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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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寺町・新京極を歩く(その3) - 天寧寺 -





天寧寺


 「額縁門」の寺・天寧寺

 鞍馬口通から南に伸びる寺町通。この先、通りの東側(賀茂川側)に寺院が並んでいます。

 その最初に現れるのが曹洞宗・天寧寺です。

天寧寺

 この門は、俗に「額縁門」と呼ばれ、門の中に比叡山が借景のように望めます。

天寧寺

 天気のよい日に訪れると、さぞかし美しいことでしょう。

 この景色に見とれ、つい直ぐに門内へ入ってしまうのですが、門の左に注目してみましょう。
 こんな石標が立っています。

 天寧寺

 「金森宗和公本塋」。「塋(えい)」はお墓のこと。時折「塋域」(墓域)などという言葉を目にします。江戸時代の茶人・金森宗和(かなもり そうわ、1584-1656)の墓所があることを示しています。
 金森宗和といえば、飛騨高山の出身で、茶道・宗和流の祖として知られます。
 大坂の陣のあと、父から勘当され、母とともに、元和4年(1618)頃、烏丸今出川上ルの御所八幡上半町に移り住みました。つまり、天寧寺の比較的近くということになります。

 2基の五輪塔が、母子のお墓です。

天寧寺

 右が宗和、左が母・室町殿です。

 天寧寺 金森宗和墓


 かなり磨滅しかけているものの、かろうじて刻字を読むことができます。宗和の方には、次のように記されています。

天寧寺

 「明暦二 丙申 年/地 甲堅院徳英宗和居士/十二月十六日」

 戒名とともに、明暦2年(1656)12月16日に亡くなったと記されています。命日については、「隔冥記」などには12月15日となっており、1日異なっています。


 高橋箒庵が建てた石標

 今回注目するのが、最初に登場した門前の石標です。その裏面には、こう記されています。

 天寧寺

 「寄附主 東京 高橋箒庵」

 建てたのは、高橋箒庵(そうあん)でした。
 高橋箒庵(義雄、1861-1937)は、益田鈍翁(孝)と並んで、近代を代表する数寄者です。東京では中心的な存在で、彼が催した茶会は『東都茶会記』などに記され、その交友関係は日記『萬象録』に書き留められています。また茶道具の売立てなどについて克明に記録した著書『近世道具移動史』があります。もとは新聞記者でしたが、途中、三井に勤務し、晩年は茶道に関する文筆に専念し、斯界の名器を探し求めました。

 茶の世界に生きた金森宗和と高橋箒庵。そんな二人が結びついても何の不思議もないのですが、それにしても、なぜ高橋箒庵はここにこの石標を建てたのでしょうか。
 具体的に知りたいと思いました。


 『大正名器鑑』と『昭和茶道記』

 そもそも、この石標はいつ建立されたのかが記されていません。年代という大切な手掛かりがないわけですが、それでも高橋箒庵には明治から昭和に至る茶会記(茶道記)があるので、それを調べてみることにしました。
 直観的に「昭和かな」と思い、『昭和茶道記』を調べてみます。 
 するとどうでしょう、昭和2年(1927)5月31日の項で、金森宗和墓のことが記されていたのです。

 高橋箒庵は、金森宗和が宇治の茶の木で刻んだ千利休像を所持していたそうです。1尺3寸(約40cm)程度の像ですが、大徳寺山門の像とほぼ同形で、底に宗和の直筆で名と書判が認めてあったといいます。
 箒庵は、この木像を安置するのにふさわしい場所を探し求め、宗和の墓のある天寧寺を思い付きました。

 かくて箒庵は天寧寺を訪ねるのですが、そこからの事情は彼の大著『大正名器鑑』とあわせて見ていきましょう。ちなみに『大正名器鑑』は全9編あり、蒐集家などが秘蔵する茶道の名器を集成した写真・史料集です。

 『大正名器鑑』によると、大正15年(1926)5月17日に閑を見付けて天寧寺に趣き、「先づ宗和の墓所を探れば、果して丈四尺許[ばかり]なる五輪石塔二基相並び居るを発見せり」。
 宗和の墓を「発見」!
 『昭和茶道記』では控えめに「今度余が発見したとは言わぬ」と書いていますが、忘れられた宗和の墓所を見出したのでした。むろん、その墓が天寧寺にあることは、箒庵が参照していた『茶人系伝全集』や『名人忌辰録』などにも掲載されていたようですから、全く未知だったのではありません。しかし、かなり忘れられていた存在だったのでしょう。


 野々村仁清「水仙」の茶碗

 墓参を済ませた箒庵は、住職に面会し、宗和の遺物がないかと問います。すると、野々村仁清の茶碗と二重切竹筒花入、そして宗和からの手紙を示されたといいます(これを見た日付については『茶道記』と『名器鑑』では異なっているように読めます)。
 天寧寺に宛てた手紙には、茶入、茶碗、茶杓、竹筒、水指をそれぞれ1つずつ持参すると記されていました。そのうち茶入と茶杓はすでになく、水指は京都国立博物館へ出品中だったそうです。けれども、箒庵は茶碗と竹筒花入を実見することができました。

 花入は宗和の作に紛れはないけれど、格別のものとも思えませんでした。しかし、茶碗は宗和好みで、野々村仁清に焼かせたものと思え、「作行精妙、意匠抜群の名品」と見受けられました。感動した箒庵は、これを『大正名器鑑』に収録します。

 この茶碗は、高さ3寸、口径4寸1分、白地蹴鞠形で、「水仙」という名の通り「如何にもサツパリとして高尚なる図様」で、胴に水仙が描かれています。まったく使用した痕跡がなく「今や窯より出でたらんが如くに新鮮」な品でした。
 『大正名器鑑』第9編の最末尾にこの茶碗は掲載されていて、その姿を写真で見ることができます。

 箒庵は『昭和茶道記』に、「宗和の菩提寺たる天寧寺に斯かる遺品遺書が現存してある以上は、当今の茶人は此不世出の大宗匠に向つて時々報恩供養を怠つてはなるまい」と記しています。
 この気持ちが、門前に石標を建てさせた理由であり、その熱意が仁清作の優れた茶碗を発見させたのでした。

 ちなみに、高橋箒庵が見出した「水仙」の茶碗は、2008年に「銹絵(さびえ)水仙文茶碗」として国の重要文化財に指定されました。
 文化庁のデータベースより、その解説を抜粋しておきます。

 仁清の作品は色絵が著名であるが同時に本作品のような銹絵などの作品でも優品を多数残している。本茶碗は仁清の茶碗によく見られる胴部を絞った優美な姿を示している。文様は水仙の意匠であるが、仁清独特の白濁釉(はくだくゆう)の下に白泥(はくでい)を置いて銹絵の濃淡で見事に描いたものである。技術的にも極めて優れた仁清の茶碗を代表する優品である。

 京都国立博物館のホームページもご参照ください(作品写真があります)。 ⇒ <京都国立博物館ホームページ>




 天寧寺

 所在 京都市北区寺町通鞍馬口下ル天寧寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 高橋箒庵『大正名器鑑 第9編』大正名器鑑編纂所、1926年(復刻版 アテネ書房、1997年)
 高橋箒庵『昭和茶道記 一、二』淡交社、2002年
 谷晃校訂『茶湯古典叢書 四 金森宗和茶書』思文閣出版、1997年




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