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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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聚楽第跡の石垣発掘は、秀吉の栄華を彷彿させる





聚楽第跡発掘現場


 年の瀬の現地説明会

 2012年12月22日付の各紙朝刊は、「聚楽第石垣 東西に32メートル」(京都)、「豪奢『聚楽第』石垣」(毎日)などと、聚楽第跡の発掘で石垣が出土したニュースを報じました。地元の京都新聞は一面の扱いです。

京都新聞2012年12月22日付 京都新聞(2012年12月22日付朝刊)

 その現地説明会が12月24日にあったので、早速行ってきました。軽く千人を超える見学者があったようで、関心の高さがうかがえます。
 調査地は、上京区上長者町裏門東入る須浜町の京都府警施設の用地で、中立売通智恵光院を下ったところになります。

 聚楽第(じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が、かつて大内裏のあった内野に造った邸宅で、堀と石垣を廻らした城郭でした。天正14年(1586)から翌年にかけて造営され、天正16年(1588)には後陽成天皇が行幸するなど、秀吉の権力の象徴となりました。その3年後には、関白の座と聚楽第を甥の秀次に譲ります。しかし、秀頼誕生後の文禄4年(1595)には秀次を追放して切腹させ、聚楽第も破却されたといわれています。
 
 これまでの研究で、聚楽第は内郭と外郭からなる広大な城郭で、内郭は本丸、北之丸、西之丸、南二之丸から構成されていたことが分かっています。特に本丸は、南北約400m、東西約300m(現在のほぼ一条通-下長者町通、大宮通-裏門通にあたる)、四方を堀に囲まれていました。
 今回発掘が行われたのは、本丸の南堀の北面あたりで、本丸のセンターラインから少し西の部分です。


 見事な石の列が出土!

聚楽第跡発掘現場

 出土した石垣の全貌です。左が北。東西に約32mにわたって延びています。
 石(花崗岩)は3、4段残っており、最大の高さは2.3mでしたが、上部は破壊されているので本来の高さは分かりません。傾斜角は約55度だそうです。
 注目されるのは、石の露出している面(写真では右側面=南側面)が、ピシッとそろっていることです。実に見事に直列させています。

聚楽第跡発掘現場

 ところが、この写真でも分かるように、ここに使われている石は全て加工していない自然石ばかりなのです。平らに加工した石をそろえて並べるのは容易ですが、自然石の平たい面をそろえて直線を造るのは、独特の技術が必要です。現代人には計り知れない“石を視る目”を感じさせます。

 聚楽第跡発掘現場

 また、石の内側(写真では右側)には、細かい小石が詰められています。これはクリ石(栗石)と称されるもので、石垣の裏込めです。大きな石と地山との間に詰め込んで、安定をはかっています。

聚楽第跡出土栗石

 栗石。およそ、こぶし大くらいの石でした。

聚楽第跡発掘現場

聚楽第跡発掘現場

 石垣の東の端です。西から東に行くにつれ、石が大きくなっていくことが指摘されています。これは、この調査地点のさらに東が、本丸の中軸線にあたり、門が置かれていたと想定されるからです。門の左右には、やはり大きな石を配して豪華に見せるのでしょう。
 

聚楽第のセンターラインは日暮通

 聚楽第本丸のセンターラインは、現在の日暮(ひぐらし)通の僅かに西です。
 聚楽第は、秀吉の怒りによって、ことごとく破壊されたと言われていて(今回の発掘では、完璧にまで破壊し尽されたとは言い切れないようですが)、後世、付近では跡形はないとされてきました。
 ただ、聚楽第をしのぶよすがとして、数々の地名が残されています。今回の調査地は「須浜町」で、なにやら庭園の須浜を思わせます。また、旧正親小学校東側の街路は「裏門通」と呼ばれていますが、これは聚楽第の裏門の意味だといいます。「東堀町」は本丸の東堀跡にほぼ相当しますし、「北小大門町」「黒門通」なども名残りの地名でしょう。
 中軸線上の町名が「日暮通」になったのは、聚楽第にあった「日暮門」に関係あると考えられます。

 京都で日暮門といえば、第一に西本願寺の唐門を想起します。

西本願寺唐門
  西本願寺唐門(国宝)

 この門は、秀吉は秀吉でも伏見城の遺構とされています。
 いまひとつは、この門。

日本古建築菁華より大徳寺唐門 
  大徳寺唐門(国宝)[『日本古建築菁華』上より]

 大徳寺の唐門です。こちらも日暮門と呼ばれており、これは「都名所図会」を見ても分かりますね。

都名所図会より大徳寺ひぐらし門
  「日くらしの門」とある(「都名所図会」)

 この門については、別の回に取り上げたのでご覧ください。 ⇒ <国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構>

 大徳寺唐門は、聚楽第遺構であることがほぼ確実視されています。そして別称も「日暮門」。では、これが問題の日暮門であるかというと、どうもそう簡単にはいかないようなのです。
 近世の地誌「山州名跡志」(1711年刊)には聚楽第の日暮門について「此門後ニ高松殿ノ曠門トナス。承応二年【1653】六月二十三日ニ炎上ス」とあります。高松殿というのは、後陽成天皇の皇子・好仁親王の邸を指すと考えられ、この記載を信じれば、17世紀半ばの火災で焼失してしまった、ということになります。

 「日暮門」という呼称は、一般名詞ですから(日光陽明門もそう呼んだりします)、いろいろな門に付けられても不思議ではありません。
 研究によると、聚楽第の日暮門の幅は大徳寺唐門の幅より大きかったとも考えられていて、いくら呼び名が同じでも、大徳寺の門をすぐさま聚楽第日暮門とはいえないようなのです。


 聚楽第の実像が浮かび上がる成果

 今回の発掘調査は、聚楽第の大規模な遺構が確認されたということで、たいへん貴重です。出来得るならば、京都府の英断でこの石垣遺構が現地保存されることを望みたいものです。

聚楽第跡碑(正親小学校前)

 調査地に程近い旧正親(せいしん)小学校。北東角に「此附近 聚楽第址」の碑が建てられています。私の父は、その昔この小学校に通っていたので、今回の発見は私にとっても感慨深いものがあります。研究の更なる深化をまちたいものです。




 聚楽第跡調査地

 *所在 京都市上京区上長者町裏門東入る須浜町
 *見学 現在は非公開
 *交通 市バス智恵光院中立売より、徒歩約5分



 【参考文献】
 「聚楽第跡 現地説明会資料・2」京都府埋蔵文化財調査研究センター、2012
 京都市埋蔵文化財研究所監修『京都 秀吉の時代~つちの中から~』ユニプラン、2010年
 「都名所図会」1780年
 岩井武俊『日本古建築菁華 上』便利堂コロタイプ印刷所、1919年



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