学生と文化人類学で迫った祇園祭のフィールドワーク - 米山俊直『祇園祭』 -
|京都本|

祇園祭の百科事典
7月になり、祇園祭が始まりました。
祇園祭について考えたり、実際に祭りを見たりして、疑問に思ったことなどは書物によって答えを得ることになります。
そんなとき、私が手にする本は、米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』(NHKブックス)です。

ちょうど30年前の昭和61年(1986)に刊行されたものです。
180ページほどのコンパクトな本ですが、米山氏自身が「祇園祭百科事典」のようになった、と言われている通り、祇園祭についてちょっと調べてみたい、というときには好都合です。
副題は「都市と祭と民衆と」で、その目次は、
第1章 祇園祭の歴史
第2章 神社
第3章 神輿
第4章 山鉾
第5章 花傘巡行・芸能
第6章 マスコミ・観光・行政
となっていて、末尾に参考文献と祇園祭行事日程が付されています。
山鉾町の配置図、巡行ルートの変遷、神輿のコースといった地図も便利です。
“都市人類学” ことはじめ
祇園祭の本を書く専門家って、どういうジャンルの人なんだろう? と素朴な疑問を抱きますよね。
神社の祭礼だから宗教学か、伝統行事だから民俗学か、歴史ある祭りだから歴史学か、よく分かりません。
しかし、米山俊直氏はいずれでもなく、文化人類学者なのでした。
米山氏は、昭和48年(1973)からと、昭和58年(1983)からの2回、いずれも3年間、京都大学の学生たちと祇園祭の調査を行っています。
『ドキュメント祇園祭』は、その成果でもあるのですが、実は最初の調査の直後に刊行された書物がありました。
それが『祇園祭』(中公新書、1974年)です。
この本には副題があって、『祇園祭』というタイトルとは少し違ったイメージの「都市人類学ことはじめ」というものでした。
文化人類学というと、西太平洋のトロブリアンド諸島で現地調査する(マリノフスキー)みたいなイメージがありました。ところが、これは私たちが日々過ごしている都市で、フィールドワークをやろうというのです。日本では先駆的な試みでした。
そして、その対象として選ばれたのが、代表的な都市の祭礼・祇園祭でした。
学生が奮闘!
本書は、学術的という感じはなく、米山氏がエッセイ風に、あるいは時間順で、祇園祭のさまざまな面をレポートしたものです。
章立ては、
序章 私たちの調査の経緯
Ⅰ章 山鉾町-祭を支えるもの
Ⅱ章 宵山まで
Ⅲ章 宵山と巡行
Ⅳ章 八坂の神事と風流
終章 歴史といまと
となっています。
調査の経緯を読んでいると、驚くべきことに、4月半ばに集まった学生に調査テーマ(祇園祭を総合的に調査する)を伝えて、20数名の学生でそれをやってしまったことです。
学生たちは4つのチームに分かれました。祭りの担い手を調査する「町衆班」、観光客やマスコミの動きを調べる「見物班」、山鉾を対象とする「だしもの班」、そして祭りとは何かという問題を考える「本質班」。なんとなく文化人類学的な気がします。
このプロジェクトは、“祇園祭’73” と名付けられました。その名の通り、1973年(昭和48年)の祇園祭をリアルに写しとっていて、それが40年後の現在からみて、なかなか勉強になることが多いのです。

例えば……
四条室町は「鉾の辻」と呼ばれますが、その南側に立つ鉾が鶏鉾です。
このあたりは、現在でも、京都産業会館や市営駐車場、池坊短期大学などがあって、一般の民家が極めて少ないところです。どういう経緯でそうなったのか?
本書によると、烏丸通に面した丸紅ビル(現COCON KARASUMA[古今烏丸=ビル名、1938年築)を戦時中、延焼から守るためにその西側を建物疎開したのだそうです。その場所が、現在、産業会館や市営駐車場のあるところでした。
戦後、その空地は進駐軍が使っていたのですが、その後、京都市が買収したということです。
なるほど、と思うのですが、古い地図を見ると、その一帯にも民家が建っていたことが分かります。
これは、祇園祭の本筋とは関係なさそうな話ですが、そういう情報がなかなか面白いのでした。

鉾建て中の鶏鉾と市営駐車場(右)
調査者が学生であるということで、彼ららしい観察眼も光っています。
船鉾を担当したのは、植田クンという学生でした。植田クンは、準備段階から巡行当日まで、しつこく町の人々の動きを追い、興味深い発見をしたのでした。
いま、祭を中心になって推進しているのは、さきにのべた保存会の常任理事である中西さんたちである。中西さんは七十歳ぐらい。中肉中背、ごましお頭の、堅実そのものの感じを受ける。親しくなると非常に親切に、いろいろ話をしてもらった。
しかし町内には、この中西さんたちより一つうえの世代の八十-九十歳代の方たち--つまり、ひと昔まえに、祭の中心にあった人々がおられる。最長老である。(中略)
また、中西さんよりひとつ若い世代、四十-五十歳台の人たちは、現在の祭運営の実質的な力になっている。働きざかりで、商店の若いだんな、会社の社長、専務として、いわば町内を背負っている働き手である。“町衆” という古い言葉のイメージにはあたらないが、この人たちが船鉾町を実際に支えていることは、すぐにわかる。(中略)
それより若い世代、つまり二十-三十歳台の人たちとは、調査者の植田クンはほとんど接触がなかった。“相手がいない” という感じだったという。これは興味ぶかい点だ。つまりこの層の人々は、まだ祭のなかで目立った役割をしていないのであろう。むしろ植田クンの目には、それ以下の小学生、中学生が、鉾がつくられてゆく過程から、曳き初め、そして宵山と、ずっとそばでながめていたり、鉾にそっとさわってみたり、仲間同士で説明しあったりしている。植田クンは、この世代こそ祭への純粋な参加者ではないか、と思ったという。
これからの祭を、若い世代が果たしてちゃんと継承してゆくかどうか。祇園祭にとってそれはひとつの問題であり、老人たちには心配のタネでもある。(中略)
しかし、植田クンは、べつの観察もしてきた。鉾が建ち、七月十三日、にぎやかな曳き初めの興奮がすぎたあと、鉾がもとの場所におさまり、日も暮れかけて人通りもめっきり減ったころ、町内の人らしい親子連れが鉾のところへやってきた。三つぐらいの男の子が、不思議なものを見るように、じっと鉾を見つめている。その子供に、父親は語りかけた。
--おまえも大きうなったら、これにのるのやで。
それは観察者である植田クンにとって、なぜか妙に強く印象に残った光景であった。(46-48ページ)
祇園祭は、長い期間行われ、鉾町にはいろいろな仕事があります。そこには、リアルな町の人たちの姿があります。
われわれ外の人間にも、それが意外と見えてきて、そういうところに祇園祭の別の面白さがあるのです。
植田クンも、それを観察したのでしょう。

黒主山の吉符入りに参加した田村クン。彼は、こんな体験をしました。
吉符入りは神事始めの意味を持ち、神事にたずさわる心の準備をするとともに、各山鉾の運営に関する具体的な取りきめをするという二元的な性格を有する。したがって出席者の服装も前者の性格にあわせて厳格であり、黒主山でも近い昔までは紋付羽織ハカマでなければいけなかったそうだが、今では背広でもよいことになっているとのこと。山口氏から出席してもよいとの許可をもらったぼくは、羽織ハカマを着てゆくべきか背広を着てゆくべきか、大いに迷ったが、結局は現実的に背広を着て出席した。(70ページ)
田村クンは儀式と打合せに参加し、1時間余りが経過した。
お開きは午前十一時四十分であった。ぼくを除いた出席者は、最終的には二十三名(うち女二名)で、男は全員背広だった。ぼくがまかり間違って紋付羽織ハカマで出席しようものなら、全員の注視を浴びること必至であった。ぼくは内心ホッとしたのである。(72ページ)
学生の体験談として、吉符入りの儀礼性と現代における変化が巧みに述べられています。
こういう学生目線が、本書の楽しいところですね。
『祇園祭』、古書でしか手に入らないと思いますが、一風変った祇園祭案内です。

書 名 『祇園祭 都市人類学ことはじめ』
著 者 米山俊直
刊行者 中央公論社(中公新書363)
刊行年 1974年
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