04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

活動写真でにぎわった新京極の思い出 - 松田道雄『明治大正 京都追憶』その2 -

京都本




『新撰京都名勝誌』の新京極


 明治末から大正時代を回想 

 前回に引き続き、松田道雄さんの『明治大正 京都回想』から紹介します。

 松田さんは、明治41年(1908)茨城県の生まれで、生後まもなく京都に転居し、明治末から大正にかけての京都の様子を書き留めた --という話でしたね。


  明治大正京都追憶 松田道雄『明治大正 京都追憶』岩波書店

 最近、京都・大阪の芝居や活動写真に関心を持っている私としては、本書でもそのあたりの記述が気になりました。
 なかでも、「みどりさん」という女性についての松田氏の思い出に興味が湧いたのですね。


 みどりさんとの活動写真見物 

 『明治大正 京都追憶』で、みどりさんは次のように紹介されています。

 茨城県から出てきて同志社の女学校に行っていたみどりさんという娘が家に来るようになった。束髪のうしろをおさげにし、大きなリボンを髪にかぶせるようにつけ、胸高に袴をはいていた。大の活動写真好きで、あそびにくると私をつれて新京極に行った。

 活動写真館は男子席と女子席とに分けるように警察から命じられていたが、なにしろ暗いので女学生ひとりで行くのは物騒だった。幼児でも連れがあったほうがよかったのだろう。たよりない同伴者だが学校への申しわけにもなったのかもしれない。(53ページ) 


 みどりさんの苗字は書かれていません。
 たぶん、小さかった松田さんは「みどりさん、みどりさん」とだけ覚えていたのでしょう。
 茨城県から出てきたと書かれていますから、松田家の親戚か知人の娘さんだったのでしょうか。同志社女学校の生徒でした。
 松田家も医師の家庭ですが、当時娘さんを女学校に通わせる(それも茨城から)というのですから、みどりさんの実家もさぞ名家だったことでしょう。

 松田さんによると、当時、京都日出新聞に掲載された「京阪の女学生」という連載(明治42年)では、大阪ではリボン禁止、京都のある学校では、学校で小説を読むと譴責(けんせき)、新聞を読むと掃除当番をやらされたそうです(罰ですね)。
 そういう意味では、「活動写真を見るのを許していた同志社は自由だった」わけです。


 新京極へ

 日本の活動写真の歴史は、明治29、30年(1896-97)頃に始まります。
 明治末になると、歌舞伎などの芝居に匹敵する一大娯楽に台頭してきました。以下の引用で、活動写真を上映する館として歌舞伎座というのが出て来ます。
 
 歌舞伎座? 歌舞伎をやるんじゃないの? ということですよね。
 その名の通り、歌舞伎座はもともと歌舞伎を上演する劇場だったのですが、明治末に活動写真館に鞍替えしたのでした。それほど活動写真に勢いがあったという話です。

 明治の四十年代は活動写真がにわかにさかんになった時期にあたる。京都でも横田商会というのちの日活が、四十二年には南電気館と日本館と西陣電気館をやっていただけだったのが、四十五年には活動写真をやる館が、歌舞伎座、八千代館、みかど館、中央館、三友倶楽部、パテー館、北電気館、オペラ館、常設館、世界館にふえた。

 もっとも、どれも一巻程度の短編を七本立か八本立でやっているにすぎず、長尺の劇映画は日本ではまだつくっていなかった。一巻も十七場とか十八場とかいって、カット数が少なく、旧劇、新派劇のほかに外国の風景ものをやっていた。(53ページ) 



 大正初期の新京極(新撰京都名勝誌)
  大正初期の新京極 蛸薬師錦上ル 帝国館付近(『新撰京都名勝誌』)

 明治末、京都随一の繁華街である新京極では、「第二京極」という場所が開発されました。
 四条通から上がった東側、錦天満宮の裏手あたりです。
 ここに、松田さんも書いている八千代館や中央館、三友倶楽部などが出来たのでした。

 八千代館は数年前までやっていたので、ご記憶にある方も多いでしょう。
 また、北側の公園のところや、その東隣のスーパーホテルのところも上記の活動写真館で、戦前(さらに戦後も)このあたりは映画館街だったのです。

 旧八千代館(WEGO)
  第二京極の八千代館跡(現WEGO) 昭和初期の建物が残る

 みどりさんに最初につれていってもらったとき、ジャガタラ先生というのと、新馬鹿大将というのが出てきたのをおぼえている。どちらも西洋のドタバタ喜劇だった。それがどの館で、いつだったかわかると、そのときの私の年齢もわかるわけだ。

 日出新聞に劇場が出しものの広告「興行案内」を出すようになったのは、[明治]四十五年の三月からである。それまでは演芸担当の記者が劇評の形で、各劇場の出しものを「ゑんげい」欄に紹介していた。

 (中略)

 ジャガタラ先生と新馬鹿大将を同時に上映した館がないかとさがしていたら、とうとうみつかった。明治四十四年十二月十一日、パテー館で「滑稽ジャガタラ先生」「史劇大奸悪」「実写シシリー島の絶景」「史劇阿新丸」「悲劇浮草物語」「喜劇新馬鹿大将」「新派劇日本男子」の上映をはじめたと「ゑんげい」欄にかいてあった。

