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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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歌舞伎俳優・中村鴈治郎の祖、初代林又一郎の顕彰碑は、黒谷にひっそりと建っている

洛東




林又一郎顕彰碑


 黒谷・金戒光明寺を訪ねて

 左京区にある吉田山、あるいは神楽岡と言ってもいいのですが、この小丘は大小の寺社が点在し、地形は起伏に富んで、格好の散歩道となっています。
 真夏は歩きづらいけれど、秋は紅葉も美しく、京都観光に打ってつけの場所ですね。

 真如堂、正式には真正極楽寺と言いますが、京都の人に「シンショウゴクラクジ」と言っても誰も分からず、真如堂と言うと簡単に通じます。
 その境内を東南へ抜けると、金戒光明寺の山内に入ります。こちらも「コンカイコウミョウジ」という名称は誰も知らず、「黒谷」というと、あぁ、とすぐ了解できる古刹です。

 真如堂の東南側の小道を出て、しばらく進むと会津藩士の墓地。さらに進めば丘上の墓地が拡がっており、目の前に三重塔が現れます。

  黒谷文殊塔 金戒光明寺三重塔

 さほど大きくはないものの、丘の上に建っているので、見上げる形になると背も高く見えます。

 この寺は浄土宗なので、本尊は阿弥陀如来ですが、この塔には文殊菩薩が祀られていて、江戸時代には多くの人々の信仰を集めました。いまは、獅子に乗られた文殊菩薩像は、本堂に遷座されています。

  文殊塔道標

 塔に登る石段の脇に「日本三体 もんじゆ[文殊]塔」の道標があります。
 日本三文殊のひとつと言われます。


 歌舞伎役者・林又一郎の顕彰碑

 ずっと下ってくると、熊谷堂や蓮池がある広場に出ます。

 蓮池
  蓮池 橋の向こうが熊谷堂

 この池の北側に、ひっそりと石碑が建っています。

 林又一郎顕彰碑

 近付いて、台に上って見てみると……

 林又一郎顕彰碑

 「林又一郎顕彰碑」とあります。

 おっ、と思って、長い碑文を走り読みしていきます。

 いま『近代歌舞伎年表京都篇』第10巻に紹介された碑文の大略を引用しておきましょう。

 その碑文によると又一郎は足利末期の浪士で、天正年間に四条河原に劇場を構え、六条仲之町に「又一(市)」と冠せた興行を行った屏風が残っている。一説には名古屋、熊本でも興行し、後に大阪新町に移り屋号を扇屋としたが、これは「曽(かつ)て又一郎が的標として射たる旭日扇を主君より恩賜せられこれより扇を家紋に用ひまた屋号となせりとこの扇屋ハ明治年間まで累世相嗣ぎ俳優中村鴈治郎ハ実ニその末孫たり」とある。(551ページ)


 碑文では、林又一郎を「歌舞伎創始時代」の「大功労者」としています。
 この文章は、歌舞伎研究の大家・伊原敏郎(青々園)が草しています。筆を振るったのは、大阪の日本画家・菅楯彦(すが・たてひこ)です。

  林又一郎顕彰碑 青々園と楯彦の名が見える

 その又一郎の墓所が、黒谷・善教院にあるということで、ここに顕彰碑が建てられたのでした。

  林又一郎顕彰碑 黒谷善教院の文字がある

 
 白井松次郎が建碑

 碑の裏面を見てみましょう。

  林又一郎顕彰碑

 中央に「昭和十六年二月一日 白井松次郎建之」とあります。
 白井松次郎は、歌舞伎興行を行う松竹の社長さんです。

 戦前、松竹は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子の兄弟が、西と東に分かれて興行を行っていました。
 関西にいた白井は、上方歌舞伎の興隆のため、中村鴈治郎(初代)をスターとして盛り立てました。鴈治郎は京阪の劇界では押しも押されぬ名優となるわけですが、その一極集中の功罪も言われています。つまり、他の才能ある役者たちがスポイルされちゃった、ということですね。

 そんな鴈治郎も、昭和10年(1935)2月1日に亡くなります。
 碑に刻まれた昭和16年2月1日という日は、亡き鴈治郎の七回忌の命日なのでした。

 鴈治郎と白井松次郎
  鴈治郎と白井松次郎 右は長谷川一夫(『中村鴈治郎を偲ぶ』)

 その意味で、この碑は、白井松次郎が初代鴈治郎を偲ぶために建てたものであり、その先祖とも言われる林又一郎を顕彰した石碑なのです。
 碑文に、大坂・新町廓の扇屋という妓楼が出てきます。鴈治郎は、安政7年(1860)、扇屋の生まれで、本名は林玉太郎と言いました。

 碑は、高さ6尺(約180cm)の仙台石で造られているそうです。その建碑式は、昭和16年1月27日に行われました。
 翌2月には、京都・南座で鴈治郎の追善興行が行われ、夜の部では、伊原青々園考証、額田六福作の「又一歌舞伎」が上演されています。
 当時の番付には「慶長の昔四条磧(かわら)に殷盛(いんせい)を極めし又一歌舞伎の有りし姿を其まゝに中村鴈治郎の祖先を偲ぶ記念狂言」と記されたそうです(『近代歌舞伎年表京都篇』)。

 さらに、翌年(昭和17年)10月には、鴈治郎の長男・林長三郎が、二代目又一郎を襲名します。この人は、俳優・林与一さんの祖父ですね。

 初代は伝説的な人物ですけれども、300年の時を超えて、ひとつの名跡が復活したわけです。
 余り注目されない記念碑ですが、深い歴史が秘められているのでした。




 林又一郎顕彰碑(金戒光明寺内)

 所在  京都市左京区黒谷町
 見学  自由
 交通  市バス「岡崎道」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 白井松次郎『中村鴈治郎を偲ぶ』創元社、1935年
 『近代歌舞伎年表 京都篇 10』八木書店、2004年
 『歌舞伎俳優名跡便覧 第四次修訂版』日本芸術文化振興会、2012年


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