文楽劇場、秋の公演・第二部より 国立文楽劇場、今年(2017年)秋の公演は、第一部(午前の部)が「鑓権三重帷子」などを上演、第二部(夜の部)は「心中宵庚申」を中心とする上演でした。
私は、第二部に行ってきました。
「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)は、享保7年(1722)に初めて上演された人形浄瑠璃で、作者は近松門左衛門。
近松は、「曾根崎心中」「心中天の網島」など数多くの心中ものを書いていますが、これは最晩年の50歳での仕事です。
心中ものは、当時の実話を脚色して書いたものが多く、言ってみれば “現代劇” なわけです。
テレビドラマに時代劇と現代劇があるように、文楽や歌舞伎にも時代物と世話物があります。世話物が、現代劇ですね。
この「心中宵庚申」は、享保7年、つまり作品が書かれた直前に起きた事件を、すぐに人形浄瑠璃に仕立てて上演したものです。
実際の心中は、4月6日(これがタイトルになった「庚申」の日の朝ですが)に起きました。大坂の生玉(生国魂)神社の馬場先で夫婦の心中が発見されたのです。
これが複数の作者によって劇化され、近松の「心中宵庚申」も、事件から僅か半月後の4月22日に上演されています。
私たちの感覚で言えば、テレビの再現ドラマを見ているような感じでしょう。それだけに、当時の人たちにも、リアルに受け止められたと思われます。

大坂の世相も反映
心中した二人は、武士から八百屋の養子になった半兵衛と、その妻・お千世です。
上演は、お千世の実家、南山城の上田村から始まり(上田村の段)、次に大坂・新靫(うつぼ)油掛町の八百屋に移ります(八百屋の段)。ここは現在の大阪市西区で、半兵衛が養子に入った八百屋・伊右衛門の店があるのでした。
夏も来て。青物見世に。水乾く。筵(むしろ)庇(ひさし)に避けられし。日影の千世が舅(しゅうと)の家は新靫。油掛町八百屋伊右衛門。浄土宗の願い手、了海坊の談義に打込。開帳、回向の世話焼き仲間。見世は半兵衛に打任せ大坂中の寺狂ひ。
八百屋の段は、このように始まります。
半兵衛の義父・伊右衛門の紹介がされています。
伊右衛門は、浄土宗の僧侶・了海坊の説法に魅せられて、お寺の開帳などのお世話もする信心家です。そのため、店は息子・半兵衛に任せっきりで、お寺参りに明け暮れる「寺狂い」です。
ここで登場する了海坊。
この僧、実在の人物なのです。
当時、大坂でも法華宗(日蓮宗)が勢力を増していましたが、浄土宗の彼は法華宗を攻撃する説法を行います。挙句の果てには、日蓮上人の人形を市中に引きずり回した、という過激な人でした(『大阪人物辞典』)。
ただ、正徳4年(1714)の飢饉の際には、人びとに施しを与えるなど、いわゆる社会事業も行ったといいます。
「心中宵庚申」の「了海坊」は、この人物を指しているとみて、ほぼ間違いないでしょう。
ただし、了海の没年は享保4年(1719)で、作品が上演される3年前です。
ということは、この作品はリアルに大坂の世相を捉えているものの、“近過去” の設定にしているといえなくもありません。
こういう描写は、物語の本筋とは関係ないと思われるのですが、観客にリアリティを与えるものになったでしょう。

仏法と茅家の雨は…
同じように、舅の言葉には、仏教に関係のあるものがたくさん出てきます。
例えば、
仏法と茅家(かやや)の雨は出て聞け
なにか、ことわざっぽい響きですね。
このことわざ? は、次の文脈で出てきます。
仏法と茅屋の雨は出て聞けと。外へ出れば又有難い事も聞。此たび生玉大宝寺の開帳に築山を飾られたのも。筑後の川中島の四段目から出た事じやげな。こんな事も出にや聞かれぬ。アゝ有難い南無阿弥陀仏と。輪数珠繰り繰り出にけり。
「外へ出れば、またありがたいことも聞く」とあるように、仏教の説法は外に出ていって聞かないといけない。これは、茅葺き屋根の家にいると、屋根に当たる雨音は聞こえないから、外に出て聞かないといけない、というのと同じである。といった、ことわざなのでしょう。
つまり、家の中に閉じこもっていては見聞も狭くなり、井の中の蛙になろうというものです。
外に出て聞いた話として、大坂・生玉の大宝寺というお寺で開帳をやったとき、竹本筑後掾(義太夫)の人形浄瑠璃「信州川中島合戦」四段目の築山(つきやま)を模した飾りを造った、というものをあげています。
「信州川中島合戦」は、近松自身の作品で、享保6年(1721)8月の初演。つまり、「心中宵庚申」の前年にかけられた人形浄瑠璃なのでした。
四段目では、秋の紅葉の山が舞台のようですから、その山をかたどった築山をお寺に造って、参詣者を楽しませたのでしょう。
そういう巷の噂も、外に出ないと聞けないよ、と舅は言うわけです。
なかなか含蓄が深いですね。
「訴訟」という言葉
信仰に入れ込んでいる舅・伊右衛門が出て行くと、半兵衛と義母が残されます。この義母(姑)がお千世をうとんじて、半兵衛と離別させようとしているのでした。
半兵衛は、義母がお千世を離縁にしたとなったら母としても体裁が悪いだろうから、自分が妻を離縁した形にします、と切々と懇願します。
この願いは義母に受け入れられるのですが、そのあと半兵衛とお千世は、家を去り、心中するのでした。
文楽では、登場人物が切々と心境を吐露する長いセリフがあります。これをクドキ(口説き)と呼んでいます。現代でも「男性が女性を口説く」などと使いますね。長々とした説得のことです。
文楽の場合、このクドキを行うのは女性と相場が決まっています。ところが、「心中宵庚申」では主人公の男性・半兵衛が長口舌をふるうわけです。
その義母へのお願いセリフのなかで、何度も出て来る言葉が「訴訟」です。
現在でもつかわれるこの言葉、どういうふうに登場するのでしょうか。
母の悪名を立て若い者の人中へ面が出されませうか。親仁様にも面目失はする爰(ここ)が一ッの御訴訟。少しの間と思召(おぼしめし)虫を殺し。美しう千世めをお入れなされ。その上にて私が。物の見事に去状(さりじょう)書いて暇やります。
(中略)
十六年此(この)かたたつた一度のご訴訟。老少不定の世の中たとへわたしが先立つても。いか成(なる)跡の問ひ弔ひ百万遍の御廻向より。聞入れたとの御一言。智識長老のお十念を授かる心と計にて。(後略)
半兵衛は、あわせて3度ばかり「御訴訟」という言葉を繰り返します。特に、“養子に入って16年間お母さんにお世話になってきて、たった一度の「ご訴訟」なんです” というところは、力がこもっていますね。
『新編日本古典文学全集』の註には、「御訴訟」の意味を「お願い」としています。
『日本国語大辞典』を調べると、「訴訟」の意味として、3つあがっています。
一番目は、「うったえること。公の場に訴え出て裁決を願うこと。うったえ。公事(くじ)」とあります。
これは半兵衛には当てはまらなさそうです。
二番目、「要求、不平、願いなどを人に伝えること。嘆願すること。うったえ」と書いてあります。
そう、これが半兵衛の「御訴訟」ですね。
ちなみに三番目は、いまの裁判を指す訴訟です。
なかなかおもしろいですね。
このあと物語は、半兵衛から千世に去り状、いわゆる三行半(みくだりはん)が出されます。夫から去り状を出されたことを「未来迄の気がかり」という千世に、半兵衛は「女夫(めおと)連れで此(この)家を去ると思へばよいわいの」と諭します。
そのあとの詞章。
「ほんにそうじや手に手を取つて此世を去る。輪廻を去る。迷ひを去る」。けふ(今日)は最期のひつじの歩みあ。し(足)に任せて。
ふたりは、あの世に旅立ちます。

