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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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江戸時代から観光客に人気だった三十三間堂の「通し矢」

洛東




三十三間堂


 江戸時代の通し矢ブーム

 三十三間堂といえば、今日でも1月中旬に行われる「通し矢」が有名です。
 現在は、新成人らが60m先にある的を射る大会になっていますが、江戸時代のブームは様相が異なっていました。
 三十三間堂の西縁に座って、南から北へ向かって矢を射通す“つわもの”たちの腕比べでした。

 三十三間堂
  南の端から向うの端まで射通す

 詳しくは、以前書いた記事をどうぞ。 ⇒ <三十三間堂の正月行事「通し矢」、昔と今はどう違う?>


 「花洛名勝図会」の通し矢の絵

 文久2年(1862)に上梓された木村明啓・川喜多真彦撰「花洛名勝図会 東山之部」は、幕末に刊行された代表的な京都案内書のひとつです。「東山之部」とあるように、当初は洛陽之部や北山之部など、京都全域をカヴァーするべく企画されましたが、結局「東山之部」しか出版されませんでした。寺社の詳しい鳥瞰図や催事等をクローズアップした絵柄に見るべきところがあります。

 三十三間堂も、付近の鳥瞰図は「都名所図会」(1780年)を踏襲しているのですが、ここに紹介する絵柄は、なかなか興味深いものです。

「花洛名勝図会」より三十三間堂
 「花洛名勝図会」巻7

 題して「三十三間堂後堂[うしろどう]射前[いまえ]之所」。
 三十三間堂の西縁が描かれていて、遠近からやってきた参詣者が物珍しそうに観光しています。折しも、右手から数人の武士たちが現れました。縁の角にいる黒い羽織の侍は、柱に巻かれた黒い「鎧(よろい)板」を触っています。これが、通し矢の矢をガードする防御鉄板でした。

 三十三間堂通し矢

 現在も残る鎧板です。矢の当たった穴が開いていますね。

 ガードをしないと、この通り。

三十三間堂

 西縁の中央北側あたりですが、上部の組物に刺さった矢の痕跡が残されています(たぶん昭和の修理の時、ここだけ取り換えずに「記念」として残したのでしょうか)。

 絵に戻ると、後方の連れ二人は、上の方を指さしています。これは、長押の上に掲げられた額を見ているのです。多数の額は、ここで通し矢を行った武者たちが、自分の成績などを記して奉納したものです。絵を見ると、例えば角の上に掲出された額には「千発之内通箭[とおしや]五百口」と書かれています。的中率50%ですね。
 これらの額は、今では堂内に収納されているものもあります。
 ひとつ、おもしろい写真を紹介しましょう。

『京都古建築』より三十三間堂
 『京都古建築』より

 昭和19年(1944)に出された藤原義一『京都古建築』に収められた写真です。西縁を写していますが、縁にずらりと額が並べられています。撮影時期は不明ですが、おそらくは昭和5年から9年(1930-34)にかけて実施された修理工事の際、上から降ろされていたものでしょう。いかに多数の額が掲出されていたかが想像できます。

 
 「惣一」を争った男たち

 江戸時代の通し矢は、尾張藩と紀州藩の対決が凄まじく、射通した数のナンバーワン「惣一(そういち)」を競い合いました。「総一」とも書き、「天下一」などとも言いました。
 寛文9年(1669)、尾張の星野勘左衛門は、10,542本のうち8,000本を射通し、惣一となりました。余力はあったけれど、あえて後の人のために8,000に止めたといいます。
 対する紀州勢は、貞享3年(1686)、前髪の少年、和佐大八郎が挑戦し、13,053本中、8,133本を通し、レコードを更新しました。この時、星野勘左衛門も観戦していましたが、若い大八郎を思いやって、記録を達成させるために彼の左手を小刀で突いて血を出させて射させると、たちまち調子が良くなってレコードを出したと伝えます。
 江戸のライバル物語です。

 それから約180年後に刊行された「花洛名勝図会」巻8は、二人が奉納した絵馬を模写して掲載しています。

  「花洛名勝図会」より三十三間堂
  「花洛名勝図会」巻8より。上が和佐大八郎、下が星野勘左衛門

 いま三十三間堂に展示してある実際の絵馬と比べると、この模写がいかにリアルかが分かります。矢の数や日付なども克明に書き写してあります。
 幕末でも、通し矢に対する関心が高かった証でしょう。

 「花洛名勝図会」は、大八郎のライバル・星野勘左衛門のその後をこう記しています。

 この星野、永く世に在らば又々惣一を射べきに、惜いかな、それより程もなく世を去りぬれば、度々大矢数張行の人はあれども、これを射越すほどの精兵なし。

 ライバル物語は、星野の死によって、あっけなく幕切れとなったのでした。


 三十三間堂




 三十三間堂(蓮華王院)

 所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観:大人600円ほか  
 交通:京阪七条駅より徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1862年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年


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