西陣に対する「東陣」とは?
|洛中(上京区)|

「東陣」ってあるのか?
先日、“西陣550年” の記事を書きました。
応仁の乱に際して、山名宗全が陣を置いた場所が「西陣」と呼ばれるようになり、それから今年(2017年)が550年に当たるというものです。
その際、「東陣」はあるのだろうか? という素朴な疑問を頂戴しました。

大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』を見ると、「西陣織物 幷(ならびに)刺繍友禅染」の項に、次のように書かれています。
西陣とは現今堀川以西、一条以北の地を総称す。応仁記に西陣(山名宗全の軍)には千本、北野、西ノ京、また東陣(細川勝元の郡)も上は犬馬場、西蔵口、下は小河、一条まで云々とあれば、堀川以東を東陣と称せしが如く思はるれど、今はたゞ西陣の称のみ残り(後略) (304ページ)
このように、西陣とともに「東陣」についてもふれていて、堀川通より東が「東陣」であったように記しています。
上の引用文に出て来る地名で「西蔵口」というのがありますが、これは現在の「清蔵口(せいぞうぐち)」に当たるようです。
堀川通と烏丸通の間、鞍馬口通あたりに、上清蔵口町(北区)と下清蔵口町(上京区)があります。
江戸時代の「雍州府志」などによると、元は「西蔵(倉)口」であると言います。
京都市街に出入りする七口(ななくち)のひとつであったとされています(七口には諸説あり、実際には7か所以上あったらしい)。
なお、犬馬場は、西蔵口の南あたりだったようです。
『新撰京都名勝誌』に従えば、「東陣」は、堀川通より東で、北限は(およそですが)鞍馬口通あたり、南限は一条通あたり、ということになります。なお、東限は烏丸通あたりでしょう。
東西南北ほぼ1km四方の広い範囲で、下記のように、西陣もこれと同じくらいの広さでした。
西陣の範囲は、江戸時代の「京都御役所向大概覚書」には「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通」とあります。
江戸時代の範囲なのですが、西陣は、東は堀川通、西は七本松通の間で、北はおよそ北大路通あたり、南は一条通か中立売通までであったという認識です。

白雲村の白羽二重
東陣について、もう少し知りたいと思い、『京都町名ものがたり』を繙いてみました。
すると、応仁の乱後の状況について、次のように説明されています。
応仁の乱を避けて各地に散らばっていた織物関係者は、乱後、西陣の地に帰住し始めた。その中心となったのが大舎人座(おおとねりざ)の機織家たちだった。
一方、練貫座(ねりぬきざ)の人々は、東陣の跡地に居を構え、白羽二重(しろはぶたえ)を生産した(練貫は絹織物の一種)。
白羽二重の純白から取られたのか、そのあたりは白雲(村)と呼ばれた。場所は、室町通の西、小川通より東で、今出川通よりも北に当たる。これが、かつての東陣の地域に相当する。
このように述べて、現在の新町通今出川上ルの元新在家町がそのゆかりだと指摘しています。同志社大学新町キャンパスの南側付近です。

今出川新町の交差点
新町通の1本東の室町通には、室町幕府(花の御所)があったことを示す碑が立っています。そこを中心にしつつ、細川方は東陣を敷いたわけです。

室町幕府(花の御所)跡碑
それにしても、東陣とは聞き慣れない名前でしたが、現在では交通量も多い今出川通の付近だったわけです。
京都の歴史は奥が深いと思いますが、知らず知らずのうちに、東陣の跡をいつも歩いていたのでした。まさに「兵どもが夢の跡」ですね。
ところで、現地をぶらぶら歩いていたら、広報板にこんなポスターが貼ってありました。

「歴史シンポジウム 応仁の乱」のポスター。
ここにも「応仁の乱勃発550年」とあります。
そして驚くべきことに「洛中洛外図屏風に見る乱後の東陣」と書いてあるではありませんか!
調べてみると、昨年(2016年)2月に第1弾が行われ、上京区の方では東陣の盛り上げが図られていたようです。

こんなところで「東陣」に出会うとは ! ! 意外でした。
東陣跡
所在 京都市上京区今出川通新町上る元新在家町 付近
見学 自由
交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約3分
【参考文献】
川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
『日本歴史地名大系 京都市』平凡社、1979年
『京都府の歴史散歩(上)』山川出版社、2011年
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