三十三間堂は、かつて極彩色と丹塗りに輝いていた
|洛東|

発見された極彩色の文様
三十三間堂を訪れて堂内を進むと、上部の梁をライトアップしている箇所があります。
よく見ると、そのあたりに微かな彩色で文様が描かれていることがうかがえます。
実は、昭和5年(1930)から実施された昭和の大修理の際、梁にある蓮形の鏡座(もとは装飾鏡が取り付けてあった)の下から鮮やかな文様が現れたのでした。

丸印が鏡座のひとつ(『京都古建築』より)
藤原義一『京都古建築』の口絵に紹介された文様の図です。


鏡座の下に描かれた文様(『京都古建築』より)
左は牡丹でしょうか、右は五色の雲のようです。
ここでは、藤原義一博士の文を引いておきましょう。
昔は堂内一帯に、極彩色を以て装飾文様や絵画が描かれ、虹梁の下面には鏡を取りつけて、観音浄土にふさはしい善美をつくしてゐたが、今は多く剥落し或はすゝけ、鏡も毀れて、文様らしいものも見えず、鏡の取りつけてあつた蓮座のみが虹梁の下に残つてゐる。
併し黒く煤けた棰[たるき]などをよく調べると、一部に文様の描かれてゐるのが微かに認められ、また虹梁下面の蓮座を外すと、その下には美しい極彩色の絵画が色も鮮やかに残つてゐるのである。それ等の絵画には、牡丹があり、蓮があり、雲や飛天があり、宝相花[ほうそうげ]様の花もあり、蓮華にも散蓮華や美事に咲いた蓮華があり、葉を描いたものもある。一般に写実的な絵画であるが、中には多少図案化したところもあり、装飾画の描かれた頃の堂内の美観がしのばれる。(『京都古建築』237ページ)
落ち着いた文章の中にも、その目で文様を見た藤原博士の興奮が伝わってくるようです。
『三十三間堂』には、どのような文様が描かれていたか、詳細に報告されています。
*柱:宝相華唐草文、菩薩像など
*飛貫・頭貫・長押:宝相華唐草文、繧繝の線条文など
*斗栱:繧繝の線条文など
*虹梁:宝相華唐草文、天人、蓮華、牡丹花など
*蟇股:瑞雲など
*垂木:蓮華菱文など
*間斗束:線条文など
*支輪・折上組入天井:蓮華文など
宝相華唐草文や蓮華文などはもちろん、菩薩や天人まで描かれていたとは驚きです。
外観も丹塗りだった

堂内が浄土を表す極彩色に彩られていた三十三間堂ですが、その外観も実は「丹(に)塗り」でした。
このことは、各種の洛中洛外図屏風など、カラーで描かれた絵からうかがえます。柱や長押など木の部分は赤い彩色で、連子窓は緑色に塗られていました。
鎌倉時代(1266年)に再建された三十三間堂は、その後何度か修理を受けていますが、豊臣秀吉による天正の大修理の際、外観の塗り直しが大規模になされたようで、その後まで相応に残っていたようです。
明治初期、京都府によって行われた社寺調査でも、その事実は確認できます(「四百年前社寺建物取調書」)。
三十三間堂を管理する妙法院が明治17年(1884)に報告したところによれば、「(前略)丹塗 [割注]堂内垂木等彩色アリト雖トモ年古ク明瞭ナラス」と記されており、添付された淡彩画にも外観は赤っぽく描かれていて、明治の初めでも丹塗りであったことが分かります。
それ以後の色の剥落過程は詳らかではありませんが、現在でもお堂の外に朱色の塗装が観察できます。東面、西面とも、南側に顕著です。

組物や間斗束(けんとづか)の周辺によく残っています。

組物(出組)の周辺

間斗束
よく見ると、垂木の側面にも丹塗りが認められます。

ここでは色が正確に再現できないのですが、クローズアップを示しておきます。

一方、軒裏や垂木の木口などは白く彩色されていたようです。

白い彩色は、正面の向拝に付けられた蟇股などにも残っています。この向拝は慶安の修理(1649年~)で改修されていますので、江戸時代にも塗装が加えられていたことが想像されます。
今では黒っぽく、古色蒼然とした三十三間堂ですが、名残りの塗装から往時の華やかさを想像することも愉しいでしょう。
三十三間堂(蓮華王院)
所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
拝観:大人600円ほか
交通:京阪七条駅より徒歩約5分
【参考文献】
藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年
『三十三間堂』三十三間堂奉賛会、1961年
『国宝 三十三間堂』妙法院門跡、2009年
「四百年前社寺建物取調書」京都府立総合資料館蔵
北野信彦・窪寺茂「三十三間堂の外観塗装材料である赤色顔料に関する調査」、「保存科学」48号(2008年度)所収
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