスタートしています。
 昨秋は、西陣織会館のリニューアルも実施され、今年がいよいよ本番ですね。

 ロゴマークも、京都造形芸大名誉教授・久谷政樹氏のデザインにより制作。織機で使う杼(ひ)を意匠化したものです。
 ここで紹介したいのですが、使用は有料みたいなので、ちょっと控えておきます(笑)

 西陣の町家

 西陣のことは、ここでもちょくちょく書いていますが、実のところ、このキャンペーンは知りませんでした。
 不注意の謗りを免れませんが、いっそうPRしていただき、盛り上げていければうれしいですね!


  西陣碑




 旧 西陣織物館(京都市考古資料館)

 所在  京都市上京区今出川通大宮東入ル元伊佐町
 見学  館内自由(無料)
 交通  市バス「堀川今出川」下車、すぐ



【新聞から】インキュベーション施設になった岩元禄の電話局舎





旧西陣電話局


 「西陣産業創造會舘」になった電話局

 京都新聞や烏丸経済新聞などによると、上京区の西陣IT路地が、2016年10月、西陣産業創造會舘としてリニューアルオープンしたそうです。

 同館のウェブサイトによると、この施設は「NPO法人京都西陣町家スタジオが、京都府、NTT西日本と連携して運営する」もので、「起業を目指す人や創業間もないベンチャー企業、フリーランスで働く小規模事業主」らを支援するインキュベーションセンターだということです。

 スモールオフィスやコワーキングスペース、ミーティングルームなどを提供するほか、ビジネスマッチングや専門家による相談、イベントなどを実施します。

 なぜこの記事が目に留まったかというと、その建物に関心があるからでした。

 旧京都中央電話局西陣分局。

 かつての電話局がインキュベーションセンターになった--ということなのですが、この旧電話局の建物がふつうじゃないんですね。

 トルソ

 電話局の壁面とは思えない、女性のトルソ。踊り子?

 そして、

  ライオン

 あんな上には、ライオンの顔も!

 これが、中立売通堀川東入ルの静かな一画にあるのですから、少し驚きでしょう。


 夭折の建築家・岩元禄の名作

 この建物は、大正10年(1921)に建築されました。いまから100年近く前です。
 造ったのは、岩元禄(1893-1922)という建築家ですが、彼は30歳を前にして亡くなりました。最初に設計したのが、この建物。ついで東京・青山電話局、そして箱根の旅館を設計。その3つだけが実作で、現存するのはこの建物のみです。

  旧西陣電話局 ファサード(北側)

 細部も素晴らしいですが、全体のフォルムも印象的です。いわゆる表現派ですね。ファサードに、放物線を大胆に取り入れています。

 旧西陣電話局 

 側面も、楕円の付け柱が並んでいて、迫力があります。

  旧西陣電話局 東側面

 私が好きなのは、ここを見上げたところ。

 見上げ

 これ、女性なんですよ、よく見ると。

 どういうポーズなのか、文化庁の説明には「東面2階庇(ひさし)下を踊り子のレリーフ・パネルで飾る」(国指定文化財等データベース)と書いているのですけれど、そんな言葉では済まないような、ヘンな体勢です。

 でも、すごいですね、これは!

 中川理氏は、「裸婦が全面に描かれた正面のデザインは、当時としては驚くべきものであった。この建物は、西洋の様式に則って設計するのではなく、個人の自由な表現として初めてわが国に現れた建築だったと評価されるものである」と述べています。

 戦前、郵便や電信電話を所管した官庁が、逓信(ていしん)省です。
 逓信建築には、デザイン的にすぐれたもの、前衛的なものが、たくさんありました。京都にも、西陣の電話局と兄弟分にあたる京都中央電話局上分局や、中央電話局(旧新風館)が現存しています。いずれも、逓信建築の雄・吉田鉄郎の設計です。
 多くの都市で、すぐれた逓信建築が取り壊される中、これだけ残されている京都は幸せと言うべきでしょう。

