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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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寺町・新京極を歩く(その2) - 上善寺 -





上善寺


 秀吉による寺町の形成

 京都市街を南北に貫く寺町通。平安京の時代にさかのぼれば、ほぼ東京極(ひがしきょうごく)大路に相当します。つまり、平安京の東の端で、その向こうは鴨川が流れているというわけです。
 その後、豊臣秀吉は京都市街の改造に着手し、外周を御土居(土塁)で囲むとともに、寺院を寺町に集めました。その場所は、かつての東京極大路と、その西に築かれた御土居に挟まれた土地です。
 北は鞍馬口通から南は六条あたりまでの長大な区域に、多数の寺院が移転させられ、その数は100ほどにものぼります。距離は、約5km。他に類を見ない寺町の完成でした。
 移転は、天正19年(1591)頃までに終わりましたが、その多くは京都の町衆と密接な関係を持っていた浄土宗や日蓮宗、時宗の寺院でした。


 鞍馬口通の上善寺から

 今回、寺町通を歩くにあたって、最初に北端の鞍馬口通に向かってみましょう。

 寺町鞍馬口

 鞍馬口通から南を見たところ。ささやかに寺町通が始まっています。ちなみに、右の建物は銭湯です。 
 ここから南へ行くと、すぐさま寺が続く町並みが始まるのですが、まずは鞍馬口通に面したお寺からのぞいてみましょう。

 上善寺です。

上善寺 本堂

上善寺 山門

 上善寺は浄土宗の寺院です。開創は円仁にさかのぼると伝え、もとは天台宗の寺院でした。秀吉の時代に移転する前は千本今出川にあり、現在そこには後に再興された上善寺があります。
 秀吉の寺町計画の一番北に据えられたのが上善寺でした。ただ、建物などは当時のものはないようです。

 門前に立つと目に入るのが、大きな石標です。

 上善寺

 比較的新しく昭和2年(1927)に建てられたものなのですが、「第一番 六地蔵尊」と刻まれています。上善寺は浄土宗、本尊は阿弥陀さんなのですが、「六地蔵」とはいったい?


 京の六地蔵

 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を指す六道。そこで衆生を救済する地蔵菩薩は、それぞれにおられるので、六地蔵とも呼ばれます。
 京都で「六地蔵」というと、伏見区から宇治市にかけての地名・駅名「六地蔵」を思い出す方も多いのでは。そのあたりから話を説き起こしてみましょう。

 「平家物語」の異本のひとつ「源平盛衰記」には、「西光卒都婆事」として、平家物語にはない記事を載せています。そこには、

 「当初有難キ願ヲ発セリ。七道ノ辻コトニ、六体ノ地蔵菩薩ヲ造リ奉リ、卒都婆ノ上ニ道場ヲ構テ、大悲ノ尊像ヲ居奉リ、廻リ地蔵ト名テ、七箇所ニ安置シテ云(中略)加様ニ発願シテ造立安置ス。四宮河原、木幡ノ里、造道、西七条、蓮台野、ミソロ池、西坂本、是ナリ」

 ここには、院の近臣・西光(藤原師光)が、京都に出入りする七道の辻ごとに地蔵菩薩を造立し、道場を構え、「廻り地蔵」と名付けたと記されています。
 その場所が、次の7か所です。

  ・四宮(しのみや)河原
  ・木幡(こわた)の里
  ・造道(つくりみち)
  ・西七条
  ・蓮台野(れんだいの)
  ・ミゾロ池
  ・西坂本

 この地名については、のちに「山城名勝志」(1705)が注釈しています。
 四宮河原は「大津路、山科に在り」、木幡の里は「宇治路、六地蔵町に在り」、造道は「摂津路、上鳥羽に在り」、西七条は「丹波路、桂里に在り」、蓮台野は「長坂路、今絶えて常盤村像を拝す」、ミゾロ池は「鞍馬路」、西坂本は「竜華越、今この一所絶る」とあります。

 それぞれの場所が、京都から遠方に向かう行き口、いわゆる京の七口(多くの出入り口)にあったことが分かります。つまり“境”に当たる場所に、地蔵を祀ったというわけです。
 さらに、すでに18世紀初めには西坂本は廃絶し、蓮台野にあった地蔵も代わって常盤村のものを参るようになっていたと記されています。
 
