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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【大学の窓】京田辺で史跡見学、古刹・観音寺へ

大学の窓




観音寺


 南山城の古刹へ

 非常勤で出講している(仮称)上京大学の授業では、年に2度ほど史跡見学を行っています。
 今年も、60名ほどの学生たちと、京田辺市にある観音寺を訪ねてきました。

 観音寺

 観音寺は、古代からこの地に続く名刹で、かつては大きな伽藍を持ち、大御堂という別称もあります。
 立地は、JR・近鉄の三山木駅から2.5kmほど離れ、周囲は田んぼです。ちょうど田起こしをされていました。

 観音寺
  観音寺 本堂

 観音寺

 本堂の前には蓮池が造られ、来月頃はハスの見頃のよう。
 戦後建築された本堂には、天平年間に造立された十一面観音立像(国宝)が! いつ拝しても素晴らしい尊像です。

 
 近代的な建造物も

 このような古刹なのですが、当然、現在に至るまでの歴史を持っています。
 寺院は地域のつながりの中心にもなるため、明治以降に造られた構築物もありました。

 慰霊塔

 近代の慰霊塔。
 「慰霊塔」という表現が、戦後的な響きを感じさせます。

 背面に廻ってみると、

  慰霊塔

 「忠魂碑」の文字が。
 こちらは戦前の言葉ですが、文字は埋められており、戦後「慰霊塔」として再生されたことが分かります。

 こんなプロセスを学生に質問を重ねながら考えてもらいます。

 慰霊塔

 台座上には、もともとは鎖をつないだ柵があったのですが、いま鎖はありません。
 なぜなくなったのか? 、こういう点も考えてもらったりするのです。


 日露戦争の記念碑

 この慰霊塔の脇に、少し小ぶりの石碑が立っています。

 記念碑

 苔むした、年月を感じさせる記念碑。

  記念碑
 
 碑面には、このように刻まれています。
 毎年、まずこの6字を読ませるのですが、案外読めないのがこの文字。

  記念碑

 どうでしょう?
 読めるでしょうか。

 毎年、質問してみると、ほとんどの学生が、

 「戦後」

 と読みます。
 
 でも正しくは「戦役(せんえき)」なのです。
 「役(えき)」って、日本史の授業で「前九年の役とか後三年の役とか習ったやろ」と、「役」が戦争を意味することを話します。

 そのあと、日露戦争は何年に起こった? と質問すると、学生は1904年と答えます(たいてい答えられます)。
 ところが、いじわるに「じゃあ、明治何年?」というと、だいたい答えられません(笑)

 実は、碑の下部には「明治三十七八年役」と書かれています。
 私たちは、教科書でこの戦争のことを「日露戦争」と学習したけれど、当時の人たちの多くは、明治三十七八年戦役などという表現を取っていたのです。

 でも、学生たちの受験日本史では、日露戦争であり、1904年~05年の戦争。

 明治の人たちは、たいがいは元号で年を考えていたのですから(昭和でも、そうでしたものね)、西暦は意識になかったでしょう。
 こういうズレを敏感に感じ取っていくことが、過去を考える際には重要です。
 今日のように、実際に史跡を訪ねてみると、教科書にある “翻訳” された知識ではない、生の現実が分かっていいですよね。 




 観音寺

 所在  京都府京田辺市普賢寺下大門
 拝観  400円
 交通  近鉄・JR「三山木」下車、徒歩約30分


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