 みどりさんは学期末試験のすんだ十二月十五日ごろ私をつれだしたのだろう。とすると、私の映画遍歴は三歳二カ月からはじまったことになる。(54ページ) 


 3歳で見た映画のタイトルを覚えているのは驚異的、淀川長治並みの記憶力です。

 ……と、書いたところで、もしかすると淀川さんのこの辺の記憶ってどうなってるのだろう? と思いました。
 さっそく、『淀川長治自伝(上)』を見たところ、こんなことが書いてありました。淀川さんは、松田さんより1歳年下です。

 さて私が生まれたのは明治四十二年(一九〇九)の四月十日。(中略)父は今日にも子どもが生まれるという臨月の母をつれ四月九日の夜も活動写真を見にゆき、活動写真を見ているさいちゅうに母が産気づきあわてて帰ることになったのだが、父はいま見ている活動写真があまりにも面白く、「おまえ、さきにかえれ、わしはぜんぶ見てからかえる」と言ったそうである。

 (中略)

 その日はいったいどのような活動写真を上映していたのであろうかと、母にこれもずーっとあとで聞いてみたところ、西洋のにわか喜劇で『馬鹿大将』というのをやっていたと私に打ち明けた。呑気な話で、かかる腹で活動写真をよくも見物に出かけたものである。(中略)そのあくる日の朝の十時十五分に私は生まれたのだが、さてその『馬鹿大将』とはいったい何であろうか。どうやらこれはフランスの活動写真で『ドン・キホーテ』であったらしい。もっともこの十分くらいの劇映画のほかにも実写や何かと五本くらいを上映していたらしい。(25-26ページ) 


 なるほど、「馬鹿大将」というのが「ドン・キホーテ」。筈見恒夫氏もそう書いているので、間違いなさそうです。ということは、その2年後に公開されていた「新馬鹿大将」は、その続編なのでしょうか。

 昭和初期の新京極(京都)
  昭和初期の新京極 三条下ル松竹座前(『京都』)


 連続大活劇! 

 次に、みどりさんの名前が出て来るのは「三年生」という章です。
 ちょっと長くなるけれど、大正5、6年(1916-17)頃の思い出を引いてみましょう。

 そのころは連続大活劇の全盛の時代だった。大正五年に「拳骨」が今の菊水キネマの天活倶楽部で、大正六年には「鉄の爪」が今はなくなった帝国館で上映された。どちらもパール・ホワイト嬢が女主人公であった。

 (中略)

 連続ものの最初は大正四年に見た「ファントマ」だった。「拳骨」の前に「名金」「快漢ロロー」を一部見たし、「鉄の爪」につづいて「運命の指輪」「レッドサークル」をところどころ見たから、連続ものはあまり見逃していない。
 連続大活劇は子どもの観客を中心に発達した活動写真の一頂点で、それからあと成人向きの劇映画が出てくる。そうなると子どもの私にはおもしろくないし、家でもゆるしてくれなくなった。
 だが、連続大活劇のまえにも洋画の劇映画は、あるにはあった。
 大正のはじめの日出新聞をくってみると、みどりさんにつれていってもらった劇映画をひろいだせる。大正元年の「ナポレオン」も大正二年の「巌窟王」も歌舞伎座で見たし、大正三年の「クレオパトラ」は帝国館で見ている。
 こういう劇映画はどの映画史にも引用されているのを見ると、田舎から出てきた同志社女学生のみどりさんの眼力は抜群だった。私が三年生で連続大活劇にうつつをぬかしたのも、みどりさんの薫陶のたまものだ。(197-198ページ) 


 連続活劇は、この頃のブームで、同世代の映画評論家・双葉十三郎氏もその思い出を語っていますね(『ぼくの特急二十世紀』)。
 双葉氏によると、連続活劇は米語で「クリフ・ハンガー」(崖からぶら下がるヤツ)というそうです。なぜなら、断崖絶壁にぶら下がるシーンがやたら多いからだそうです(笑) 主人公が絶体絶命の窮地に陥る場面が多いのでしょう。

 松田さんが覚えているパール・ホワイトも、双葉氏の本に写真掲載されています。連続活劇のスター女優だったそうです。

 松田さんを映画の世界に誘ってくれた女学生みどりさん。
 でも、本書ではこの後みどりさんの名前は一度も出てきません。女学校を出て、どこかへ行ってしまったのでしょうか。

 大正座の女優劇の話や、活動写真の女弁士のことも大いに興味が湧くのですが、みどりさんのその後について、それ以上に知りたい私でした。




 書 名  『明治大正 京都追憶』
 著 者  松田道雄
 刊行者  岩波書店(同時代ライブラリー)
 刊行年  1995年(原著1975年)



 【参考文献】
 筈見恒夫『新版 映画五十年史』鱒書房、1947年
 淀川長治『淀川長治自伝(上)』中公文庫、1988年
 双葉十三郎『ぼくの特急二十世紀』文春新書、2008年
 

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント