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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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御所にもあった“お公家さん”的数え歌





京都御所蛤御門


 「丸竹夷」は有名な数え歌

 「マルタケエビスニ オシオイケ」という唄は、京都では子供でも知っている(知っていた?)愛唱歌で、有名な通りの名前を覚える数え歌です。
 漢字で書くと「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条」で、

  丸太町通
  竹屋町通
  夷川通
  二条通
  押小路通
  御池通
  姉小路通
  三条通
  六角通
  蛸薬師通
  錦小路通
  四条通
  綾小路通
  仏光寺通
  高辻通
  松原通
  万寿小路通
  五条通 

 と、たいそう長々しいのですが、これが一節で覚えられる魔法です。
 七五調ではなくて、八五調になっているのも面白いですね。
 タテ(南北)の通りを覚える唄もあり、そのほか子供の数え歌も多く、京都文化博物館に行くと音声ガイドで聴くことができます。


 公家邸を覚える数え歌

京都御所

 ところが、京都御所にも同様の数え歌があったとは、寡聞にして知りませんでした。

 勧修寺経雄という伯爵が、昭和5年(1930)に出版された『京都新百景』に、こんなことを書いています。


 私は御苑内を散歩し通行する度毎に散歩さして頂く、通らして頂くといふ感が起こる。しかし赤や紫の旗を先頭に京見物の案内者が昔この松林の所に八百八公卿[くげ]というて……とサモ病ひの数のやうに説明し出すとこれには実際ヒヤリとする。そんなに多くはなかつたがとにかく沢山の公卿がゐてなぜ王政復古が遅かつたかと思ふのである。これ等多くの邸宅をさすがに歌にして覚えさしたのも面白い。

  仙洞御所の南側西より
 長風や芝園池に梅桜池尻[いけがみ]交野妙法林丘
  大宮御門の中程より北の方へ
 萬里[まで]甘露[かんろ]櫛笥[くしげ]柳に園富小御下り御殿京極の宮
  猿辻より石薬師門の方へ
 一河や滋る中山藤波は御門を出でゝ樋口高倉

 (勧修寺経雄「京都御所を中心に」、『京都新百景』271~272ページ)


 今の京都御苑に数多の公家邸があって、その数は「八百八」(多いもののたとえ)と言われていた、それを勧修寺経雄は「こんなに大勢公家がいたら、王政復古の話し合いも議論百出でまとまらなかったのもうなずける」と感じたわけですね。

 数え歌ですが、さすがに難しいですね。
 まず、仙洞御所の南側に、西から東に向かって、次の公家邸が並んでいました。

  長谷(ながたに)、風早、芝山、園池、梅小路、桜井、池尻(いけがみ)、交野(かたの)

 これに加えて、妙法院宮の里坊、林丘寺宮の里坊と続きました。
 これらの公家は、家格でいうと五摂家、清華家、大臣家につぐ羽林家や名家で、大きな屋敷を構えた五摂家などとは異なり、こじんまりとした邸がずらっと並んでいる雰囲気でした。

 また、禁裏の東側(2筋目)には、南から北に向かって、

  萬里小路(までのこうじ)、甘露寺(かんろじ)、櫛笥(くしげ)、柳原、園、富小路

 と並び、御下り御殿(御里御殿)、さらに京極宮(桂宮)がありました。
 「御下り御殿」とは興味深い呼び名ですが、これは女官が月の障りの際に禁裏より下がっていた居所のことだそうです。

 禁裏の北、猿が辻から東に向けては、

  一乗院門跡、河鰭(かわばた)、滋野井、中山、藤波

 と並び、石薬師門を出て、樋口、高倉とつづいていました。

 このことを懐かしく紹介した勧修寺経雄は、もちろん勧修寺家の出身でした。貴族院議員も務め、当時は東京に住んでいたと思いますが、数え歌に自分の家が出てこないのは残念だったのでしょうか?


 「蛤御門」の由来

 冒頭の写真は、蛤御門(はまぐりごもん)です。京都御苑の西に開いています。この門は、元は「新在家門」と称していました。
 再び勧修寺経雄の随筆から。


 新在家門は天明の火事より通行が許されたので「焼けて口あく蛤」でそれから蛤御門といふさうだ。謎のやうだがこの御門を中心として起こつた戦ひが小規模であつたが結果は中々に大きく今日を致した序幕と見てよい。(同上、273~274ページ)


 御所を含め、市中が広く焼亡した天明の大火(1788年1月)の際、ふだんは閉鎖されていたこの門が開放されたことを述べています。「焼けて口あく蛤」とは、よく言ったものです。
 なお、「この御門を中心として起こつた戦ひ」とは、幕末の蛤御門の変(禁門の変)を指しています。

 先日も、大河ドラマで“蛤御門の変の大火は、応仁の乱以来で京を焼き尽くした”とナレーションしていましたが、実はその間にあった天明の大火が、江戸中期の京を焼亡させていたのです。

 いまでは往時をしのぶべくもない御所ですが、いにしえのありさまを想像するのも興味深いことでしょう。


京都御所


 ※前回の「祐の井」の記事を修正しましたので、その項もご参照ください。




 京都御苑・蛤御門

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
 交通 地下鉄今出川駅または丸太町駅下車、徒歩



 【参考文献】
 勧修寺経雄「京都御所を中心に」(『京都新百景』新時代社、1930年 所収)
 『京都名勝誌』京都市、1928年



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