08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

吉本せいの生涯をモデルにした山崎豊子「花のれん」は、明治・大正の興行界をリアルに描き出す

人物




  花のれん 山崎豊子『花のれん』新潮文庫


 山崎豊子の直木賞受賞作

 作家・山崎豊子といえば、現在もテレビドラマでやっている「沈まぬ太陽」や、大学病院の内幕をえぐり、田宮二郎の映画・ドラマでも話題になった「白い巨塔」をはじめ、「華麗なる一族」「不毛地帯」「二つの祖国」など、ほとんどの作品が映像化されていることで知られています。イメージとしては、“社会派” の作家で、長編が多いなぁ、という印象です。

 山崎豊子は、大正13年(1924)に大阪・船場の昆布商に生まれ、学校を出たあとは毎日新聞に勤務していました。
 つまり根っからの大阪人で、最初の頃書かれた小説は大阪ものです。デビュー作は生家をモデルにした「暖簾」で、市川雷蔵が主演して話題になった「ぼんち」も代表作なのですが、今回紹介するのは「花のれん」です。

 山崎豊子は「花のれん」で直木賞を受賞して、作家専業になりました。昭和33年(1958)のことです。
 この小説は、吉本興業の礎を築いた吉本せいをモデルにしていると言われています。
 主人公は「河島多加」となっていて、その夫は「吉三郎」ですが、それぞれ、せいと夫・吉本吉兵衛(吉次郎、通称・泰三)に当たるわけです。

 実際の吉本家は、もとは本町橋(現・大阪市中央区)で荒物問屋を営んでいましたが、小説では呉服屋という設定になり、夫・吉三郎の芸人道楽で商売が苦境に陥り、多加が節季の支払いに汲々としている場面から作品はスタートします。
 しかし、いくら頑張っても商売は順調にはゆかず、吉三郎は遊びにうつつをぬかすばかり。
 ここで、多加は「それやったら、いっそのこと、毎日、芸人さんと一緒に居て商売になる寄席しはったらどうだす」と吉三郎にけしかけます。
 まさに “逆転の発想” なのですが、この小説の全編にわたって、こんな多加のアイデアマンぶり、才気煥発なところが強調されます。

 大阪天満宮の裏手の寄席を手に入れたところからスタートして、やがて松島にも、もう1席の寄席を経営することになります。


 リアルな下足の扱い

 そんなころ、多加の寄席でちょっとしたトラブルが起きました。
 当時、寄席や劇場は、草履・下駄などの履物を脱いで観覧していました。そのため、脱いだ履物(下足=げそく)は入り口で預かっていたのでした。

「表の下足で、お客さんに粗相がでけまして」
 聞くなり、小走りに表方へ出てみると、大島紬の対を重ね、黒の繻子足袋(しゅすたび)を履いた男客が、むっつり押し黙っている。
「すんまへん、只今、席主と相談致しまして堪忍して戴きますよって、ちょっとお待ちを―」
 しきりにもみ手をして、権やんが吃り、吃り、詫びを入れている。男客は下足場一杯に立ち塞がるように突ったって、インバネスの下で両腕を組んだまま、権やんの顔を見ている。大きな声で、怒鳴り散らさないだけに、ことが難しい。多加は、横合いから足袋のままで土間へ飛び下りるなり、
「席主でござりますが、お気の悪いことになりまして、えらいすんまへん」
 敷台に頭をこすりつけた。
「あんたが、ここの席主ですか」
 初めて口をきいた。重味のある声だった。
「正月早々に足もとを取られるのは縁起の悪いもんで」
「へえ、ほんまに申しわけおまへん、すぐさまお気のすみますようにお足もとを揃えさして戴きまっさかい、ちょっとお憩みしておくれやす」  (五) 


 そのあと、多加は人力車に飛び乗って、履物屋で1円30銭もする桐台の高級下駄を買い、お客に差出し、急場をしのいだのでした。
 大正初めの話、一流の寄席の木戸銭が20銭の時代。1円30銭といえば、現在の1万円くらいの感覚でしょう。

 ぞうり


 ところで、この下足の扱い、具体的にはどのように行っていたのでしょうか?

