50年前の京都の街は…… 『カメラ京ある記』を読む
|京都本|

朝日新聞のカメラルポ
前回、『新編 随筆京都』という半世紀前に出版されたエッセイ集を読んでみました。
今日は、同じ頃に刊行された写真ルポのページをめくってみましょう。
タイトルは『カメラ京ある記』。そして『跡 続・カメラ京ある記』です。

朝日新聞京都支局編とあって、もとは同紙の京都版に連載されたものと言います。
正編100、続編98の項目があり、著名人へのアンケートをもとに立項したそうなのですが、メインの写真や記事は支局員によるものです。
記者とカメラマンが現場に行って写真を撮ったり、記事を書いたりしたわけで、「たのしい仕事だった」と木村庸太郎支局長のあとがきに記してあります。確かに、街を歩いて話を聞き、撮影するのは、とても楽しいですよね。よく分かります。
刊行された時期は、正編が昭和34年(1959)、続編が2年後の昭和36年(1961)。
前回の『新編 随筆京都』と同時代で、ようやく戦後復興も成り、京都の街にも賑わいが戻って来た頃だったのでしょう。
変わる先斗町
私は年明けから、ふらっと木屋町、先斗町界隈を歩いて、ここにも少し道案内を書きました。
それで関心もそちらに向き、『カメラ京ある記』にも、どう書かれているか気になります。
正編の12番目に「先斗町」があります。
先斗町(ポントちょう)は夜の町だ。昼間はどこか白白しいが、日が暮れると、町全体が夜のよそおいをこらして活気づく。(30ページ)
傘を差してすれ違えないほど狭い通りで、そこで傘を傾けながら芸妓さんと行き合うのも、このあたりの風情だと記します。
ここでもやはり触れられるのは、街の変化。
昭和の初めごろには、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。
先斗町お茶屋組合長の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。
祇園が保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆に取り入れると記者は言います。
毎年5月に先斗町歌舞練場で行われる鴨川をどりに、「パリのマロニエ」云々といった歌も飛び出すあたりが、ここらしいと指摘します。

この記事で目を引くのは、昭和の初めには150軒あったお茶屋が、約30年後の当時は半減している、ということです。
京都市街のほとんどは戦災を免れていて、先斗町もそうですが、やはり終戦後の荒波で持ちこたえられないお茶屋も多かったのでしょうか。
ちょっと軒数を調べようと思い探っていると、興味深い論文に行き当りました。
松井大輔・岡井有佳「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」というものです。
この論文のテーマ設定は、意外ですが大変重要なものです。ただ、本題から外れるので、興味のある方は原著を読んでみてください。実際、昨年(2016年)も、先斗町の飲食店で火災が起きたのは記憶に新しいところです。
論文によると、明治43年(1910)にはお茶屋は152軒あり、ピーク時の昭和初期には172軒(昭和5年=1930)まで増加しています。
戦時下の昭和10年代も、140軒以上あります。
戦中戦後のデータのない時期を経て、昭和28年(1953)になると、82軒に激減しています。
先斗町は通りの両側にお茶屋が並んでいるのですが、戦前は西側に多かったのです。ところが、戦後は西側のお茶屋が数多く廃業しています。
論文では、その理由を「第二次世界大戦中に地区中央部の一帯が建物疎開によって空地化し、当地にあったお茶屋が廃業したためと考えられる」としています。現在、先斗町を歩くと、ほぼ中程に公園(東)と駐輪場(西)がありますが、ここが建物疎開した場所です。
それだけの理由ではないかも知れませんが、戦争を挟んで約60軒減少したわけです。
その後、昭和30年代はおよそ70軒、40年代はおよそ60軒のお茶屋がありました。
昭和60年代から平成の初めにかけては、40軒ほど。現在の平成20年代になると20軒余りまで減っています。2013年の時点では、26軒ということです。
『カメラ京ある記』が出された頃は、まだ70数軒のお茶屋があり、飲食店はお茶屋の数よりも少なく、花街らしい風情が残っていたことが分かります。
かつての木屋町は
木屋町もまた、昭和30年代は現在とは違った様相を呈していました。