「心中宵庚申」。江戸時代の大坂で起こった実話にもとづいた作品です。
心中宵庚申
公演 国立文楽劇場にて2017年11月上演
【参考文献】
『新日本古典文学全集 近松浄瑠璃集 下』岩波書店、1995年
『新編日本古典文学全集 近松門左衛門集2』小学館、1998年
三善貞司『大阪人物辞典』清文堂出版、2000年
秋の連休、まち歩き 10月、体育の日を含む3連休に、まち歩きツアー<まいまい京都>で解説をしてきました!
この日は、10月とは思えない暑い日で、まち歩きには少し厳しい一日でした。
コースは、まず西梅田に集合。
そこから、「大阪市パノラマ地図」を見ながら、100年前の街をイメージしつつ歩きます。
大阪市パノラマ地図は、大正13年(1924)1月に発行された鳥瞰図です。
その名の通り、当時の大阪市全域を収めています。
今回は、そのうち、梅田~堂島~肥後橋あたりを巡りました。
まいまい京都撮影
写真は、現在、堂島アバンザとなっている旧毎日新聞社屋のモニュメントです。
大正時代に建てられた大阪毎日新聞の本社屋の玄関廻りを残したもの。竣工時の写真と今の記念物とを見比べながら、同じですねぇ、と感心したのでした(笑)
いまは失われた堀割の跡、江戸時代の蔵屋敷跡、水の都の川や橋、名建築、古い小道など、みどころ満載のコースとなりました。
約20名の参加者のみなさんにも、満足いただけたものと思います。
とても興味深いパノラマ地図。
また別のコースを歩いてみたいですね。
まいまい京都撮影
解説中の筆者
今日は台風接近 今日(2017年9月17日)は、関西に台風18号が接近中。
京都でも、雨はほとんど降らないものの、朝から強風が吹き荒れています。
この季節は、ご承知の通り台風シーズン。たとえば、戦後まもなくは数多くの強い台風ーー枕崎台風、伊勢湾台風、第二室戸台風などーーが列島を襲いましたが、特に枕崎台風は昭和20年(1945)9月17日に鹿児島県枕崎市に上陸、3000人以上の死者・行方不明者を出す大災害となりました。
室戸台風の被害
関西を直撃し大きな被害を与えた台風のひとつに、室戸台風があります。
昭和9年(1934)9月21日、高知県の室戸岬付近に上陸し、大阪湾を北上して、大阪や京都など各府県で甚大な損害が出ました。死者・行方不明者は、約3000人にのぼりました。
近年、日本ではこれほどの人的被害の出る台風はありませんが、海外では同様のことが起こっています。戦前戦後と大きな被害を教訓に、気象情報や河川改修などさまざまな対策が施されてきたことが理解できます。
室戸台風については、このブログでも何度も取り上げました。
今回、それを振り返ってみたいと思います。
まず、このブログにも関係の深い文化財への被害。
大阪では、江戸時代に建立された四天王寺の五重塔が倒壊するというショッキングな出来事がありました。
京都でも、寺社の建築が崩壊し、たいへんな損害が出ています。
ブログでは、雑誌「上方」に掲載された写真で紹介しました。
⇒ <昭和9年の室戸台風は、京都の文化財にも大きな被害を与えた>

妙蓮寺の慰霊塔(上京区)
もちろん、人への被害は痛ましいものがありました。
朝の8時頃に襲来したので、通学して学校に来ていた児童が大勢いました。木造校舎が多かった当時、校舎の倒壊によって、尊い生徒、教員らの命が失われました。
それを悼んで、京都市内には慰霊碑や銅像などが残されています。
上京区・妙蓮寺の慰霊碑については、こちらをご覧ください。
⇒ <妙蓮寺の慰霊塔は、室戸台風で亡くなった児童41名を悼む>
また、知恩院の南門脇には、生徒を守る先生をモチーフにした「師弟愛の像」が建っています。
⇒ <室戸台風の惨状を今に伝える師弟愛の像>

師弟愛の像(東山区)
今これを書いている時点で、台風18号は高知県を東進中です。京都でも、外の風音がかなり強くなってきました。
十分お気を付けいただきたいと思います。
大阪天満宮のそばにある繁昌亭 これまで私は、歌舞伎や文楽は好きでちょこちょこ見に行っていたのですが、寄席には余り行く機会がありませんでした。
寄席の芸の代表といえば、現在では落語ということになるでしょう。
今年は、2月に少々聴くチャンスがあったのですが、半年ぶりにちょっと行ってみるか、ということで寄席を訪ねてみました。

