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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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御所には、明治天皇ゆかりの「祐の井」が





京都御所


 京都御所という空間

 京都では「御所」で通っている京都御苑。
 歴史的にみれば、明治維新後に周りを現在のような石塁で囲まれ、その中も砂利と芝生の公園のようになっています。

京都御所

 けれども、維新前、一帯は禁裏の周囲に公家邸が立ち並ぶ屋敷町でした。


 公卿・中山家で生まれた明治天皇

 禁裏の北東側を「猿が辻」と呼んでいます。
 鬼門にあたるため、写真のように築地塀が凹まされています。

京都御所

 このさらに北東に、公卿・中山邸がありました。
 中山家は羽林家200石。幕末に、愛親(なるちか)、忠光など、動乱の中で名が知られる人物を出しています。天誅組で著名な忠光の父が、忠能(ただやす)でした。私は、院生の頃、授業で彼の日記を講読していたので、とても親しみのある人物です。日記を読んでいて印象に残ったのは、毎日の天気が必ず記されていたことと、各所からの到来物がやたら多かったことでしょうか。

 中山忠能は従一位にまでなった公卿ですが、なんといっても明治天皇の外祖父(母方の祖父)として有名でしょう。
 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子ですが、母は天皇の典侍だった中山慶子(よしこ)、忠能の次女でした。
 「典侍」(てんじ、すけ)は、宮中の女官のひとつで、天皇のお側に仕える女性です。奥向きの女官の中では、一番上の位でした。そのため、摂家、清華家、大臣家につぐ羽林家や名家の子女が着きました。

 明治天皇は、その典侍だった慶子の実家である中山邸で、嘉永5年(1852)9月22日(新暦の11月3日)に誕生しました。その邸は猿が辻あたり、つまり禁裏の北東に建っていたのです。この辺は、石薬師通と呼ばれていて、中山邸の少し東に石薬師門が開かれていました。これらは、御所の北の方から見ると、今出川門を入って東に行ったあたりに位置します。


 今も残る祐の井

 下橋敬長の『幕末の宮廷』には、「御初湯[うぶゆ]井戸水のこと」として、次のように記されています。

 明治天皇様は石薬師門内中山家御邸内の井戸の水を以て御初湯を遊ばされ、よってこの井戸を「祐[サチ]の井」と申すのであります。天皇様の御幼名を祐宮[さちのみや]と称し奉るによるのであります。(『幕末の宮廷』335ページ)


京都御所

 今、現地に残る井戸には「祐井」と刻されています。

 『幕末の宮廷』には、明治天皇の皇后となった昭憲皇太后は、一条家の「県[あがた]の井戸」で産湯を使ったとも記されています。

 ところが、この話には異説があります。
 祐の井で明治天皇が産湯を使ったというのは、誤りというのです。
 『京都名勝誌』などによると、この井戸は明治天皇誕生の翌年(嘉永6年=1853)の夏頃に掘削されたものだといいます。その頃、日照りの時もこの井戸からだけは滾々と水が湧き出すので著名になり、いつの頃からか明治天皇産湯の井戸と誤伝されたと述べています。

 改めて『明治天皇紀』を調べてみました。
 
 明治天皇は嘉永5年(1852)9月22日の生れですが、外祖父である中山忠能は、賀茂川に架かる出町橋の北で産湯に用いる水を汲ませ、その水を邸内にあった井戸水に加えて用いました。
 そして、この井戸は「祐の井」とは別の井戸でした。

 嘉永6年(1853)8月、京都は日照り続きで、井戸水も枯れるものが多かったのですが、中山邸の井戸も枯渇してしまいます。忠能は、祐宮(明治天皇)の養育に支障が出ることを心配して、邸内に新たに井戸を掘削することを計画します。8月24日に掘り上がった井戸は、8尺(24cm)の湧水を湛え、とても清冽でした。忠能は大いに喜んで、これを祐宮の御用水にしたのです。
 このことは父である孝明天皇の耳にも達し、天皇より宮の名前にちなんで「祐井」の名を賜りました。忠能は、明治10年(1877)7月、井戸の側に碑を建てて、その経緯を記しました。

 産湯に使われたのは中山邸の古い井戸で、祐の井は翌年掘られたことが分かります。

 
 明治天皇は、その後、5歳まで中山邸で養育されました。9歳で立太子して睦仁と名付けられ、天皇としての人生を歩んでいくのです。

 ちなみに、京都から離れた兵庫県のことなのですが、慶子が明治天皇を出産するとき、中山寺(宝塚市)に安産祈願をしたことから、同寺は“明治天皇勅願所”、安産の寺としての信仰が広まったといわれます。
 中山慶子と中山寺。同じ「中山」で何か関係あるのかな? と思ったりするのですが、よく分かりません。

 京都御所に行かれた折、一度「祐の井」を訪ねてみてはいかがでしょうか。




 祐の井

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
 交通 地下鉄今出川駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 下橋敬長『幕末の宮廷』平凡社(東洋文庫353)、1979年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『明治天皇紀』第一、吉川弘文館、1968年


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