 この西陣の旧電話局は、10年前に重要文化財に指定されたので、取り壊される心配はありません。
 百年の時を刻んだ建築は、おそらく若い起業家たちのセンスに受け入れられるのではないでしょうか。真新しいビルよりも、むしろ歴史のある建物の方が創造力を刺激するものです。

 また、施設名にもあるように、この場所は「西陣」の一画です。西陣の中心部からみると、東の方になりますが、京都の産業界を牽引した伝統ある機業地なのです。
 そこに、新たな産業を生み出す施設がリニューアルオープンするのは、とてもよいことですね。
 私も、近年個人的に西陣への思いが強くなっているので、まことに慶賀すべきことだと思います。

 京都における歴史的建造物の生かし方として、よいケースになるといいですね。




 西陣産業創造會舘

 所在  京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐守町
 見学  インキュベーション施設として利用可
 交通  市バス「堀川中立売」下車、徒歩約3分
 


 【参考文献】
 京都建築倶楽部編『モダンシティー KYOTO』淡交社、1989年
 石田潤一郎ほか『近代建築史』昭和堂、1998年
 中川理『京都 近代の記憶』思文閣出版、2015年


妙蓮寺の慰霊塔は、室戸台風で亡くなった児童41名を悼む





慰霊塔


 台風のシーズン

 今年(2016年)も、たくさんの台風が日本に接近、上陸し、被害を与えています。

 80年余り前の昭和9年(1934)9月21日は、関西を室戸台風が襲った日です。
 特に、大阪、京都では甚大な被害が出ました。

 以前に紹介した「師弟愛之像」も、室戸台風で没した先生と児童を追悼したものでした。

 記事は、こちら ⇒ <室戸台風の惨状を今に伝える師弟愛の像>

 その像は、淳和尋常小学校(現・西院小)の松浦壽惠子先生をモチーフとした像でした。
 その淳和小と並び、京都市内で大きな被害を出した小学校が、西陣尋常小学校でした。


 西陣小学校の被害

 上京区にある西陣尋常小学校では、1時間目の授業が始まった午前8時半頃、暴風によって2階建の木造校舎が倒壊し、1階にいた児童521名と職員10名が下敷きになりました。

 倒壊した西陣小学校
 倒壊した西陣尋常小学校 (「上方」46号所収)

 3時間かけて全員を救出しましたが、41名の児童が亡くなりました。

 京都市内では、小学校で多大の被害が出、112名の児童と3名の訓導(先生)が亡くなり、私立両洋中学校でも20名の犠牲者を出しました。


 妙蓮寺の慰霊塔

 西陣小学校から3筋ほど上がった寺之内通大宮東入ルに妙蓮寺があります。本門法華宗の古刹で、中世以降、京都に大きな勢力を張った法華宗発展の礎となった寺院です。

 妙蓮寺
  妙蓮寺

 妙蓮寺の山内東北隅に墓地があります。
 私が訪れた9月の一日は、お彼岸も近かったため、多くの方が墓参に来られていました。
 
 妙蓮寺墓地

 この墓域の真ん中に、室戸台風で亡くなった児童たちを供養した慰霊塔が建っています。

 慰霊塔
  室戸台風の慰霊塔(妙蓮寺墓地)

 台座を含めれば3mほどの高さはありそうな大きな石塔です。
 表面の題額は「慰霊塔」。妙蓮寺の住職である大僧正・福原日事の揮毫。

 慰霊塔

 その下には「西陣校罹災児童」とあって、亡くなった41名の氏名が刻まれています。

 慰霊塔

 3段に41名の児童名が記されています。いろは順、男女順に書かれていますが、よく見ると、いろはが繰り返しています。おそらくは、1年生から順に学年ごとに記載しているのでしょうか。

