05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その2)





西木屋町


 西木屋町

 京阪・祇園四条駅をスタートした “駅から、ふらっと1時間”。
 四条小橋を右折し、木屋町通を北上します。

 四条ー三条ルート

 地図上の赤線は、市電の線路です。線路の左には、高瀬川が流れています。
 高瀬川の左(西)側には、とぎれとぎれですが道が画かれていますね。これが、いわゆる西木屋町です。

 西木屋町
  高瀬川の左が西木屋町

 現在では、三条通の1本南から蛸薬師通までと(上の写真)、旧立誠小学校の南から四条通まで通っています。
 ところが、明治末の上の地図では、三条通の南の方はほとんど道がないし、四条通の北の方も途切れている箇所がありますね。

 木屋町裏の大木

 この道は、四条通を1筋北に上がったところの西木屋町です。
 なぜか大木があり、道も曲がっていて、誰しも不思議に思う街路なのです。この場所を地図で確かめると、道は描かれていません。少なくとも明治末の時点では道はなかったのでした。
 おそらく、家が建っていたところに無理やり? 道を通したので、こんな変な路地になったのでしょう。

 この北側も、明治末からあるようですが、狭い道です。

 木屋町の一筋西

 沖縄料理店「赤ひげ」とか、老舗バー「サンボア」など、古くから続くお店もありますね。

 赤ひげとサンボア

 ここを北へ行くと突き当りになり、小学校跡のグラウンドが見えて来ます。


 舟入跡と土佐藩邸跡 

 旧立誠小学校あたり

 写真は再び、木屋町通。
 左前方が、かつての立誠小学校です。

 立誠(りっせい)小学校は、四条通に沿った市街中心部の学校のひとつで、明倫、日彰、生祥などとともに賑やかなところにある小学校でした。
 学区は、南北は三条と四条の間、東西は鴨川と寺町の間。まさに、京都随一の繁華街が学区です。

 八の舟入跡

 江戸時代は、このグラウンドのあたりは高瀬川の舟入(ふないり)があったということで、石標に「八之舟入址」とあります。
 高瀬川は角倉了以が開いた運河で、高瀬舟による舟運が行われていました。荷物の揚げ降ろしや船の方向転換をする場所が、舟入です。
 一番川上は、二条通下ルにある一の舟入で、ここには今でも広い水面が残されています。他は、九の舟入跡まで石標が建てられていて場所が分かります。
 ちなみに、今回はこの先にも、7、6、5と舟入跡に遭遇します。

 小学校の北側には、七の舟入がありました。

 七の舟入跡

 昔からここは、ちょっとした広場になっていましたが、舟入の痕跡だったのでしょうか。今では駐輪場になっています。

 七の舟入跡の船

 レプリカの船と写真が展示されていますね。
 舟入の左手には、土佐藩邸跡を示す標識があります。立誠小学校の場所は、江戸時代は土佐藩邸だったのですね。
 道路を西に進んで行くと、かつては土佐藩邸内にあった稲荷社を遷した土佐稲荷(岬神社)もあります。小さな龍馬像もあるので、お詣りに行くのもよいかも知れません。


 旧小学校で映画上映

 校名が論語の一節に由来する立誠小学校。明治2年(1869)、京都の学校黎明期に建てられた小学校のひとつで、当時は下京第六番組小学校でした。場所も、現在地より北の河原町三条にありました。

 今回のルートマップを見てみると、高瀬川畔に「電燈會社」と書いたところがありますが、ここが現在の立誠小学校の位置です。
 昭和3年(1928)に移転し、いま残されている校舎が建設されました。

 電灯会社とは、京都電灯のこと。のちに統合して現・関西電力となる会社です。
 この場所は、いまから百年前の明治30年(1897)1月、当時日本に輸入され始めた映画が試験上映された場所でした。
 京都市出身の企業家・稲畑勝太郎――大阪で稲畑染料店(現・稲畑産業)という会社を経営していました――は、青年時代、京都府からフランスに派遣されたことがありました。そのとき、映画の発明者・リュミエール兄弟と知り合い、のちに映画を輸入したのです。
 フランスから輸入した映画フィルムを仏人技師に試験上映させた場所が、京都電灯の中庭だったということです。稲畑は、翌月、大阪・南地演舞場で上映会を開いています。

 日本での “映画のはじまり” には、さまざまな考え方があります。使った機材と上映方式、興行方法などが、いろいろあるためです。
 ただ、百年前に当地で行われた映画上映も「起源」のひとつと言えるでしょう。そのため、ここは日本映画の故地として顕彰されています。

 だから、と思うのですが、ここでは「立誠シネマプロジェクト」という映画上映が行われています。

 立誠シネマ

 古い校舎の3階に上がり、ぎしぎしきしむ廊下を進むと、教室を改造したシアターがあります。
 座席数は、40ほど。
 私も、今回、話題の作品「この世界の片隅に」を見ましたが、キャパがオーバーするほどの超満員でした。
 

 古い鉄筋コンクリート造の校舎

 立誠シネマは、毎日上映しているので、以前は立ち入りしづらかった学校内にも入れるようになりました。
 立ち入り禁止ゾーンも多く、撮影も不可ですが、昭和初期の学校建築を見ることができます。

 旧立誠小学校正面
  旧立誠小学校 校舎

 鉄筋コンクリート造3階建で、昭和3年(1928)竣工。
 昭和初期、京都市では鉄筋コンクリート造(RC造)の校舎が盛んに建てられていました。
 とりわけ、本館、校舎、講堂・雨天体操場の3つを共にRC造にした学校に、本能、立誠、中立、修徳、成徳、淳風、明倫、清水、桃薗の各校がありました。なかでも、ここ立誠小学校はその第一号だったのです(『近代京都における小学校建築』)。

 立誠小学校の場合、正面(敷地の東側)に本館を置き、南北に校舎を配置。南西に雨天体操場をつなげています。上から見ると「コ」の字形の平面になっているのです。

 関東大震災(大正12=1923年)以後、建築や橋梁の耐震・不燃化は喫緊の課題で、東京ではRC造で小学校の復興が進みました。
 京都にもそのような流れが及んだわけですが、このあと昭和9年(1934)に関西を襲う室戸台風では、RC造の校舎が児童・生徒を守ったのです。

 外観を見ると、当時の学校建築によく見られるように、縦長の窓を多数うがっています。

 玄関

 アーチの玄関には大きな庇を付け、装飾を施しています。このようなアーチは、当時の小学校建築の流行だったそうです。
 上を見上げると、露台(バルコニー)が突き出していますね。

 露台

 シックな印象ですが、なかなか正面性が強い建物で、通りからも目立つ存在です。
 高瀬川がありますので、玄関に入るには橋を渡ります。

 旧立誠小学校の橋

 橋の細部

 なぜか「川」の字に見えるのは気のせいですね(笑)


 南北も見られる

 南側はグラウンドに面しています。

 旧立誠小学校南面

 階段室の上部に3つのアーチ窓を連ねたところなどは、ちょっとロマネスクの教会みたいで微笑ましい。

 窓の好きな方は、北側もいいですよ。
 
 旧立誠小学校北面

 この辺りは、窓の桟やガラスも古いままのようで、雰囲気があります。

 ちなみに、校舎内では階段なども見どころですし、中庭もあります。ただ、写真がNGのため、実際に訪れてご覧になってください。

 そんなわけで、この小学校だけでも1時間近くかかりそうですが、道はまだ半分ほど……
 もう少し歩を進めたいと思います。


 (この項、つづく)




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



 【参考文献】
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年



スポンサーサイト

コメント

非公開コメント