 他方、「都名所図会」巻5(1780)「六地蔵」の項には、次のように記されています。

 「地蔵堂 大善寺と号す。浄土宗也。京道の角にあり。 本尊地蔵菩薩ハ仁寿二年[852年]、小野篁、冥土に趣き生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後、一木を以て六体の地蔵尊をきざみ当寺に安置す。保元年中に、平清盛、西光法師に命じて都の入口毎に六角の堂をいとなみ、この尊像を配して安置す。今の地蔵巡り、これよりはじまる」

 ここでは、冥土から帰還した小野篁(たかむら)の説話を加え、篁が6体の地蔵を造って現在の大善寺(伏見区)に安置したとしています。そして、のちに西光が1体ずつを6か所に分置したと述べています。

 このように言い伝えはさまざまで、起源は定かではありません。それでも、江戸時代の前半には次の6か所が六地蔵として参拝の対象になっていたようです。

  1.御菩薩池地蔵(のち鞍馬口・上善寺)
  2.山科地蔵(四宮・徳林庵)
  3.伏見六地蔵(伏見・大善寺)
  4.鳥羽地蔵(上鳥羽・浄禅寺)
  5.桂地蔵(桂・地蔵堂)
  6.常盤地蔵(太秦・源光庵)

 おそらく北から時計回りに巡る順になっているのでしょう。

  
 御菩薩池(深泥池)の地蔵

 上善寺の話に戻りましょう。

上善寺
 上善寺地蔵堂

 現在、上善寺の地蔵堂には地蔵菩薩が祀られていますが、これも元は他の場所にありました。それが、御菩薩池(みどろがいけ)です。今では、深泥池と書くのが一般的になりましたが、北区上賀茂の東端にある貴重な水生植物群が生育する池沼です。
 
 深泥池を元は「御菩薩池」と書いたのも、地蔵菩薩に由来するのでしょうか。「都名所図会」巻6には、こうあります。

 「御菩薩池ハ幡枝[はたえだ]の南にありて傍に地蔵堂あり。平相国清盛の代、西光法師がいとなみしとぞ。六地蔵廻りの其一なり」

都名所図会より御菩薩池 
「都名所図会」より「御菩薩池」
左下に「地蔵堂」。遠くに「幡枝円通寺」が

 上の図にも「地蔵堂」として、方三間の宝形造のお堂が描かれています。その脇、池端の道が幡枝から市原、鞍馬方面に抜ける鞍馬街道です。つまり、このお地蔵さんは、鞍馬街道の口に当たる場所に祀られていたのでした。
 これが明治以降、上善寺に移されたのです。上善寺も鞍馬口通にあり、深泥池よりはかなり南ですが、出雲路橋を渡って真っ直ぐ北上すると深泥池に到達しますから、鞍馬への入口に当たるのは確かです。そういう縁で移転したのでしょうか。

上善寺 上善寺 上善寺
 各地蔵のお幡(左上・鞍馬口、右上・六地蔵、左下・上鳥羽)

 京都の年中行事をまとめた黒川道祐「日次紀事」(1676年)には、六地蔵巡りの習俗について、7月24日(旧暦)の条に、こう記しています。

 「六所地蔵詣 今日洛外六所地蔵詣、いわゆる賀茂御泥池[みどろがいけ]、或は云く菩薩池、山科、伏見、鳥羽、桂、太秦これ也。およそ一日六所の行程十里余也(後略)」

 17世紀後半には、すでに先に記した6か所になっていることが分かります。
 ちなみに、24日はお地蔵さんの縁日です。 

 冒頭に掲げた上善寺門前の石標(昭和2年)に刻まれた順番は「第一番」。上記の1~6の順番は、江戸時代初めから、およそ定まっていたのかも知れません。石標と同じ頃(昭和7年)に出版された濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』も、この順番を取っています。

上善寺 上善寺にて

 現在では、六地蔵巡りは、地蔵盆の8月22日、23日に行われます。
 『京都「六地蔵巡り」の栞』には、その功徳として、除災火難、寿命長遠、女人平産、除碎諸病、福徳自在、五穀成就、諸神守護の7つをあげています。お地蔵さんは庶民を助ける仏さまとして、いつの時代にも人気がありますね。



 上善寺

 所在 京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年
 「参考源平盛衰記」、『改定史籍集覧 編外三』(臨川書店、1984年)所収
 「山城名勝志」、」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1915年)所収
 「日次紀事」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1916年)所収
 濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』龍門春秋会、1932年
 田中久夫ほか『近畿の民間信仰』明玄書房、1973年



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