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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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妙心寺の経蔵は、輪蔵もあって興味が尽きない(その2)

洛西




妙心寺経蔵


 「都名所図会」では“涅槃堂”?

 「その1」でご紹介したように、妙心寺経蔵は大きな輪蔵があり、その検索システムを観察するだけで、わざわざ見に行く価値があります。
 今回は、まず建物の外観を見てみましょう。

妙心寺経蔵

 典型的な経蔵の建物です。
 経蔵は、屋根が宝形造になっているものが多く、つまりは平面がほぼ正方形になっています。
 寛文13年(1673)に建てられました。京都に残る経蔵は、意外なことに、ほぼすべて江戸時代のものです。
 古いものでは、本圀寺経蔵(重文・1607年)、知恩院経蔵(重文・1621年頃)、大徳寺経蔵(重文・1636年)、仁和寺経蔵(重文・1640年代)などがあって、いずれも宝形造で方一間または方三間、内部には輪蔵を備えています。

 妙心寺の経蔵は、寛文13年(1673)に建てられているので、当然、安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にも登場します。巻6の妙心寺の図を拡大しました。

都名所図会より妙心寺

 宝形造で一重裳階付き、花頭窓が開けられているという特徴をよく捉えています。ところが、よく見ると「経蔵」ではなく「涅槃堂」と書かれていることに気付きます。これは、いったい……

 現在、妙心寺では別の場所に涅槃堂があります。これは納骨堂です。
 山田孝道『禅宗辞典』を引いてみると、「涅槃堂」が立項されていますが「延寿堂に同じ」となっています。そこで「延寿堂」を見ると「病僧療養の室を云ふ」とあります。「省行堂」ともいうとあります。経蔵とは、まったく性質が異なります。

 「都名所図会」の本文を読むと、「法堂ハ[仏殿の]北にあり、経蔵ハ東にあり」とあります。経蔵が仏殿の東方にあることが記されているのですから、この絵の建物は経蔵でよいと思われます。なぜ「涅槃堂」と書いたのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。


 額は、伏見天皇の宸筆

 経蔵は西を向いて建っていて、入り口の上には「毘盧蔵」と書かれた竪額が掛けられています。

妙心寺経蔵


 「毘盧蔵(びるぞう)」。「毘盧」は毘盧遮那仏の略。毘盧蔵がどういう意味かは、これも難しいのですが、経蔵や輪蔵を意味するともいわれ、また大蔵経(一切経)を指すともいわれます(「毘盧大蔵」)。経蔵に額として掛ければ、どちらの意味でも通ることになります。

 額の裏面には、「正法山妙心寺経蔵額/伏見院勅筆/家原自仙寄附/元禄十丁丑歳正月十二日」と記されていて、この文字が伏見天皇の宸筆だということが分かります。
 ちなみに、元禄10年は1697年になります。また、この額を寄付した家原自仙は、京の茶人だそうです。

 伏見天皇(1265-1317)は、鎌倉時代の能筆の一人として著名でした。その書は伏見院流と呼ばれ、勅撰集を写した「筑後切」や「広沢切」は流麗な筆跡です。
 さらに興味が湧くのは、伏見天皇の息子たちです。その第三皇子は花園天皇、第六皇子は尊円親王です。尊円親王といえば、これまた書の名手で、青蓮院流の祖。それは江戸時代、御家流となって、書の規範として崇められます。一方、兄の花園天皇は、妙心寺が花園の地にあることからも分かるように、禅宗に傾倒して花園・萩原御所を関山慧玄に預けて妙心寺を開かせたのです。

 「毘盧蔵」の額は、経蔵が建ってから14年後の元禄時代に寄付されました。伏見天皇の没後380年も後のことです。ということは、この題字は妙心寺経蔵のために書かれたのではなく、別の機会に揮毫されたものになります(残念ながら何かは分かりません)。
 ではなぜ400年近く前の伏見天皇の書が選ばれたかといえば、それは花園天皇と尊円親王の父であったからでしょう。花園天皇本人の書でもよかったかも知れませんが、江戸時代に誰もが知っている御家流の元祖の父であった伏見天皇の宸筆は、元禄の感覚としては、よりふさわしいように思えます。

深草北陵(十二帝陵)
伏見天皇の墓所、深草北陵(十二帝陵)


