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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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真如堂にある荼枳尼天で敷石に信心の一端を見る

洛東




だきに天敷石


 真如堂を訪ねて

 前々回から続いている吉田山の散歩。
 前回は、吉田神社末社の竹中稲荷社を訪ねました。今回も、実は似たような神さまです。

 真如堂にやってきました。
 
 真如堂
  真如堂(真正極楽寺)本堂

 幕末の門前の様子です。

 花洛名勝図会より真如堂
  幕末の真如堂門前(「花洛名勝図会」より)

 右端が真如堂の参道口ですが、手前には茶店が何軒か並んでいますね。
 今日でも、形を変えて健在です。

 真如堂門前

 ここもまた、仕事で運転するドライバーさんたちの休憩所ですね。
 
 今日は、真如堂の門前北側にあるスポットを訪ねてみましょう。


 門前にある鳥居は?

 そこにあったのは……

 だきに天

 鳥居。
 神社ですかね。

 社号標には、

  社号標

 「ダ枳尼天」と書かれています
 「ダ」は、<口へん+乇>。

 つまり、ダキニ天ですね。
 漢字では「荼枳尼天」など、いろいろな表記があります。

 『国史大辞典』には、「荼吉尼天」として、次のように説明されています。

 大黒天の眷属(けんぞく)ともいわれるが、原形は夜叉神の一種。インド起源で、サンスクリットのダーキニーの音写。荼枳尼・陀祇尼とも音写。
 (中略)
 わが国では稲荷神(豊川稲荷など)と同一視され、特に後世は狐の背にのり、剣と宝珠を持つ三面二臂(にひ)像が多くつくられた。(後略) 


 荼枳尼天は、上にあるように、キツネのイメージがあります。また、キツネにのった女性(天女、美女、鬼女)といった図像もありますね。

 そう思って、幕末の「花洛名勝図会」を見てみると……

 花洛名勝図会より門前稲荷社

 右にある鳥居を潜り、参道を進んで本殿に至りますが、そこに「稲荷大明神」と記されています。
 この図のタイトル部分も「門前稲荷社」です。
 荼枳尼天とは言わず、単にお稲荷さんになっています。

 だきに天
 
 本殿に参拝。
 と言いつつも、神社と寺院が習合しているみたいで、ここは法伝寺という寺院でもあるようなのです。

 真如堂付近住宅図

 住宅地図にも「いなり神社」と「法伝寺」が同居していますね。

 おそらく、この荼枳尼天は真如堂の鎮守だったのでしょう。当然、明治維新の神仏分離で切り離されて、たぶんお寺(法伝寺)になったのではないでしょうか。でも、その後、改めて鳥居を建てて神社にした--という感じなのでしょう。


 関東の人からも信仰

 境内の石造物を見ると、日清・日露戦争頃に整備がなされているようです。

 例えば、これ。

 敷石

 参道に敷かれた石畳です。
 
 敷石と記念碑

 敷石の右手に、それを整備した際の記念碑が建てられています。

 敷石記念碑

 「敷石寄附連名」と書かれており、

 敷石記念碑ウラ

 裏面に、明治28年(1895)5月建立と記してあります。

 連名とあるように、敷石を寄付した人たち30人ほどの名前が刻まれています。
 こういうのは、ひとりひとり名前を読んでいくのが愉しいんですよね。

 すると、おもしろいことが分かってきました。

 敷石記念碑

 ほとんどが、武蔵国の人なのです。

 現在の東京都の23区外や埼玉に住んでいる人たちです。

 八王子、青梅(東京都)、所沢、川越、飯能、伊奈(埼玉県)、さらには高崎(群馬県)など。
 数としては、青梅と八王子が多いのですが、おおむね東京都北西部と埼玉県南西部の近い範囲です。

 敷石記念碑下部

 発起人は、青梅の平岡久左衛門という人です。
 ちなみに、お世話をしたのは京都の島甚右衛門と、このお堂を守る村山善十郎。村山の肩書きに「天堂守」と書いてありますから、明治半ばには「天堂」、つまり「荼枳尼天堂」と呼ばれていたのでしょう。

 それにしても、なぜ武蔵の人たちが京都の荼枳尼天を信仰したのか?

 発起した平岡久左衛門という人は、青梅町長も務めた実業家で、文久元年(1861)に生まれています。地元の電鉄会社の社長もしている資産家だったようです。
 また、最初に名を連ねている所沢の向山小平次(むこうやまこへいじ)は、織物で財を成した実業家。
 この2人と親族が、かなり寄付していますね。

 ほかにはよく分からないけれど、地元の方が見れば、おっ、これは! という人もいるかも。

 大阪の人が京都の寺社を信心する例はよくあります。でも、ここまで離れた土地の人たちが信仰するのは、なぜなのか? 出来た時期が、日清戦争のすぐ後というのも気になります。

 いまはこれ以上分からないので、この問題は少し寝かせておきましょうか。




 真如堂 (だ枳尼天)

 所在  京都市左京区浄土寺真如町
 拝観  境内自由
 交通  市バス「真如堂前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『国史大辞典』吉川弘文館、1979年


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