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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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3つの禅寺の庭を見て、方丈と庭の関係について考えた

洛西





龍安寺


 3つの禅寺を訪ねる

 先日、京都市街の北西にある3つの禅寺を訪れました。
 妙心寺天球院、龍安寺、大徳寺大仙院です。

 妙心寺の塔頭・天球院は、2013年3月から5月まで開催されていた「狩野山楽・山雪」展(京都国立博物館)で、その障壁画「朝顔図襖」「梅花遊禽図襖」を出品しました。今回は、朝顔図などが京博に寄託となって、そこだけ巧妙な複製品に入れ替えられました。
 そのあと、妙心寺の北にある龍安寺へ。実に久しぶり。誰もが知っている石庭のある寺。
 最後に、予定にはなかったのですが、大徳寺の塔頭・大仙院で枯山水の庭などを拝見しました。尾関宗園師もいらっしゃいましたね。


 龍安寺の石庭はどう見られたか

 まず、龍安寺の石庭について考えてみましょう。

龍安寺


 この庭には15の石が配されており、俗に“虎の子渡し”と言われることは、とても有名ですね。しかし、いつ誰が造ったのか、確かなことは分からないのです。
 それでも、というかそのせいで、さらにミステリアスに人々を魅了し、私が訪れた日もひっきりなしに拝観者が押し寄せていました(とりわけ欧米の人達が目立ちます)。

 ところが、このシンプルな石庭は、いつから現在のように大勢の人に見られるようになったのでしょうか。

 明治、大正時代の旅行案内書などを調べてみると、案外この石庭の扱いが小さいことが分かります。
 例えば、紀行文も得意とした作家・田山花袋の『京阪一日の行楽』(大正12年=1923)には、金閣寺を拝観したあと等持院で足利氏の木像を見て、次のように記します。

 等持院から嵯峨の仁和寺まではいくらもなかつた。寺を出て真直に西に向つて行くと、谷口のちよつとした部落があつて、それを右に行けば龍安寺、左に行けば仁和寺の塀に突当つた。(中略)この路はひとり手に人をその寺の裏門へに[ママ]伴れて行つた。(532ページ、「仁和寺」)

 と、龍安寺を素通りして仁和寺へ行ってしまうのでした。

 また、さかのぼって明治の文学者・野崎左文の『日本名勝地誌』第一編(明治26年=1893)には、次のように取り上げられています。

龍安寺
 大雲山と号す(中略)本堂は元と東福寺の昭堂を移し建立せし者にして天井の蟠龍及び迦陵頻の画図は同寺の兆殿司の揮毫なりとぞ、方丈は勝元の居館を以て直ちに之に充てたる者にして、庭前の仮山碧池、皆其嗜好に拠て構造し最も奇雅を極む、殊に其地北に衣笠山を負ひ南陽に面するを以て厳冬も暖気他に優りたる者あるより水鳥の来て庭池に浴する者多く、古へより龍安寺の鴛鴦[おしどり]と称し京都近傍の一奇景となれり (132ページ)

 
 ここには、「庭前の仮山碧池」とあり「仮山」は築山などを指す語で、それらは細川勝元の嗜好に沿ったものだと記しながら、ことさら石庭を強調するような書きぶりではありません。むしろ、オシドリが名物と言っているくらいです。この記述は「都名所図会」(1870年)を引き写しています。つまり、江戸中期から、こういう認識なのですね。

 もちろん、戦前こちらの石庭が有名でなかったと言っているわけではありません。すでに大正13年(1924)には国の史跡名勝に指定されているのです(昭和29年に特別名勝)。
 昭和9年(1934)、毎日新聞の北尾鐐之助が著した『京都散歩』(「近畿景観」第5編)がおもしろいので、引いておきましょう。たまたま私同様、同じ日に大仙院と龍安寺を訪ねたのでした。

 大仙院をみた眼に、龍安寺に来ると、これが同じ相阿彌の作だとはどうしてもおもはれない。
 (中略)
 私は広い方丈の縁に立つて、閉め切つた障子をそつと引き明けると、畳の上に妻と向き合つて坐つてみた。縁先きに立つてゐたのでは、或ひは石をみる観点が違ひはしないかとおもつたのである。
 ……かうしてみると、また感じがちがふね。
 さう云つて、私は夕暮れの寒い何もない石の庭を、再び仔細らしく見廻した。
 (中略)
 この庭は、相阿彌が晩年における、内面的な一つの要求の現れだといふやうに説いてゐるものと、いやさうではない、むかしこゝに住んでゐた細川勝元が、その信仰する男山八幡を拝するために、いつさいの樹木を除いて、かういふ庭を相阿彌に作らせたのだといふものもある。いまでは、その男山八幡の山を見渡す景色などは全く見えなくなり、近頃立つたらしい卒塔婆が一本、土塀の屋根越しに覗いてゐる。
 この有名な「虎の子渡し」の庭を作つたのは、相阿彌ではなくて金森宗和だといふやうな話もあるが、かういふ一木一草も用ひず、大小十五個の石を、五十幾坪の白砂の庭に、七、五、三に並べた丈けの庭といふものは、なるほど大徳寺の龍光院にある金森宗和の七五三の庭を除くと、さうは見当らない。その奇抜さが、古来、想像を超越した素晴らしいものとなつてゐる。(169-172ページ、「大仙院と龍安寺」)


