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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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絵馬堂が意外におもしろい!(4) - 今宮神社 -





今宮神社


 紫野の今宮神社

 私は、高校3年間、今宮神社のそばの学校に通っていました。通学の行き帰りに見ていた朱色の楼門は、眼の奥に焼き付いています。

今宮神社

 けれども、境内の様子は余り記憶にありません。記憶にあるのは、東門前に向かい合って2軒ある「あぶり餅」店だけです。高校生ですから、その程度だったのでしょう。
 今回取り上げる絵馬堂なども、まったく覚えておらず恥ずかしい限りですが、少し観察してみましょう。


 京都の古い絵馬堂

 これまで3回にわたり、京都の絵馬堂を紹介しました。内容は、こちら ⇒ その1その2その3

 これまでは、上御霊神社、北野天満宮、御香宮神社を取り上げました。
 京都市内の古い絵馬堂(絵馬所)といえば、上記の北野天満宮があげられます。現在の絵馬所は、元禄13年から14年(1700-1701)の天満宮修築の際の建物です。しかし、もともとは慶長13年(1608)に豊臣秀頼により絵馬堂が造営されたといいます(『京都の絵馬』)。もっとも「京都御役所向大概覚書」によると正保3年(1646)の社殿修復時には絵馬堂は確認されないので、途中で失われていたのかも知れません。
 『京都の絵馬』掲載の年表によると、古い絵馬堂の建設は次のようになっています。

 慶長13年(1608)   北野神社
 正徳年間(1711-16) 藤森神社
 宝暦 5年(1755)   御香宮神社
             御霊神社
 宝暦年間(1751-63) 安井金比羅宮
 寛政 3年(1791)   今宮神社
 寛政 9年(1797)   伏見稲荷大社

 北野天満宮は飛び抜けて古いとしても、多くの神社では18世紀に絵馬堂が建立されたことが分かります。今宮神社も、そのひとつだったわけです。

今宮神社

今宮神社

 側面からは撮りづらいのですが、北面から写してみました。
 桁行六間、梁間二間、入母屋造桟瓦葺の建物です。北野天満宮などと同じ規模で、大きな絵馬堂といえます。
 「都名所図会」(1780)を見てみましょう。

今宮神社

今宮神社

 本殿の左方に「画馬殿」が描かれています。絵は、桁行三間、梁間はおそらく二間になっています。「都名所図会」は安永9年(1780)刊ですから、寛政の今宮神社絵馬堂より早く描かれていることになります。すると、この「画馬殿」は寛政の建物の前身なのでしょうか? このあたりは少し考えてみる必要がありそうです。


 海北派の絵馬

 この絵馬堂に懸っている絵馬を見てみましょう。今回注目するのは、次の絵馬です。

今宮神社

 少し退色しているものの大画面の絵馬です。
 中央の人物を拡大してみましょう。

今宮神社


 左は女性、右はいかめしい顔をした男性。どちらも甲冑をまとっているようです。
 実はこの人物、神話上の存在ですが、神功皇后と武内宿祢なのです。いわゆる「三韓征伐」の絵柄になっています。特に、武内宿祢の表情と甲冑が巧みに描かれています。
 神功皇后が手に長い棒状のものを持っていますが、これは釣竿で、肥前国松浦で鮎釣りをして勝敗を占っている場面(もちろん勝つという結果)です。祇園祭の占出山(鮎釣山)と同じモチーフになっています。

 神功皇后の説話は人口に膾炙していたらしく、それを取り上げた絵馬は全国的にも数多く見られるようです。一般には、皇后に仕えた武内宿祢とセットで描かれ、船に乗って戦闘している絵柄もあります。また、武内宿祢だけを画く絵馬もあります。これらは、武運長久の祈願であり、航海安全の祈願でもあるのでしょう。
 
 では、この絵馬、いつ誰によって描かれたのでしょうか。

 今宮神社

 絵馬の右端に、「寛政十年戊午秋七月吉祥日 海北友徳斎謹図」とあり、「照道」の印。奉納者の「沖田氏/木村氏/中嶋氏/木戸氏/渤海氏」の名が記されています。
 寛政10年、つまり1798年に描かれた絵。絵師は、海北友徳。

 海北(かいほう)という苗字は、桃山時代の絵師・海北友松でお馴染みですね。
 海北派の系図を見てみると、

  友松-友雪-友竹・(友賢)-友泉-忠馬-友三-友徳-友樵

 と続いていきます。
 友徳は、友松の6代後ということになります。宝暦12年(1762)の生れ、弘化4年(1847)没。海北家は、京都の禁裏御用だったので、友徳も寛政の御所造営(1790)に際して、小御所東廂の障壁画・朝賀図を描いたそうです。もちろん、友松の頃の勢いはなく、筆法も狩野派のそれを取り入れていったとみられます。

 いまひとつ、今宮神社に伝わる彼の絵馬を見ておきましょう。

今宮神社

 竜頭の船が一隻、海原に浮かんでおり、右手に一人の翁が釣をしています。この翁、実は住吉明神で、船の舳先に乗る人物は、白楽天です。よく見ると、顔も中国風に描かれています。謡曲「白楽天」の一節を絵画化した作品です(「謡曲白楽天図」)。寛政9年(1797)に描かれたもので、「海北斎宮亮」と友徳を示す落款があります。 

 江戸時代、京都で絵馬をよく描いた絵師は、狩野、長谷川、海北、別所の4家だったといわれます。海北派も、友松以来の障壁画の技術をもって大画面の絵馬を描いたのでしょう。
 2代目の海北友雪は、清水寺に伝わる「頼政射怪獣図(鵺[ぬえ]退治図)」(1635年)や「田村麻呂夷賊退治図」(1657年)といった巨大な絵馬を描きました。また、その門人の友賢は八坂神社に「仁田四郎猪退治図」(1702年)を残しています。ふだん目にする機会のない作品ですが、現在まで伝わる大作もあるわけです。
 今宮神社には、「曳馬図」も残されています。これは、海北友竹が描いた図が風雨により傷んだので、友徳が補筆した作品だともいわれます。弘化3年(1846)のことですから、友徳が没する前年です。

 絵馬堂の上を見上げて絵馬を観察するのは、なかなかしんどいのですが、時には時間をとってじっくり絵馬を眺めるのも愉しいものです。



 今宮神社




 今宮神社

 所在 京都市北区紫竹今宮町
 拝観 境内自由
 交通 京都市バス今宮神社前下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都の絵馬』京都府立総合資料館、1980年
 『近世の京都画壇-画家と作品-』京都市文化観光局、1992年
 河田貞『日本の美術 92 絵馬』至文堂、1974年
 岩井宏実『絵馬』法政大学出版局、1974年



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