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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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御所の建物を移築した仁和寺は、金堂が最古の紫宸殿遺構

洛西




仁和寺


 「御室」という地名

 京都で“おむろ”というと「御室」、右京区の地名を指しています。「室」(むろ)に尊称の「御」の字をつけて御室としたわけです。つまり、偉い方の住まいという意味ですね。

仁和寺
 仁和寺山門

 その御室とは、この仁和寺(にんなじ)を意味します。
 仁和寺という名前も、光孝天皇の時代の元号「仁和」にちなんだものです。仁和は、西暦885年から889年までですから、平安時代ということになります。落慶は、仁和4年(888)、宇多天皇の時でした。宇多天皇は出家して住持となり、その後、門跡寺院として京都を代表する古刹のひとつになっています。

 桜の名所などとして、京都の人にも馴染み深いお寺だと思います。私の母が通った小学校は、北野天満宮の南にありましたが、そこは仁和小学校。仁和寺とは随分離れていますが、市街から仁和寺に至る「仁和寺街道」が通っていた場所だったからだと思います。
 

 御所の建物を移築

 京都の他の寺院と同じく、仁和寺も応仁・文明の乱で伽藍が焼失しました。
 江戸時代になり、仁和寺第21世の覚深法親王は、伽藍の再興を企てます。将軍・徳川家光の上洛にともなって21万両を与えられ、仁和寺は堂塔の再建に着手します。
 折しも、寛永年間(1624-45)に御所の建て替えがあり、いくつかの建物を下賜されることになりました。
 紫宸殿、清凉殿、常御殿、台所御門などが仁和寺に移されました。
 ちなみに、日御門は南禅寺へ、西側南御門は大徳寺に移築され、それぞれの勅使門になっています。それらについては、別に書きましたので、読んでみてください。

  ⇒ <御所の日御門を移築した南禅寺勅使門は、蟇股の細工が見どころ>
  ⇒ <御所の門を移築した大徳寺勅使門は、桃山の彫刻が美しい>

 このうち、現在残っているものは、紫宸殿(現・金堂)、清凉殿(現・御影堂)、台所御門(現・本坊表門)です。常御殿は宸殿にあてられていましたが、山内20数棟を焼いた明治20年(1887)の火災で失われてしまいました。現在の建物は、大正時代の再建です。

 現存する3棟、金堂、御影堂、本坊表門は、いずれも慶長の御所造営(慶長18年=1613)に際して建てられたもので、ちょうど400年前の建造物ということになります。

仁和寺
 御影堂(重文) 清凉殿の部材を用いて建築した

仁和寺
 本坊表門(重文) 


 400年前の紫宸殿遺構・金堂

 国宝・仁和寺金堂は、もとの紫宸殿です。現在の京都御所の紫宸殿は幕末に造営されたもので、仁和寺金堂が紫宸殿遺構としては最古のものとなります。

仁和寺

 もちろん、移築に際しては改築が行われました。同時代の史料にも、少し改めたところがあると記されています。最も目立つのは、屋根が檜皮葺から本瓦葺に変わったことでしょう。
 ただ、外観を見ると、正面の七間はすべて蔀戸(しとみど)がはめられていて、往時をしのばす雰囲気をたたえています。

仁和寺 蔀戸

 また、屋根の垂木を見ると……

仁和寺

 瓦の下に細長い角材が並んでいますが、これが垂木(たるき)です。軒の垂木は、多くの寺院建築では上下2段になっていることが通常で、これを二軒(ふたのき)と言います。2段の垂木のうち、下の方を地垂木(じだるき)、上の方を飛檐垂木(ひえんだるき)と呼びます。多くは、地垂木、飛檐垂木とも角材ですが、より丁寧なものは飛檐垂木に角材を、地垂木に丸材を用いることがあり、これを「地円飛角」と言ったりしています。
 このあたりのことは、宇治・平等院の回に書きましたので、ご覧ください。
 ⇒ <宇治の平等院にある隠れた見どころ(1)-観音堂->

 仁和寺金堂の垂木を見ると、2段ではなく3段になっています。これは三軒(みのき)と呼んでいます。あまり見掛けない凝った形式です。御所の紫宸殿では三軒を採用していたのでした。
 ちなみに、古い建築で三軒というと、興福寺の北円堂が知られています。

興福寺北円堂
 興福寺北円堂(国宝)

興福寺北円堂
 垂木が3段になる「三軒」。地垂木の小口は丸くなっている

 幕末の安政年間(1854-1859)に造られた現在の京都御所の紫宸殿は、こんな軒になっています。
 こちらも三軒ですね。

京都御所
 御所の紫宸殿の「三軒」


 規模や屋根も異なる

 下の写真が、現在の紫宸殿です。
 御所の建造は、寛政の造営で裏松光世(固禅)が考証して以来、古式ゆかしい造りになりました。最後の安政の造営でも寛政の形を引き継いでいます。

京都御所

 この紫宸殿について、よく言われるのが、屋根のボリュームが大きいということです。屋根がかなり立ち上がっており、古い時代のような素軽い雰囲気ではありません。そこが、如何にも江戸時代というスタイルです。
 この紫宸殿より250年ほど前の紫宸殿(つまり仁和寺金堂)の写真を改めて見てみましょう。

仁和寺

 撮影の角度が違うので、そのまま比較しづらいのですが、印象では、こちらが檜皮葺だったらもう少し屋根が軽い感じがすると思います。
 建物自体も桁行七間(ほぼ30m幅)です。京都御所の方は九間で庇(ひさし)もかなり深いので、相当大きく見えます。


 蔀戸など

 開口部の多くは、蔀戸(しとみど)になっています。

仁和寺

仁和寺
 蔀戸。上から下がっている金具に吊る

 前面は七間すべて蔀戸です。上の写真で分かるように、外に吊上げるようになっています。
 お堂の後ろ側も、四間は蔀戸になっているのですが、こちらは内側に吊上げるようになっています。側面は二間が蔀戸で、こちらも内に吊上げます。

仁和寺
 金堂背面

 側面や背面では、蔀戸を使わず板唐戸の開口部もあります。

仁和寺
 金堂側面

仁和寺
 板唐戸

 蔀戸は吊上げ式なので、簡単に開け閉めできません。そのため、法要などで出入りする際には、ドア状の板唐戸の方が都合がよかったのです。側面の板唐戸は内陣への出入り口に、背面中央の板唐戸は仏さまの背後(後戸)への出入り口になっています。
 この点は推測ですが、何枚かの板唐戸は仁和寺移築後に取り付けられたものかも知れません。

 ちなみに、金堂の外陣と内陣の境にも板唐戸が付いています。御所では、その部分は開放されていますから、こちらの扉も移築後に設置されたものです。

仁和寺 軒の菊文金物


 京都には御所の移築建築が数多くあります。京都御所の一般公開に先立って移築建築を見ておくことも参考になるかも知れません。




 仁和寺金堂(国宝)

 所在 京都市右京区御室大内
 拝観 境内自由(御殿の拝観は大人500円など) ※金堂内は特別公開時のみ拝観可
 交通 京福電鉄御室仁和寺下車、すぐ



 【参考文献】
 藤田勝也ほか編『日本建築史』昭和堂、1999年
 『重要文化財 12 建造物1』毎日新聞社、1973年
 『重要文化財総索引 建造物編』毎日新聞社、1975年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 

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