 このように北尾は書き、さらに当時の著名人-室生犀星、志賀直哉、笹川臨風、荻原井泉水-らの意見を紹介して、「かういふ諸氏の考へ方を読むと、この庭の存在が、いかにも神秘的な絶対的なものになつて来て、何か変つた讃め方でも考へねば、嗤[わら]はれるやうな気もして来る」と述べるのです。

 ……御覧。荻原さんは石が隠れんぼうをしてゐるといふんだな。どこからみても石の一つが隠れて、全部が見えない。
 ……さうですか。
 と云つて、妻は立ち上ると、冷々と乾き切つた縁の上をあちこちと爪先きであるいて、うなづきながらまた石を数へはじめた。
 ……あれも石ですか。
 みると、一番左の石の前に、小さい不思議な白い砂が二つ、盛り上つてゐるのが見える。
 (中略)
 その外には、何ものゝ一点をも許さない白砂の上に、処女の乳房のやうな二つの砂盛りが作られてある。この小さい瘤起[りゅうき]は、古来どこの記録にも見当らないものだ。
 ……石ではないらしいが、相阿彌は銀閣寺にも、向月台、銀沙灘などゝ云つて、かういふ砂盛りを作つたんだ。
 私は手帳を出して、忘れぬやうにその不審を書きつけたりした。
 (中略)
 私は、帰り際に、庫裏の庭に立つて寺僧と話しかけた。
 ……昨日も雨で、けさ砂を浄めましたところです。あの、左の石のところに、二つばかり砂がもち上つてゐませう。なほしても、なほしても、むぐらがもち上げて実に困つとります。
 ……むぐらですか。
 私はびつくりしてさう叫んだが、とうどう笑ひ出してしまつた。石ばかりの龍安寺の庭ほど、古来、原型を失はぬ名園はないと云はれてゐるが、古来ないものに、土竜[もぐら]の作つた砂盛りが二つある。それにしてもよい事を聞いたものであつた。
 うつかり庭園研究家のやうな顔して、相阿彌を土竜にしてしまふところだつた。
 ……馬鹿な土竜だ。
 と云ひ云ひ、私たちは赤松林の石段を下りて行つた。(173-175ページ、同)



 方丈の庭

 北尾鐐之助は、モグラの逸話を通して、この庭についてとても大切なことを伝えています。
 「庭園研究家のような顔して」「何か変った讃め方でも考えねば、嗤[わら]はれるやうな気もして来る」龍安寺の石庭。ちょっと厄介です。

 下の写真は、私が訪ねた日の拝観者の様子です(ちなみに撮影しても構わないそうです)。

龍安寺

 方丈の広縁のさらに先にある落縁に、ずらっと拝観者が座り、石庭を眺めています。
 先ほど、北尾鐐之助が眺めたのは方丈の室内からでした。今は縁しか歩けないので(また人が一杯なので)、おのずと最前列に座って見ることになります。
 庭を熱心に見入る拝観者は、しかし後方の建物を意に介することはありません。けれども、この庭が建物(方丈)に付随するものであることは間違いないのです。

 方丈。
 ふつうこんな感じの建物です。

東福寺方丈
  東福寺方丈

 間取りは、6室から構成され、3室が2列に並んでいます。

 方丈間取り図
  方丈の間取り図(『京の禅寺』より)

 上の龍安寺の拝観者の写真でいうと、みなさん「広縁」と書かれたあたりに座られ、その下に広がる庭をご覧になっている、ということになります。

 方丈には本寺の方丈と、塔頭の方丈とがありますが、後者の場合、いわゆる本堂を兼ねるものでした。図の下の3室(前方丈)には、仏事などが行われる室中があり、のちには仏壇が置かれ、位牌などを祀りました。礼の間は接客スペース、檀那の間は来客のスペースです。一方、図の上の3室(内方丈)は住持の生活スペースで、右上に昼間の生活の場である書院があり、もともとは中央に眠蔵、つまり寝室がありました。書院は、住持の居住スペース兼書斎で、床、棚、付書院がある部屋です。