 「花のれん」には、このように描かれています。

(前略)多加は、すぐ紋付の袂を身八口(みやつくち)にはさみ込み、褄を裾短かにつまみあげて、土間に下り、自分も客の下足を取った。
「へえ、毎度おおきに、あんさんのお履物は三十八番さん!」
 客の脱いだ履物を受け取って、合札(あいふだ)を渡す。下駄は、鼻緒をすげた表側同士の上合せ、靴は底合せにして、下足札のついた紐でくるっと、廻しにしてくくる。この場合、下足紐は履物を吊る掛釘にかかるだけのワサ分を残して結ぶことと、履物を掛釘に吊った時すぽっと脱け落ちぬよう、履物の中程をうまい工合にくくり込むことが下足取りのコツだった。 (五)


 私がまず感心したのは、下駄など鼻緒のある履物は、鼻緒同士を合わせてくくり、靴は底を合わせてくくる、ということです。
 確かに、鼻緒にひもを掛けると、鼻緒が傷んでしまうので、それを防ぐ工夫なのでしょう。

 そして、もっと驚いたのが、くくった履物にワサ(輪っか)を作って、壁などに打ったクギに引っ掛ける、ということでした。
 
 これまで、漠然と抱いていたイメージでは、下足は下足箱(下駄箱)に入れて収納しておくのでは、というもの。
 みなさんも、お寺などの拝観に行かれると、入口に大きな棚のような下足箱があるでしょう。あのイメージだったのです。

 ところが、クギに掛ける(吊るす)という……
 なんだか虚を突かれた思いでした。

 それで、事典を調べてみました。
 ちゃんと「下足」という項目があり、次のように書かれています(加太こうじ氏による)。

 客などが座敷へあがるためにぬいだ履物を下足という。
 江戸時代から芝居小屋、料亭、寄席、遊郭、集会所、催物場などが、下足番を置いて客の履物をあずかって下足札をわたした。旅館も客の履物をあずかるが、昔の旅客はわらじ履きだったので下足札はわたさなかった。それゆえ旅館では下足とはいわない。

 明治末から東京にデパートが開店したが、初期には店内に緋もうせんやじゅうたんなどを敷きつめて、客の履物をあずかってスリッパあるいは上草履(うわぞうり)に履き替えさせて下足札をわたしたこともある。1923年の関東大震災以後は履物を履いたままはいれるほうが便利なので、下足番を置くところは少なくなった。

 下足札は10cm×5cmぐらいの長方形の板で番号などが書いてあった。
 すし屋でイカの足をゲソというのは下足からきた符丁である。
 花柳界では下足とはいわないで、<おみあし>といった。(平凡社『大百科事典』)
 

 下足札の大きさについては、「花のれん」にも、札が足りなくなったので慌てて2寸×1寸(約6cm×3cm)の木札を作ったとありますから、そのくらいの大きさだったのでしょう。

 いつから下足預かり制から土足OKになったのか、これはよく言及される点ですね。
 劇場などでも、大正時代になると、席まで自分で履物を持ち込むところも登場します。

 ところが、預かった履物をどのように管理するのかは、なかなか分かりません。
 江戸時代でも、明治以降でも、百人単位の大人数が集まる機会はいろいろとあったでしょうけれど、履物をどのように管理していたのか、とても気になるところです。
 この小説の記述がほんとうなら、ちょっと疑問が解消したと言えるでしょう。

 キムラ 寺町・キムラの下足番


 法善寺横丁の「お茶子」

 その後、多加は法善寺横丁へ進出します。
 ここは道頓堀の南側に位置し、水掛け不動や「夫婦善哉」があることで知られている横丁です。格の高い寄席(紅梅亭と金沢亭)がありました。

 どうしても法善寺に寄席を持ちたかった多加は、金沢亭の買収をもくろみ、交渉の末、手に入れます。
 小説では「花菱亭」、史実では「南地 花月」というのがこれに当たるそうです。