  慰霊塔 慰霊塔


 建立の経緯

 なぜ妙蓮寺にこの慰霊塔が建てられているのか。その理由は、塔の裏面に記されていました。

 裏面の碑文は「昭和九年九月廿一日 突如天譴暴風水襲近畿関西之地」から始まります。

 「殊西陣校惨禍最留憐」として、暴風が西陣小学校の校舎を瞬時に倒壊させ、41名の児童の命を奪ったことを記しています。
 台風の翌日、遺族の有志により、妙蓮寺の住持を招いて学区葬が営まれ、寺内に分骨を納めたと言います。
 その後、同寺塔頭・本光院の僧・宮宇地日演の発起によって慰霊塔の建設が提唱され、他の6院も賛同し、建立が進められたのだそうです。
 ちなみに、宮宇地日演は後に妙蓮寺の住職も務めています。

 慰霊塔
 中央に「埋没四十一児童」とある

 慰霊塔
  7院の名を刻む

 碑文は長い文章ですが、台風の翌日に妙蓮寺で学区として供養が行われ、それが契機となって慰霊塔の建立につながったことが分かります。

 台風後、西陣小学校では建設中だった鉄筋コンクリート造の校舎が竣工しました。
 この災害は、京都で鉄筋校舎の建設を促したのでした。
 
 旧西陣小学校
  旧西陣小学校

 同校は、近年統合されて西陣中央小学校となり、別の場所に移転しました。この校舎も、現在は私立中学の仮校舎として用いられています。
 校内には、風害記念碑があるそうですが、自由に立ち入れないので、写真はありません。

 妙蓮寺の慰霊塔では、毎年慰霊祭が営まれているそうですが、年々参拝者は減っていると言い、月日の流れを感じさせます。


  芙蓉 妙蓮寺の芙蓉




 妙蓮寺 慰霊塔

 所在  京都市上京区寺之内通大宮東入ル
 拝観  自由
 交通  市バス「堀川寺之内」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『京都市風害記念誌』京都市役所、1935年
 「上方」46号、1934年10月


【新聞から】京都御所の事前予約なし通年公開が始まった





紫宸殿


 雨にしっとり、京都御所の通年一般公開スタート
 京都 2016年7月26日付 


 かねて話題になっていた京都御所の事前予約不要の公開が、7月26日(2016年)から始まりました。
 これまで予約なしの一般公開は、春と秋の年2回のみでした。

 今日は、あいにく朝から強い雨が降り続きましたが、京都新聞の見出しは「雨にしっとり」。
 
 休みは月曜日と年末年始、行事のある日で、それを除いて年間を通して公開。
 時間帯も、午前9時から午後5時まで(入場は4時20分まで)と、博物館・美術館などと同様の幅広い公開となりました。
 入場料も必要なく、無料です。

 京都御所清所門
  入口となる清所門

 清所門から入り、紫宸殿や清涼殿、さらに小御所、御学問所、御常御殿などを見られます。
 初日も、雨の中、外国人観光客も含む人たちが見学しました。

 希望者には、日本語・英語でのガイドツアーもあると言います。

 仙洞御所、桂離宮、修学院離宮でも、8月10日から、予約枠に加えて当日受付け枠(人数限定、先着順)が出来るそうです。

 清涼殿
  清涼殿

 この公開の目的については、検討段階での東京新聞の記事に次のように書かれています(2016年3月26日付)。

 [国の施設の] 一般開放の拡大をめぐっては、菅義偉官房長官が国施設の有効利用の観点から河野太郎行政改革担当相に検討を指示していた。訪日観光客の増加に向け、観光ビジョン構想会議(議長・安倍晋三首相)が今月中に取りまとめる新たな観光戦略に盛り込む。

 日本を訪れる海外ツーリストを意識したもので、観光振興の一環です。
 国の所有施設に限っての取り組みですが、文化財の「保存」から「活用」へとウェイトを移していこうとする試みです。文化財保護の観点に鑑みて、慎重に考えなければなりません。
 これについては、以前記事に書きましたので、ぜひご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <京都御所が通年公開されるという報道、今年度中にも実現?>

 今日の報道は、おおむねストレートな事実を伝える程度のものでした。
 私は、以前書いたように、今回の通年公開については手放しに喜べるものではないと思っています。どんな組織が、どのような考え方、意図のもとに、これを進めているのか考える必要があります。
 京都御所などは宮内庁の所管で、文化財ではあるものの、文部科学省、文化庁とは一線を画したところに置かれています。陵墓(天皇陵古墳)と同じ構図ですね。

 今後も動きを見守ってゆきたいと思います。




 京都御所

 所在  京都市上京区京都御苑
 見学  無料
 交通  地下鉄「今出川」下車、徒歩約5分


七本松通にある観音寺の山門は、伏見城から移築の伝承を持つ





山門門扉


 お寺が多い七本松通

 京都市内を南北に走る大通りと言えば、東から、東大路通、河原町通、烏丸通、堀川通、千本通、西大路通など。
 これらの大通りも、堀川通や烏丸通を除き、基本的には片側2車線。他都市に比べれば随分と狭いものです。
 その大通りの間に、中くらいの通りが走っています。

 千本通と西大路通の間にある中くらいの通りに、七本松通(しちほんまつどおり)があります。片側1車線の道路です。
 子供の頃から、ここはクルマでよく通りました。印象として、景色が開けているなあ、と感じます。

 七本松通
  七本松通

 高いビルがないせいもありますが、お寺が多いので、空が拡がっているのでしょう。

 七本松通は、豊臣時代の都市改造を経て、新たに造られた街路です。元和元年(1615)の開通ともされています。江戸時代では、およそ市街の内と外の境目にあたる辺りで、寺院が集まっています。『京都の大路小路』は、「「西の寺町通」といってもよいほど」と言っています。


 伏見城から移築の伝承

 大きなお寺としては、立本寺(りゅうほんじ)があり、他は小ぶりの寺院が並んでいます。
 その中で、目に留まったのが、観音寺。

 観音寺
  観音寺

 この山門が、伏見城の牢門を移築したものと伝えられています。
 罪人を釈放する際には、この門前で百回むち打ったので「百叩き門」と呼ばれたと言います。

 観音寺山門

 また、門のくぐり戸が風で開くとき、泣き声を発したとも言われます(『京都市の地名』)。ちょっと怖いですが、いまは釘付けされていて開かないとか。

 その門扉なのですが、クスノキの一枚板で出来ているそうです。

 山門門扉

 木目が横に走っていて、風格を感じさせます。

 山門門扉

 よくあるヒノキとは、若干違う感じですね。

 山門門扉

 懸魚はかぶら懸魚で、ひれが付いていて立派です。

 山門懸魚


 よなき地蔵と観音さま

 寺内に入ると、いくつかのお堂があります。

 よなき地蔵

 よなき地蔵尊

 よなき地蔵尊。
 怪異譚かと思いきや、こちらはどうやら赤ちゃんの夜泣きを抑えるお地蔵さんのようです。堂内の提灯に、かん虫封じとありますからね。

 千人堂

 千人堂扁額

 千人堂。
 数多くの人から信心されたということで、この名前が付いているそうです。疫病除けなどに信仰され、聖観音像が祀られています。
 この観音さんは、もとは一条戻橋のたもとにあったとも言われ、僧・浄蔵が父・三好清行を葬送時に蘇生させた際、祀った像とも伝えられます。

 石標

 「洛陽廿七番観音寺」とあるように、江戸時代には洛陽三十三観音の27番札所でした(現在とは異なる)。
 幅広く信仰を集めたわけですが、いまではひっそりとしています。




 観音寺

 所在  京都市上京区七本松通出水下る三番町
 拝観  境内自由
 交通  市バス「千本出水」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年
 竹村俊則『新撰京都名所図会 3』白川書院、1961年