08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

室戸台風の惨状を今に伝える師弟愛の像

洛東




師弟愛之像


 昭和9年9月に来襲した室戸台風

 昭和9年(1934)9月21日、関西地方を猛烈な台風が襲いました。
 最低気圧は911ヘクトパスカル、瞬間最大風速60メートル、死者・行方不明者は3037名にのぼりました。特に風が強い台風で、気象台の風速計が振り切れたという話もあります。

 このブログでも、以前、文化財に与えた被害を紹介したことがありました。

 記事は、こちら! ⇒ <昭和9年の室戸台風は、京都の文化財にも大きな被害を与えた>

 文化財の被害や山林の崩壊なども大きな爪痕を残しましたが、最も胸を痛めるのは数多くの小学校に被害が及んだことでした。

 室戸台風の被害(「上方」より)
  倒壊した西陣小学校 (雑誌「上方」46号より)

 台風の翌年、京都市がまとめた『京都市風害誌』によると、13の小学校で校舎が倒壊し、35の小学校で大破などにより校舎が使用不能になりました。
 また、京都市内だけでも、112名の児童、3名の訓導(教員)が尊い命を落としました。
 室戸台風は、朝の8時頃に関西に上陸したため、登校してきた児童たちが犠牲になったのでした。

 最も大きな被害が出たのは、西陣尋常小学校でした。
 1時間目の授業が始まった頃だったので、521名の児童が倒壊していた校舎の下敷きになり、41名の児童が亡くなりました。

 それについで市内で大きな被害にあったのは、淳和(じゅんな)尋常小学校でした。
 この小学校は、現在の西院小学校にあたります。阪急「西院」駅の西北にあります。
 もともとは京都西郊の葛野(かどの)郡西院(さいいん)村にあり、西院校として開校。昭和6年(1931)、京都市に編入され、まもなく淳和尋常小学校と改称されました。これは、いにしえ、この地に淳和上皇の居所(後院)があったためです(これが「西院」という地名の由来となっています)。

 台風当日の淳和小学校では、朝、校長から「風雨に注意するように」という訓示がありましたが、近くの春日神社の杉木立が折れたり倒れたりし始めました。すぐに講堂に避難するよう指示が出ましたが、校舎が倒壊し、32名の児童と1名の訓導(教員)が亡くなりました。

 これ以外にも、下鳥羽、向島、大内第三の各校で児童が亡くなり、向島では訓導2名が落命しています。


 児童を救った松浦先生

 京都市内で亡くなった訓導(教員)は3名で、淳和小学校の松浦壽惠子訓導と、向島小学校の平井ノブ訓導、仲埜テル訓導でした。
 松浦訓導を悼む像が、いま知恩院の南に立っています。

 知恩院
  知恩院南門

 知恩院から円山公園に抜ける南門の左脇に、ひとつの銅像があります。
「師弟愛之像」です。

 師弟愛之像

 歌人・吉井勇の歌「かく大き愛のすがたをいまだ見ず この群像に涙しながる」が前面のプレートに記されています。

 師弟愛之像

 像は、戦時中に供出され、戦後の昭和35年(1950)再建されました。

 師弟愛之像
 
 幼い児童を抱きかかえて守る先生。
 松浦壽惠子先生だということです。

 当時松浦先生は30歳で、像の顔は西洋人のような厳しい表情ですが、『京都市風害誌』に掲げられたふだんの写真は、ふっくらとした頬の優しそうな先生です。1年生の担任でした。

 当日の模様は、京都府が刊行した『甲戌暴風水害誌』には、次のように書かれています。

 俄(にわか)に校舎がメリメリと鳴る。何か目に見えぬ強い威力が急に身辺を圧する。そこへ田中訓導が山田校長の命令を伝へ、「危険だからすぐ講堂に避難せよ。」と呼んで廻つた。
 
 松浦訓導は早速児童を廊下に出させ、講堂の方へ向つて前進を急がせ、自分も共に随いて行つたが、ふと、逃げ遅れた児童が教室に残つてゐないであらうかと思つたので、再び教室の方へ引き返さうとした其の刹那である。壁土はバタバタと白煙を吐いてあたりは濛々となり、天地も崩れんばかりの轟然たる音響と共に校舎は倒壊した。

 松浦訓導は倒れ来る校舎の柱を右手で支へるやうにして、「あぶないから早く、早く。」と連呼して一生懸命に児童を指揮督励しつゝ遂に逃げ遅れた数十の児童と共にその下敷となつてしまつた。(35-36頁)


 柱の下から救出された松浦訓導は、頭に傷を負って亡くなっていました。
 しかし、その胸にはひとりの児童を抱きしめていて、その女の子は少しの怪我もなく助かったのでした。
 女の子の父親は、運ばれていく松浦訓導の姿を見て「お前は先生のお蔭で助かったのだ。なぜ先生と一緒に死ななんだ」と涙ぐみ、合掌したと言います。

 当時、市内の小学校の校舎は、徐々に鉄筋コンクリート化が進んでいました。しかし、市内全域の木造校舎率は高く、約8割が未だ木造校舎でした。とりわけ、昭和6年(1931)に京都市に編入された新市域には、木造校舎が多かったと言い、倒壊校舎の多くは周辺部の小学校でした。一方、鉄筋校舎は無事で、校舎によって明暗が分かれるという痛ましい事態になったのです。

 室戸台風後、昭和14年(1939)にかけて、京都市内の小学校では校舎の鉄筋化が進められていきました。




 師弟愛之像 (知恩院内)
 
 所在  京都市東山区林下町
 見学  自由
 交通  市バス「知恩院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市風害誌』京都市役所、1935年
 『甲戌暴風水害誌』京都府、1935年
 『京都府 暴風雨調査報告』京都測候所、1935年
 「上方」46号、1934年10月
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年


スポンサーサイト

コメント

教育塔と師弟愛之像

大坂城公園にある教育塔は室戸台風の時に児童を守って亡くなった先生方の記憶を今に伝えていますが、それと同じ話が京都にもあったのですね。

室戸台風では京都市内でも学校など多くの建物が倒壊したことは知っていましたが、知恩院南門は幾度も通っているにも係わらず、師弟愛之像には気が付きませんでした。

私は第2室戸台風を経験しましたが、台風が室戸岬に上陸した時点では大した風雨ではなかったのに、台風が大阪湾に進入するや、突然地響きを立てて暴風雨が荒れ狂いました。

間一髪、当時の日新高校に避難しましたが、「帰ったら家が無いのでは・・・」という思いで過ごしました。

しかし、室戸台風の風速はその第2室戸台風をも凌ぎ、当時台風に遭った人々は如何程に恐ろしい思いをしたことかと推察します。

いつもありがとうございます

ご愛読ありがとうございます。

この師弟愛の像は、あまりにも目立たない場所にあり、少し可愛そうな気がします。大谷本廟の眼鏡橋脇にもありますが、そちらも目立たないですね。
逆に、大阪の教育塔は、なぜこれほど大きいものを造ったのかと思わせるほど巨大です。
室戸台風は、もう80年前のことですので、経験者もわずかとなり、語り伝えることが難しいのかも知れません。

ただ、こういった慰霊塔などが今も守られていることで、少しでも過去を知る手がかりになっていることは、大変ありがたいことと思います。

非公開コメント