 ここでも多加は策を弄し、ライバル紅梅亭に出ている落語家を獲得するために、まず紅梅亭のお茶子を籠絡するのでした。

 お茶子とは、客の世話をする女性スタッフです。
 牧村史陽編『大阪ことば事典』には、「劇場で、客の送迎接待や、その他の芝居における一切の雑用をする女の称」とあり、「また寄席では、高座の装置・小道具などの出し入れや、楽屋で芸人の世話をする女の人のことをいう」ともあります。

 このあたりの事情、とりわけお茶子を取り仕切る「お茶子頭」について、「花のれん」には次のように描かれています。

 寄席のお茶子頭は、ちょうど料理屋やお茶屋の仲居頭のようなものだった。お茶屋で仲居頭の裁量一つで、座敷の良し悪しや芸者の顔ぶれが定まるように、寄席でもお茶子頭の裁量で出番や楽屋内での人気が定まり、特に御贔屓筋の受けが違って来る。上客を桟敷に案内しながら、旦那はん、次の番替り(十五日毎に替る)からは文団治師匠が出はりますねん、どうぞその節は御贔屓にと、念を入れて貰って置くと、人気が違って来る。それに古顔で年増のお茶子頭なら、師匠達のうだつの上らない駈出し時代に、ちょいとした借りもある。それだけに、一口に寄席のお茶子ぐらいがと云い切ってしまえぬことがあった。 (七)

 小説では、「お政」という、紅梅亭から引き抜かれたお茶子頭が個性を発揮しています。
 策略家の多加は、まずお政に好きなお酒を飲ませて味方にし、それを伝手に落語家の大師匠をくどいて、花菱亭の舞台に上げたのでした。

 お茶子は、桟敷客などの上客から心付けをもらうので、お茶子頭ほどになると1日に10円ほども稼いだと言います。今でいうと、1~2万円ほどの額になります。

 このような「古きよき時代」があったのですが、劇場が椅子席になり、近代化していくと、下足預かりも必要なくなり、お茶子の出番も減っていきます。

 大阪歌舞伎座 大阪歌舞伎座(番付より)

 昭和7年(1932)に新築開業した千日前の大阪歌舞伎座は、鉄筋コンクリート造7階建(地下1階)、3,000席を擁する近代的な劇場でした。
 その開業時の番付を見るとおもしろいことが書かれています。

 「御履物は、靴、草履が御便利です」とあり、「地階にお履物をお預りする用意がございますが、場内はなるべく靴、草履がご便利です」と記してあります。
 ここで預かってくれる「お履物」は、下駄を指していると思われます。
 以前は博物館などでも、下駄から履き替えるスリッパを置いているところがありました。下駄は、カランコロンと床に響いてうるさいのです。
 そのため、靴や草履を履いてもらい、下足預かりを極力やめるようにしました。

 また、お茶子ならぬ「案内人」については、次のように記されています。
 「案内人へ御祝儀のお心付は堅く御辞退申上げます。総て案内人には(番号)が付けてありますから不行届の点は御面倒ながら事務室までお知らせ願ひ上げます」。

 どうも今と変わらないなぁ、と思わされます。
 昭和の初め頃、興行界でも「大衆化」が進んで、現在に続くシステムが出来上がっていったのでした。

 作品では、お茶子頭のお政について、このように締めくくっています。

 多加は(中略)下駄や靴のままで入れるようになった高麗橋の三越を見て、寄席も下足なしにしなければと気付いた。昔ながらの寄席気分を味わう通の客の多い法善寺の花菱亭を除き、あとの寄席は桟敷だけを残して全部、椅子席にし、お茶子の案内や下足なしで気軽に入れるようにした。これを機会(しお)に、四十を過ぎても甲斐性無しの亭主と別れられず、急に白髪の増えたお茶子頭のお政は、
「椅子席の寄席ができるようでは、お茶子の先も見えてるわ」
 と、祝儀を蓄め込んだ金で、小料理屋の権利を買った。千日前の播重の近くに開く店のために、多加は、金一封二千円を祝い、屋号を、『花衣』と、付けてやった。 (十二)





 書 名 「花のれん」
 著 者  山崎豊子
 刊行者  新潮文庫
 刊行年  1961年(原著1958年)



スポンサーサイト

コメント

非公開コメント