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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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清水寺の中の神社 - 清水寺鎮守堂 -

洛東





清水寺鎮守堂


 有名寺院の「通」な見どころ

 清水寺といえば、京都で最も旅行者を集めている寺院です。
 “清水の舞台”として知られる国宝の本堂をはじめ、見どころ満載です。しかし、舞台や地主神社、音羽の滝を中心に拝観され、他の箇所は余り見ない方が多いようです。

 今回は、ちょっと通な見どころを紹介しましょう。

清水寺

 清水坂を上っていくと、まず目に飛び込んでくるのが仁王門。右は、西門と三重塔です。
 ふつう、みなさんは仁王門をくぐって進むのですが、くぐる前に左側を見てください。

清水寺馬駐

 比較的きれいな、こんな建物があります。
 これが「馬駐」という施設で、重要文化財に指定されています。桁行五間、梁間二間、切妻造、本瓦葺の建物です。こちらでは「うまとどめ(馬留)」と読んでいますが、「うまつなぎ(馬繋)」でも同じ意味です。
 その用途は名前の通り、“馬の駐車場”。「都名所図会」にも描かれており、「車やどり馬とゞめ」と注記されています。
 このような施設は、馬や牛車による貴人の参詣が多い寺社では、ふつうに設けられていました。たとえば、東寺には北総門の脇に馬駐のスペースがあったことが知られています。江戸時代後期、わざわざ門を南に動かしてスペースを設けたようですが、屋根のある建物ではなく、杭を打った程度のエリアだったようです。
 また、奈良ですが、このような建物もあります。

春日大社車舎

 春日大社の車舎(くるまやどり・くるまや)。牛車のガレージです。すでに平安時代から設置されていたそうですが、この建物は寛永9年(1632)築だそうです(清水寺本堂とほぼ同時期ですね)。桁行五間、梁間三間、流造の建物で、重要文化財になっています。妻側に壁があるだけ、あとは吹き放ちの開放的な造りですね。

 馬を飼っておく厩(うまや)の遺構は各地にありますが、こういう“参拝者用駐車場”を探してみるのも、おもしろそうです。


 春日造の建物

 明治維新後の神仏分離以前は、神社と寺院が共存しているのはふつうの姿でした。
 ご存知のように、現在でも清水寺に隣接して地主神社があり、多くの参拝者を集めています。かつての地主権現ですが、このほかにも、弁財天社など山内にいくつかの神社があり、鳥居も立っていたのです。
 そのなかで、いま参拝できるのが、こちらです。

清水寺鎮守堂

 「鎮守堂」と呼ばれている社殿で、三重塔や鐘楼の左下方(中興堂の脇)にあります。この建物、見るからに神社ですね。神仏分離後に「お堂」にされたのですが、かつては春日社とされていました。その位置は、現在よりも西方で、仁王門の北側にありました。「都名所図会」にも「春日社」と記されています。

 享保年間にまとめられた「京都御役所向大概覚書」にも、「春日社 表五尺五寸 奥行九尺五寸 鳥居有」と出てきます。

清水寺鎮守堂

 写真でわかるように、春日造の社殿です。千木や鰹木はないのですが、切妻に向拝が付けられた形になっていますね。

清水寺鎮守堂 側面

清水寺鎮守堂 木鼻

 木鼻(写真下)は竜頭になっているのか、ある程度、時代が下った建築という雰囲気です。
 では、いつ頃に造られたのでしょうか。

 清水寺は応仁の乱で焼かれ、その後、堂宇は復興されます。ところが、江戸時代の寛永6年(1629)9月10日の白昼、成就院より出火し、本堂をはじめとする多くの建物が焼け尽されました。しかし、西の方にあったいくつかの建物は焼け残っています。
 再び「京都御役所向大概覚書」を見ますと、「鐘撞堂・西門・春日社・馬留は焼失致さず」と記されています(西門は仁王門のことを指すと解釈できます)。そして「ご修復仰せ付けられ候」とあります。焼けなかったけれど、他の再建とともに修理したのでしょう。これによるならば、春日社は応仁の乱後の建物(室町時代後期)であると考えられます。
 ただし、文化庁の国指定文化財等データベースには「寛永頃」となっていて、これは寛永の大火後の再建という意味です。何らかの根拠があるのかも知れないのですが、私は今のところ把握できていません。


 春日社は摩利支天?

 ところで、京都府立総合資料館に「四百年前社寺建物取調書」という史料が所蔵されています。ウェブ上でも閲覧できます。
 明治15年(1882)頃の京都府内の社寺の古建築(主に当時から400年前以前の建物)を、各社寺が府に報告したものです。ここに清水寺も出てきます。
 そこには、応仁の乱後に再建された建物で、明治17年(1884)当時、残されていた建物が書き上げられています。次の4つです。

 ・二王門
 ・摩利支天堂
 ・鐘楼
 ・馬駐

 この4つは、先ほどの「大概覚書」と一致するのでしょうか? やはり「摩利支天堂」というのが不明ですね。しかし摩利支天堂の項には、「但 梁行五尺五寸 桁行一間三尺五寸」とあります。この寸法は、「大概覚書」の春日社にある「表五尺五寸 奥行九尺五寸」と一致します(9尺は1間3寸と同じ)。また、現状の社殿の規模とも合致するように思われます。
 すると、この摩利支天堂=春日社となります。
 おそらく、明治の神仏分離後、春日社は神社では都合が悪いので、摩利支天堂に名前を変えたのでしょう。そして、少なくとも明治時代中頃にはそう呼ばれていた、ということです。

 さらに興味深いのは、「四百年前社寺建物取調書」には「檜造極彩色 屋根檜皮葺」と書かれていることです。
 「極彩色」!
 いまは白木なのに、当時は現在の西門・三重塔・鐘楼などと同様に、色とりどりに塗装されていたのです。かなりイメージが違いますね。

 どうでしょうか。小さな建物ですが、いろいろと謎が多いですね。
 まだまだ調べてみたいと思います。



 清水寺鎮守堂(重要文化財)

 *所在:京都市東山区清水
 *拝観:自由 ※清水寺有料拝観エリア外です
 *交通:市バス五条坂下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年
 「四百年前社寺建物取調書」京都府立総合資料館所蔵
 『清水寺史』2、清水寺、1997年
 横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』清水寺、2008年
 『東寺の建造物-古建築からのメッセージ-』東寺(教王護国寺)宝物館、1995年



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清水寺

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