 経典は苦心の筆写で

 この経蔵に収められた大蔵経は、肥前国諫早の人、香田真照(さねてる)の寄進をもとにそろえられました。しかし、その事業は意外な苦心に満ちていました。

 寛文8年(1668)、香田真照が妙心寺を訪れ、自分は数年かけて財を蓄え妙心寺に大蔵経ひとそろえを具備してほしいと思う、と寄付を申し出ました。その事業を託されたのは、龍華院を創始した僧・竺印祖門でした。
 大蔵経を新たに筆写するためには、その原本を探さなければなりません。竺印は、まず江戸・寛永寺の大蔵経を原本にしようと考えました。寛永寺には、天海版と呼ばれる木活字の大蔵経があります。しかし、実物を見てみると、木活字のせいなのか、文字が逆さまになっていたり横倒しになっている箇所が散見されました。これでは駄目だと思った竺印は、さらに原本を求め、建仁寺の大蔵経に思い当ります。建仁寺のものは、より信頼のおける高麗版でした。
 さっそく建仁寺に申し出たところ、「わが山の大蔵経は門外不出で、もし貴山の申し出を承諾すれば、後からも借用したいという申し出が来て困ることになる」と渋ります。そこで、「もしそういう場合があったなら、妙心寺の写本を提供することにします」と切り返し、建仁寺の承諾を得たのでした。
 さて、写本をはじめますが、1年経ってもなかなか作業は進みません。竺印は、1枚ごとの筆写に対して、筆墨代と供養料という手当を出すことで、作業をはかどらせました。また、紙も、より適した美濃紙を新たに漉かせたのです。
 さまざまな苦労がありましたが、寛文12年(1672)9月18日、作業は完了しました。借りた経典の表具を損じたものは、すべて取り換えて外題を書き、建仁寺に返したといい、また竺印の師・千山らが10月1日、建仁寺に礼を述べに赴いたそうです。

 建仁寺の大蔵経は、6,527巻、函数にして639函ありました。妙心寺のものは、巻を合わせた部分があるため、6,166巻となりました。


 大坂の豪商・淀屋の寄付で建立

 では、この大蔵経を収める建物は、どのようにして造られたのでしょうか。

妙心寺経蔵

 建物に残された棟札には、「施主 摂州大坂居住岡本重当[割注]仮名三郎右衛門/法名箇菴」と記されます。
 この岡本重当という人物は、大坂の豪商・淀屋の四代目(1634-1697)です。淀屋の姓は岡本、四代目も、二代目らと同じく号は个庵(こあん)でしたので、音が通じる「箇菴」と記載されています。

 淀屋といえば、五代目の広当のときに闕所(けっしょ、財産没収)となったことで知られています。その放蕩ぶりも取り沙汰されますが、実は四代目・重当も結構な放漫家でした。ガラス張りの天井を作って金魚を泳がせた話は余りに有名。金のふすまを作ったりもして、かなり散財したようです。

 その淀屋が寄進して、妙心寺の経蔵が造られたのでした。

 このとき、経蔵の建立と鐘楼の修復が一緒に行われました。その総経費は約81貫832匁でした。現在の費用にあえて換算すると、1億円から2億円くらいになると思われます。このうち淀屋が出したのは、3分1弱の25貫目らしいのです(『正法山誌』)。それでも莫大な金額です。

 「その1」で話題にした経典を入れる経函について、その経費をみておきましょう。いろいろな内訳があり、興味深いものです。

 ・経箱の代   2貫40目
 ・漆の代    978匁2分5厘
 ・朱の代    412匁8分
 ・塗師の作料、
  そのほか雑用 4貫623匁3分9厘
 ・経箱の塗代  1貫187匁
 ・経箱の内張  144匁
 ・経箱環の代  720目
 ・経箱文字の掘賃 90目
 ・経箱の図掘賃 29匁

 これが経函を作るための経費内訳です。だいたい200万円くらい掛かっています。函といっても、漆塗りで、内張りもして、引出しの環も付けて、千字文の字を彫って、さらに検索の板も彫るのですから、手間が掛かります。やはり塗物は値が張りますね。

 経蔵1棟建てるにも、さまざまな苦労があり、経費も掛かり、背景にはいろいろな人間模様がうかがえます。そう思って眺めると、この建物も一層重く感じられます。


 妙心寺経蔵




 妙心寺 経蔵(重要文化財)

 *所在 京都市右京区花園妙心寺町
 *拝観 境内自由 ただし経蔵は特別公開でのみ内部拝観可
 *交通 JR花園駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『重要文化財妙心寺法堂・経蔵修理工事報告書』京都府教育委員会、1976年
 無著道忠『正法山誌』思文閣、1975年(原著1935年)
 山田孝道『禅宗辞典』国書刊行会、1974年(原著1915年)
 渡邊忠司『町人の都 大坂物語』中公新書、1993年



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