木屋町を幾重にも切る細い路地には、色とりどりのネオンとバーの看板が、ひしめき合っている。五条署の話によると、このかいわいで、バー、キャバレーのたぐいは五百軒に近い。しかも年に百軒もふえているそうだ。(32ページ)
このバー、キャバレーの数500軒というのが、多いのか少ないのかよく分かりません。ただ、当時の京都としては随一の飲み屋街だったということでしょう。
続編には、もう少し突っ込んで書いています。
明治以前の木屋町通には川ぞいに材木置き場や薪炭納屋が並んでいた。三条小橋から四条小橋までの間にある西木屋町筋にも、材木がたくさん立てかけられ、先斗町の陰に隠れたさびれた町筋だったという。
ところがここ数年のうちに、このあたりのネオンの数が木屋町通でいちばん多くなった。五条署の調べだと、去る三十四年末、五百四十九軒だった酒場の数が一年たらずに五百八十軒にふえている。(続編、185ページ)
昭和35年(1960)頃、木屋町界隈に580軒もの酒場があったと言います。
この急増ぶりは、地元以外の資本も入って来た結果のようです。
経営者は地の人ばかりではなく、関東弁でサービスする女給さんの数も多い。古い京都を知っている人たちは、この変わりっぷりを “ニューキョートの誕生” という言葉で表現する。
過去の存在を無視し、京都的なものを否定した新しい場所が、とつぜん生まれたわけだ。
正編には、ここらのキャバレーやバーには美人がいて、客をちやほやするものだから、男の方も「オレはもてたんだ、などと勘ちがいするものも現われる」と書いています。微笑ましいと言うべきでしょうか。

閑古鳥のなく寺、流行る寺
私が、この本の中で驚いたのは、「東福寺」のページでした。
そこには、次のように記されています。
「きょうもまたカンコ鳥どすなあ…」 拝観料をとるおばあさんがぼやいていた。観光シーズンのさなかだというのに、名所通天橋の紅葉もやがて散ってしまおうというのに、広大な寺域はひっそり閑。
都心の近くにありながら平日の観光客は四十人程度、京洛五山の一つに数えられる東福寺は、いまや観光から全く置き忘れられたかたちだ。
「珍しく観光バスが入って来たと思うたら、お客が公衆便所を使うとさっさと回れ右しはるのどすぇ」 おばあさんはお寺の宣伝不足を口惜がる。(127ページ)
紅葉のシーズン、平日の入山者がたったの40人とは…… いまの東福寺では考えられません。
もっとも、いまでもオフシーズンは割りと静かで(私はそれが好きなのですが)、落ち着いたお寺なのが東福寺。それでも、40人とはケタが違うでしょう。

賑わう現代の東福寺・通天橋
この記事を読んで、私が感じたもうひとつのこと、それは昔の記者は自由に書くなぁ、ということでした。
たった40人しか来ておらず、それを受付のおばあさんが嘆いている――いまだったら、いろいろ配慮してこういう記事は書けないのではないでしょうか。
そう思ってページを繰っていくと、こんな記述もありました。
昭和二十五年七月二日未明、北山鹿苑寺の舎利殿金閣は、その美しさに魅せられた一仏教学生の手で焼き払われた。
(中略)
“昭和の金閣” はその後五年、二千八百万円でまばゆく再建された。三万人もの拝観客が毎日のようにぞろぞろと列をつくって、金閣ブームをあおったのもそのころである。
(中略)
たそがれの鏡湖池は美しい。昔は金閣も池の中に浮かんでいたものだ。対岸は紅葉山という。もみじは少なくなったがここから優雅な金閣へのカメラアングルは見事だ。
写真を撮りたいと案内人に申し出ると、お供えをと金千円ナリの撮影料を請求されて、とたんに幻想の夢はやぶれる。金閣の再建費などとっくに回収しただろうに-。一億円ほどたまれば金閣会館をたて室町文化の資料室や図書館なども作って社会事業に還元するそうだが… (85ページ)
歯に衣着せぬという感じで、ガンガン書きますねぇ。
これも時代でしょうか。
古い本を繙くと、いろんな意味で勉強になります。
書 名 『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
編 者 朝日新聞京都支局
刊行者 淡交新社
刊行年 1959年、1961年
【参考文献】
松井大輔ほか「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」(「歴史都市防災論文集」vol.8、2014年)
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