大阪天満宮です。
この天満宮のそばに、天満天神繁昌亭があります。

天満天神繁昌亭 (大阪市北区)
天満天神(てんまてんじん)繁昌亭(はんじょうてい)は、大阪天満宮の北に隣接しています。
上方落語の定席、つまり毎日興行している寄席で、2006年にオープンしました。早いもので、この9月で11周年になります。
私も、開業まもない頃だったか、友人たちと行ったことがあるのですが、その後はご無沙汰していました。
今回、ちょっと寄席のことに関心が出てきて、行ってみるかな、と思ったのです。
平日の午後、繁昌亭を訪ねました。時刻は、正午を30分過ぎたところです。
窓口で当日券を買うと、

整理番号は、なんと100番!
これは気分いいですね(笑)
12時半の開場時刻になると、大勢のみなさんが列を作りました。
この日は、平日ということもあって、1階の約150席のみの運用でした。ただ、私が100番ですし、みたところ120~130人は入っているなという感じで、盛況でした。
落語に加え、浪曲も

写真の上段が、私が行った昼席の出演者です。
落語8席に加え、浪曲と三味線漫談があります(赤字の名前)。
みなさん、たぶん、三味線漫談ってなんだ !? と、まず思うでしょう(笑)
それにお答えしておくと、女性の落語家・林屋あずみさんが三味線を持って現れ、話をしたり、三味線を弾きながら小唄みたいのを唄ったり、なんかそういう感じです(うまく説明できないですが…)。牧伸二のウクレレ漫談みたいかなと期待してたのですが、そこまで芸として練られてなかったですかね。
開演は、13時。
まず、すごく若そうな桂小留(ちろる)という噺家さんから始まり、70歳を超すベテランまで、8人が替るがわる登場。若手からベテランまで、たっぷり聴かせますね。
ひとりひとり、個性が全く違いますから、聴いていてあきません。ひとり15分くらいなのですが、あっという間に過ぎていきます。
やはり、寄席は噺家さんとお客さんの “対話” みたいなところがあって、特に枕ではお客さんに話しかけて来られますし、噺の途中でもそういうところがあって、一体感があります。
笑っているうちに、16時すぎ打出しとなりました。
私の前に座っていたご婦人は、桂三若の大阪人の特徴を捉えたネタに、大爆笑でした。ずっとゲラゲラ笑ったはりましたね。確かに、心当たりのある指摘 ? が多かったのでしょう(笑)
私は、よっぱらいの生態をほんとうに酔っているかのごとく噺し切った立花家千橘さんの噺が記憶に残りました。
繁昌亭の周辺を歩く
落語を楽しんだあと、繁昌亭の周辺を散歩しました。
というか、それが今日のもうひとつの目的です。

大阪天満宮の北側、つまり裏の鳥居です。
こちらの側は、俗に裏門と呼ばれていました。
古風に言うと、天満天神の裏門。このあたりには、江戸、明治の昔から芝居小屋や寄席が立ち並んでいました。

いまは、繁昌亭以外には全く面影はありません。
しかし、かつては、天満座という劇場もあり、寄席も落語のほか、浪花節、講談、新内節など、時代によって異なりますが、7、8軒の寄席がひしめいていました。
つまり、この辺に来ると、ひと通りの芸能が楽しめるわけです。
これらの北東には、亀の池という名の池がありました。

