亀岡末吉の2つの門は、光と影を意識している
|建築|

華麗なる門の名手-東本願寺菊の門-
シリーズ的に注目している亀岡末吉ですが、今回は2つの門を取り上げます。
東本願寺菊の門と仁和寺勅使門です。
どちらの寺院も火災からの復興事業で数多くの堂宇を再建したのですが、その中に門も含まれていました。
東本願寺は、幕末の蛤御門の変(1864年)で伽藍を焼かれ、明治維新後、再建に着手します。東面して並ぶ御影堂と阿弥陀堂は、近代の巨大木造建築の代表格です。敷地の北東に開かれた菊の門は、明治44年(1911)に造営されました。

東本願寺菊の門(登録文化財)
扉に大きな菊文が付いているので、この名称があります。菊文は、かつて徳川家康が寄進したものだそうです。

この門は、神野金之助と長男・富田重助が寄進したものです。
武田五一の指導のもと、亀岡末吉が設計しました。棟梁は名古屋の鈴木幸右衛門という人で、部材は名古屋で加工されたそうです。
見所は、やはり細部の彫刻でしょう。

唐破風の下には多数の彫刻が……
中央の蟇股。

これは鬼なんでしょうか。牙をむいています。歯が金色なのが妙に恐ろしい。

その下の左右の蟇股や金物は菊の文様です。しかし、細工は少し粗い気もします。


妻の蟇股。これは牡丹でしょうか。

とても素敵なのは、六葉の猪目(ハート形)に、色ガラスなのでしょうか、カラフルな彩りが見られるところ。ちょっと見かけない工夫ですね。
しかし、なんといっても「亀岡式」らしいのは、扉の透かし彫りです。

三連の花菱文。いつも用いられるデザインです。
仁和寺勅使門
東本願寺菊の門より僅かに遅れて造られた仁和寺勅使門。大正2年(1913)竣工です。
菊の門は切妻造に軒唐破風を設けていましたが、こちらは入母屋造に軒唐破風を付けています。

仁和寺勅使門(登録文化財)
2011年に登録有形文化財となり、それを機に2012年末まで修理が行われていました。
亀岡の設計で、施工は菊の門の鈴木幸右衛門の手代・杉岡倉松です。
全体のフォルムは、国宝の西本願寺唐門に学んでいます。

屋根の下は、やはり彫刻で埋め尽くされています。

上部には向い合う2羽の鳳凰。その間の大瓶束も装飾たっぷりです。

虹梁の端にある渦巻きと若葉からなる絵様は、前回紹介した東福寺恩賜門のものと似通っていますね。

こちらは六葉。菊の門とは異なったシャープな美しさをたたえています。
最も見所なのは、やはり扉の周辺でしょう。

装飾満載。

柔らかい花菱を中心に構成した透かし彫りは、向うからの光を通して、とても美しい。
亀岡が“光”を意識していたことを感じさせるのは、次のような部分にもうかがえます。

扉の左右にある連子窓。桟は極めて細いのですが、光を受けると……

見事なシルエットを創り出します。
冬の午後4時頃に撮影したと思いますが、影が長く伸びて、細い連子をくっきりと映し出します。
これを見ると、やはり亀岡末吉は特異なデザインセンスを持っていたのだと確信します。
京都府で亀岡の部下だった岩﨑平太郎は、東本願寺菊の門について「桃山時代のルネーサンスで各部の彫刻はいわゆる亀岡式の雄渾な曲線美を以て極彩色を施し、目もまばゆいばかりであった」と評しています。確かに、亀岡の建築は「目もまばゆい」という形容がぴったりの装飾に満ち満ちています。
「明治時代和風建築革新の先覚者としての努力は君が計画せし建築と共に、永く世人に記憶さるることであろう」とは関野貞の言葉ですが、今日も亀岡の建築を見られる私たちは幸福以外の何ものでもないのでしょう。
東本願寺 菊の門(登録文化財)
所在 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町
見学 境内自由
交通 JR京都駅下車、徒歩約10分
仁和寺 勅使門(登録文化財)
所在 京都市右京区御室大内
見学 境内自由 ただし御殿などは有料(大人500円ほか)
交通 京福電車御室仁和寺下車、すぐ
【参考文献】
『京都市の近代化遺産』京都市市民文化局、2006年
『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
川島智生『近代奈良の建築家 岩崎平太郎の仕事』淡交社、2011年
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