FC2ブログ
09 | 2019/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的

宇治




都名所図会・萬福寺


 「都名所図会」の特異な項目

 近世京都のヴィジュアルガイドとして誰もが知っている「都名所図会」(1780年刊)。
 数多くの挿絵は見ているだけで楽しいのですが、そんな中で少し変わった項目があります。宇治の黄檗山萬福寺。「都名所図会」は、こう説明し始めます(句読点は適宜補いました)。


 黄檗山萬福寺ハ五箇庄ノ南にあり。開山隠元和尚は大明福州福清の人にして、姓ハ林氏、諱[いみな]ハ隆琦、字[あざな]ハ隠元なり。本朝、承応三年[1654]に東渡し、万治二年[1659]、公命によつて山城国宇治郡大和田の勝地を賜り、寛文元年[1661]九月より伽藍を草創し、精舎の経営多くハ異風を模し、名[なづけ]て黄檗といふ。同十三年[1673]四月二日、後水尾上皇より大光普照国師の号を賜ふ。


 と、ここまではごく普通の書きぶりです。しかし、ここから次が違うのです。

都名所図会・萬福寺

 右のページの6行目から、がらっと調子が変わり、何やら四角い枠囲みの文字が頻出します。「都名所図会」の他の箇所にない特異な構成です。

 その冒頭の部分。

都名所図会・萬福寺

 「漢門 惣門をいふ 【第一義】 漢門の額なり。高泉の筆。【宗綱済道重恢郭】【聖主賢臣悉仰尊】 漢門の柱の聯なり。高泉の筆」

 枠囲みの文字は、額や聯[れん]の文字で、枠は額や聯の形をそのまま写し取ったものなのです。
 「聯」とは聞きなれない言葉ですが、建物の柱や壁の左右に一対で掛けられる板で、含蓄のある禅語などが書かれています。
 上の7文字×2行の聯は、「隠元隆琦禅師は、臨済義玄禅師が中国で開かれた臨済禅の教えを、ここ日本の黄檗山萬福寺で再び広く大きく唱えられ、その教えを聴かれた天皇をはじめ臣下の人たちは誰れもが心の底から仰ぎ尊んだ」(中尾文雄訳)という意味です。

萬福寺
 「漢門」と記されている萬福寺総門(重文)


萬福寺
 左右の柱に、縦長の板が取り付けられている。これが「聯」

萬福寺

 高泉が書いた「第一義」の額です。この額には有名なエピソードがあって、一所懸命に書く高泉に対し、見ていた弟子が何度もダメ出しをしたので、高泉は何十回と書き直しを余儀なくされたそうです。そして、弟子がトイレに立った隙に書いた一枚が、弟子にもOKをもらえて、ここに掛かっているのだそうです。禅の高僧といえども、なかなか大変……


 重要文化財の額と聯

 萬福寺の額や聯は、その建築同様に、重要文化財に指定されています。額40面、聯44対、榜牌13面、それらの下書き14幅です。
 「都名所図会」には、たいへん多くの額・聯が収載されていますが、数えてみると、額が19面、聯が11対(つまり22枚)に過ぎず、実際の半分も収録していないことが分かります。さすがに、スペースの都合もあったのでしょう、最後のあたりはこんな調子になります。

都名所図会・萬福寺

 「【通玄】 開山堂の門の額なり。隠元の筆。 【開山堂】 同堂の額。木庵の筆。聯これを略す」

 なんと、聯はあるけれど省略する、というのです。

萬福寺
 開山堂(重文) 額のほかに聯が掛けられている

 スペースの都合もあるし、読まされる方も、さすがに見開き一杯が精一杯かも知れません。


 黄檗の名僧たちは、書の達人

 この細かい項目を読んでいくと、多くの人名が出てきます。

 高泉[こうせん]、隠元[いんげん]、木庵[もくあん]、千呆[せんがい]、即非[そくひ]、費隠[ひいん]、大鵬[たいほう]らです。
 彼らは、中国から来日した僧で、即非如一を除いて萬福寺の住持を務めました。隠元隆琦は初代、木庵性瑫は二代、高泉性潡は五代、千呆性侒は六代、大鵬正鯤は十五代と十八代です。
 なかでも、隠元、木庵、即非は「黄檗三筆」とも称される能筆でした。彼らの書は、豪放かつ伸びやかで、御家流に飽き飽きしていた? 日本の文化人の目にはとても新鮮に映ったのです。

萬福寺

 これは、通玄門に掛かる「通玄」の書。隠元によるものですが、太くて丸みを帯びた字は、ちょっと大胆不敵で、とらわれない印象を与えますね。

萬福寺

 三門です。額の「萬福寺」は開山・隠元の手になります。これは一山を代表する雄渾の書。
 聯は、木庵のもの。

萬福寺

 三門の上層にも、隠元による山号の額が掛けられています。

 こちらは、即非。

萬福寺

 天王殿の背面に掲げられていて、「威徳荘厳」とあります。わりと、かっちり書いていますね。

 こちらは、木庵。

萬福寺

 お釈迦さまを意味する「萬徳尊」。大雄宝殿の背面に掛けられています。これは、なかなか雄大な字で感心します。

 最後は、千呆。

萬福寺

 「栴檀林[せんだんりん]」と書かれた額。三門の内側にあります。
 いずれも堂々たるもので、明末の書風がうかがえます。


 京都人の中国への憧憬

 ここで最初に戻って、なぜ「都名所図会」にこのような額や聯が延々と掲載されたかについて考えておきましょう。

 これはひとえに、当時の京都の人達の中国文化への憧れに由来すると思われます。古代、中世、近世と、中国は文化の先進地で、日本人はそれに憧憬を抱き、輸入してきました。江戸時代、長崎の出島が西洋文化の窓口であったように、宇治の萬福寺は中国につながる扉だったのです。
 17世紀前半の中国は、王朝交代に揺れていました。1644年に明が滅亡し、清王朝が成立します。その中で、明から日本へ「亡命」して来る人達もいました。長崎や宇治の萬福寺に来た僧侶たちもそうでした。
 萬福寺には、彼らが持ち来った多様な文化事象があふれました。大陸の精進料理である普茶料理、売茶翁により広められた煎茶、黄檗様と呼ばれる建築様式、范道生による異国風の仏像、中国語による読経や梵唄、木魚など中国風の仏具等々。これらのすべてが日本文化に浸透したわけではありませんが、文化的刺激を与えたことは間違いありません。書も、そのひとつだったのです。

 近世京都人の中国への憧憬、言い換えれば中国趣味(シノワズリー)が「都名所図会」にこんな特異なページを作らせてしまったのです。


萬福寺 魚梆



 萬福寺

 *所在 宇治市五ケ庄三番割
 *交通 JR・京阪電車黄檗駅より、徒歩約5分
 *拝観 大人500円ほか



 【参考文献】

 「都名所図会」1780年
 中尾文雄『黄檗山の聯と額』黄檗宗務本院、1990年
 田中優子『江戸はネットワーク』平凡社、1993年
 九州国立博物館『特別展 黄檗 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』西日本新聞社、2011年



スポンサーサイト



コメント

非公開コメント