亀の池
昔の史料を見ていると、こっち側はちょっとしっぽりしたエリアだったそうで、明治後期の新聞などではこの辺を「霊符(れいふ)」と呼んでいて、待合があった場所なんですね。
霊符と言うのは、天満宮の末社の霊符社があることによっています。
そんな感じで、天満宮の裏門あたりは、なかなかおもしろいエリアだったようです。
天満天神繁昌亭にも、また行ってみたいと思います。
天満天神繁昌亭
所在 大阪市北区天神橋
観覧 朝席、昼席、夜席の各種あり
交通 JR「大阪天満宮」下車、徒歩約3分
【参考文献】
中川桂「明治・大正期 天満天神付近の興行街」(「演劇学論叢」7号、2004年)
屋久健二「近世大坂天満宮の茶屋仲間」(『シリーズ遊廓社会1』吉川弘文館、2013年)
「真珠の小箱」「美の京都遺産」から「京都知新」へ 前回書きましたが、4月から勤務体制が変わって、土日が休みになりました。
しかし、休日も結構早起きで、6時とか7時には起きています。この日曜日も、6時前に起床しました。
すると、やっていたテレビ番組が「京都知新」(毎日放送)。
毎日放送(MBS、関西の4チャンネル)の日曜朝といえば、長らく「真珠の小箱」が看板番組でした。スポンサーの近鉄の沿線、つまり、奈良、伊勢・志摩などの名所旧跡、文化財を紹介する珠玉の紀行番組でしたね。少年時代、奈良好きだった僕には、懐かしい存在です。
それが惜しまれつつ終わったあと、京都にシフトチェンジして「美の京都遺産」になりました。これも10年以上つづいたけれど、昨年3月に終了して、そのあと番組が「京都知新」というわけです。
説明が長くて、すみません……
その「京都知新」の今朝のテーマが、京都の企業・便利堂のコロタイプ印刷でした。
懐かしの便利堂、コロタイプ
博物館、美術館好きのみなさんなら、便利堂という社名はご存知でしょう。
僕は、少年時代、京都国立博物館に行ったとき、確か新館の1階に狭いショップ(というより売店程度)があって、そこにミニチュアの屏風とか絵巻物とか、絵はがきとかが置いてあって、そういうのが欲しかった記憶があります。
のちに知ったのが、写真印刷を応用してこのようなグッズを作っていたのが便利堂だったということです。
本物の絵巻物を少し小さくして、かつモノクロで複製した絵巻物、こんなものがコロタイプ印刷という技術で作られていました。
現在、多くの写真印刷は網点による印刷を行っています。細かなドットによって写真の絵柄を表現しています。ルーペで拡大すると分かりますね。
一方、コロタイプ印刷は、網点を使わない印刷技術です。

『京都』より「六角堂」
昭和初期の写真集のモノクロ写真ですが、これがコロタイプによるものです。
ちょっとソフトな感じでしょう。
コロタイプの特徴のひとつが、この「網点のないなめらかで豊かな諧調表現」です(『明治の京都 てのひら逍遥』)。
つまり、色の変化などがスムーズに、自然に表現できるわけですね。
アップにすると、よく分かります。

『京都』より「神泉苑」(部分)
さざ波の部分。
網点がないから、いい雰囲気が出ます。
便利堂の出版物では
私が持っているもので、大正時代の便利堂が出した書籍に『日本古建築菁華(せいか)』があります。新聞記者で京都を愛した岩井武俊が出した大判写真集です。
国内の名建築を写真撮影し、解説を付けて3冊にまとめたもので、当時としては意欲作です。
この写真印刷を便利堂が請け負いました。

平等院鳳凰堂ですね。これもソフトタッチな写真です。
下は八坂神社、南の大鳥居。

デジタル写真に慣れた目には、少し頼りなく感じられるかも知れません。でも、こういう滑らさが好きという人も多いでしょう。
テレビ番組では、網点写真と比べて、小さく写った人の表情などがよく出ている、と言っていました。
コロタイプは、150年ほど前、フランスで発明された技術です。便利堂では、明治38年(1905)から手がけました。
ガラス板にゼラチンを塗布して、そこにフィルムから焼き付ける独特の技法です。
印刷時も、技師さんがインキを手で落として行ったりして、職人技のように見受けられます。
インキに耐光・耐候性があり、長期保存もできるため、その点でも文化財写真に向いているということです。
便利堂は、明治20年(1887)、貸本・売本兼出版業として中村弥二郎が創業。雑誌や書籍を刊行するとともに、絵はがきの製作などでも発展しました。
いまや “百年企業” ですが、近年、コロタイプの見直しを進めているということです。というのも、国内でコロタイプの技術を継承しているのは京都の2社だけだそうで、いまや文化財的な技術になっているからです。
味わいのあるコロタイプ。
若い人にも案外うけるのではないかと思いました。
【参考文献】
岩井武俊『日本古建築菁華』1919年、便利堂コロタイプ印刷所
『京都』京都市役所、1929年
『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』便利堂、2013年