京都支局が名建築の毎日新聞社の歴史について振り返ってみた
|洛中(中京区)|

新聞は文明の象徴
このところ、必要があって毎日新聞についてまとめています。
もちろん、大それたことではなく、この人について少し話す機会があるからです。

本山彦一(『大阪毎日新聞五十年』より)
本山彦一(もとやま ひこいち)。
幕末、熊本に生まれ、維新後は慶應義塾に学んで、東京の新聞社・時事新報に入りました。
のち、大阪に移って実業界で活躍し、明治22年(1889)、大阪毎日新聞の相談役に就任。さらに社長になりました。
朝日新聞と並んで、関西の2大新聞の一翼 “大毎” 中興の祖と呼ばれています。
そう、毎日新聞は、かつては大阪毎日新聞と言い、略称は「大毎(だいまい)」だったのです。
ちなみに、朝日新聞は大阪朝日新聞で、通称は「大朝(だいちょう)」です。

だから、本社は大阪の堂島にありました。

白亜の殿堂というような大毎本社の回りは、瓦屋根の町家で、いかに時代を先取りしていたかが分かります。
新聞は、文明の象徴という側面があって、紙面はもちろんのこと、社屋もそうですし、印刷する輪転機もそうでした。
戦前、新聞社の紹介には高速輪転機がつきものでした。

『大阪毎日新聞五十年』に掲載された印刷機の写真
先の写真の社屋ができた大正11年(1922)、大毎には17台のマリノニ式輪転機が設置されました。
マリノニ式は、明治後期から輸入される高性能輪転機です。マリノニは考案者の名前ですね。
でも、印刷機もどんどん進化して、昭和7年(1932)、これは本山彦一が亡くなった年ですが、その頃にはマリノニ式より早い高速度輪転機や、さらに早いウルトラ高速度輪転機! まで配備されていました。当時の印刷力は、4ページの新聞なら約240万部印刷可能な陣容だったと言います(もっとも新聞のページ数はもっとあるのですが)。
中興の祖・本山彦一
脱線しましたが、その本山彦一は、大毎の百万部を達成した中興の祖だったのですが、単なる新聞人ではなかったのです。
彼は、若い頃、モースの大森貝塚発掘に刺激され、考古学に興味を抱きました。
仕事の傍ら、遺物をコレクションし、大阪府堺市の浜寺に、本山考古室を開設しました。
また、自分で遺跡を発掘することもありました。例えば、大正6年(1917)、大阪府の国府(こう)遺跡を発掘して、人骨を掘り出しました。そのなかには、耳飾りを付けた(正確には頭蓋骨の横に耳飾りがあった)骨も見付かるなどの発見をしました。
京都帝大の考古学者・濱田耕作(青陵)は、本山のことを「考古学界のパトロン」と呼ぶほど、公に私に考古学を援助したのです。
一方で、これは今から見ると “考古学とつながるのかな?” と思うのですが、歴代の天皇陵をお参りする運動を行いました。
これを皇陵巡拝(こうりょうじゅんぱい)と呼びます。
まあ、神話上の天皇である神武天皇陵なども含まれていますから、必ずしも考古学的な視点ではありませんけれども、そういった一環として位置づけることもできるでしょう。
京都支局長は、考古マニア
現在、毎日新聞の京都支局は、河原町通丸太町上ルにありますが、私の学生時代頃までは、三条通御幸町の角にありました。
建物は、現在も残っています。

京都支局が移転したあと、保存が危ぶまれましたが、建築家の若林広幸さんが買い取り、保存・活用の途を開かれました。すばらしいことだと思います。
現在は、無言の演劇「ギア」を上演するスペースとしても知られていますね。

ビル名通り、1928年=昭和3年に建設されました。設計者は、京都帝大教授の武田五一です。
ビルの上部をよく見ると、大毎のマークが発見できるでしょう。中央が「毎」になっていますね。全体の星型も「大」をイメージしているそうです。

建物の側面(御幸町通側)も、隠された見どころです。

特に、両開きの窓が、いい感じですよね。

この建物の竣工時、京都支局長を務めていたのが、岩井武俊です。
岩井は、世の “考古記者” のはしりと言うべき存在で、考古学はもちろん、歴史や建築に造詣が深かった記者でした。
寺社建築の写真集『日本古建築菁華』をまとめたり、京都に関するエッセイ集『京ところどころ』を編集。また『京郊民家譜』正続を刊行するなど、数多くの編著書があります。
大毎への入社は、大正3年(1914)です。
入社の面接は、本山が直々に行ったそうです。岩井の考古学や歴史の知識が本物だと知って採用したのでしょうか。
入社後は本山と考古行脚していますが、仕事としては京都支局に配属され、大正4年の大正天皇即位礼を取材しました。
その後、政治部、社会部などと異動し、京都支局に戻ったのは昭和2年のこと。翌年、京都御所で昭和天皇の即位礼が行われるからでした。
二度にわたる「御大典」の取材。それも二度目は支局長として。
面目躍如というべきですね。
岩井は、本山が進めた皇陵巡拝でも案内役を務めるなど、その右腕として力を発揮しています。
社長と一記者とが、考古学を通じて付き合っていた時代。
なんだか「釣りバカ日誌」みたいですが、すてきな交流だと思います。
1928ビル (旧大阪毎日新聞京都支局)
所在 京都市中京区三条通御幸町東入ル弁慶石町
見学 商業施設として営業
交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約5分
【参考文献】
『大阪毎日新聞五十年』大阪毎日新聞社、1932年
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