 性格の異なる南庭と東庭

 方丈は、図で分かるように、基本的に四周を庭で囲まれていることになります。そのうち、一番大きいのが南の庭になります。
 この南庭の例を写真で見てみましょう。

南禅寺方丈
  南禅寺方丈

東福寺方丈
  東福寺方丈

 いずれも、いくつかの石と樹木が配されていますが、大きなスペースを占めるのは白砂です。そういう点では龍安寺と同様です。

 一方、方丈の東の庭は趣きが異なります。
 私が訪ねた大仙院は、このような感じです(北尾鐐之助の写真=1934年です)。

大仙院の庭(北尾鐐之助撮影)
  大徳寺大仙院の庭(『京都散歩』より)

 写真の左には、方丈の東の縁が写っており、その脇の部屋は書院になります。
 大仙院の庭は、逆L形になっていて、カギの手に曲がっています。書院は、写真に写っている明り障子が開けられるとともに、北面に設えられた袋棚も開けられます。そのため、室内から北から東へと続く庭が眺められるようになっています。
 ここでもう一度、北尾の言葉を引いてみましょう。

 暫く雨にうたれる石の面をながめてゐると、今のこの狭さでは少し石が多過ぎるなとおもつた。渓流の裾の方にある縁の近くに、一つ大きな岩をどかりと据ゑたところなど、はじめはそのやり口に度胆をぬかれて、可なり感服したが、だんだんとみてゐるうちに、少しうるさいといふ感じがし出す。椿の刈込みを利用した滝口の布置には、なるほどゝ堪能するものがあるが、その他の手法については、少し技巧が過ぎて神経を使ひ過ぎてゐるとおもふ。(168ページ、同)

 実際に大仙院に行ってみると、この感想と似たような気持ちになるでしょう。非常に狭いスペースに、多数の石が配置され、水の流れなどが表現されています。
 北尾は実にいいところを見ています。ところが、一歩引いて書院の中から眺めればどうなるでしょう。おそらく、少し距離が出て、カギの手に折れ曲がった庭の広がりを感じられるのではないでしょうか。

 このように、同じ方丈の庭でも、南庭と東庭では全く表情が異なります。
 これには理由があります。もともと方丈の南庭は晋山式(住持の就任式)など、儀式が行われる場でした。そのため、木や石があっては邪魔になり、白砂が引いてある程度の空間でした。また、方丈の南側の部屋(特に室中)も儀式的、儀礼的な性格を持っていますから、そこから庭を眺めるということは不自然なことでした。もちろん、現在のように縁に座って庭を見ることは、なかったのでしょう。
 これが崩れて、龍安寺のように庭の真ん中に石を配したりするのは、近世的な現象と考えられます。

 一方、東庭は、住持の居室に面していましたから、部屋から眺められるのも自然でした。そして庭の造りも、書院の側から見て成り立つような構成になっているのです。少し込み入った印象を受ける庭もあるのは、狭い空間を奥行きのあるように見せる工夫なのでしょう。

 このことを実感したのは、同じ日に訪れた妙心寺天球院でした。

妙心寺天球院
  天球院方丈

 天球院の方丈は、通常とは異なり、北西の角に書院が設けられています。そこには西面した付書院があり、縁ごしに庭が望めます。

妙心寺天球院

 印象的なのは、左奥に紅葉が植えられていること。この樹が、左奥から手前へ向かって伸びていて、見事な眺めを作っています。また、手前側には石灯籠と蹲(つくばい)があり、隅を抑える格好です。
 これを反対から見ると、紅葉の伸び方が逆になり、様にならないのです。

 なんということはない小さな庭なのですが、東庭(ここでは西庭)が持つ意味を実感させてくれる、よい庭に巡り合ったのでした。




 龍安寺
 所在 京都市右京区龍安寺御陵下町
 拝観 大人500円など
 交通 市バス竜安寺前下車、徒歩すぐ

 大徳寺大仙院
 所在 京都市北区紫の大徳寺町
 拝観 大人400円など
 交通 市バス大徳寺前下車、徒歩5分

 妙心寺天球院
 所在 京都市右京区花園妙心寺町
 拝観 特別公開時のみ公開
 交通 JR花園駅下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 野崎左文『日本名勝地誌』第一編 五畿内之部、博文館、1893年
 田山花袋『京阪一日の行楽』博文館、1923年
 北尾鐐之助『京都散歩』(近畿景観シリーズ5)創元社、1934年
 芳賀幸四郎ほか『京の禅寺』淡交社、1960年
 白幡洋三郎『庭[にわ]を読み解く』淡交社、2012年


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