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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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雑誌「上方芸能」が200号で終刊

京都本




「上方芸能」 「上方芸能」


 48年の歴史にピリオド

 関西の芸能を中心に取り上げ、48年間にわたって刊行されてきた雑誌「上方芸能」が、明日(2016年5月10日)発売の第200号で終刊します。

 文楽、歌舞伎といった、いわゆる古典芸能から、落語、漫才、さらにはテレビ番組やCMまで、幅広いジャンルを扱ってきました。
 同誌のウェブサイトにも、「雑誌『上方芸能』は、1968年4月26日に「上方落語をきく会」の会報として創刊されました。当初は落語中心の内容でしたが、徐々に上方(京阪神)の芸能全般を取り上げる雑誌へと進化していきました。
 現在では能・狂言、歌舞伎、文楽、日本舞踊、上方舞、邦楽、現代演劇、歌劇、落語、漫才など、幅広いジャンルを毎号取り扱っています」と紹介されています。


 1968年(昭和43)といえば、まだ万博(1970年)前ですね。
 テレビがお茶の間(これも死語ですが)に進出しつつあった時代で、確かに伝統芸能を省みるといった雰囲気でもなかったかも知れません。

 今たまたま手もとに25年ほど前の号があります(111号、1992年5月)。
 ページを開いてみると、実にさまざまな記事が並んでいます。

 特集は「笑いの海へ <上方お笑い大賞>の20年と演芸界」。
 バブル経済がはじけた1992年から、20年前の1972年を振り返っています。

 山口洋司・読売テレビ編成局次長は、上方お笑い大賞が創設された頃の記憶を蘇らせます。どのように審査対象となる芸人たちを探し出したのか?(適宜改行しています)

 富士正晴、小松左京、秋田實、田辺聖子、このそうそうたる四氏がはじめの審査員である。

 当時角座、新花月、神戸松竹座、うめだ花月、なんば花月、京都花月、コマ・モダン寄席と七つの寄席が賑わっており、事務局としてはどんな演者がどこに出ているか、の情報もさることながら各寄席の担当を決めて十日ごとに変わる各席を見て、毎月集約、これぞと思うものは審査員に見てもらうように計ったりしていた。

 寄席だけでなくもちろん独演会などもフォローした。月に一回、天王寺[てんのじ]村にあった寄席からはみ出された古い演者を一手に引き受けて手配している団之助芸能社に出向き、ヘルスセンターや村祭りなどの演者の出演状況なども調べ、実際に現地へ出かけたりもした。和泉府中にある穴師神社の秋祭りでの出羽助・竹幸あたりの老漫才師コンビが、バイオリン片手に枯れた芸を祭りの賑わいの中で見せていたのは何とも言えない味わいであったのを覚えている。

 ジャンジャン横丁の中ほどにある新花月は、迷路のような所を抜けて、きしむ階段を上がると大部屋の楽屋だが、その裏口で七輪のさんまを団扇でバタバタ焼いていた老夫婦漫才師の姿も忘れられない。一旦舞台に上がると客席がひっくり返るように笑わす、さすがのキャリアであろう。

 その新花月に尾崎れい子という河内音頭を絶唱する19才の演者がおり、その小気味よい歌いっぷりと健康的なお色気に客席はやんやの喝采、ラジオ・テレビでなく寄席小屋が生み出すスターに注目し審査員に推奨したりもしたが、その後、誰かに目をつけられたか突然上京というようなこともあった。

 マスコミの陰に隠れている部分もなんとか拾い上げたいという気持ちから網を大きくはって来たと言える。(「寄席の芸からテレビ中心の時代へ」)


 現在からすれば、40年余り前の大阪の芸能界が、くっきりと表れています。
 演芸というものが、まだレンズやブラウン管を通さずに、生身の人間同士のなりわいとして成り立っていた時代の姿。
 筆者の山口氏は、その光景を20年経っても忘れていないのでした。

 そんなお笑いの世界も、1992年当時、すでに寄席は減少し、テレビが主体、それもトーク番組が幅を利かせるように変わる中で、笑いも「拡散」していくのでした。


 時評に歴史的意義も

 「上方芸能」は、同時代の芸能への批評に力を入れてきました。つまり、「いま」の芸能と一緒に走って来た雑誌といえます。
 例えば、同号では、トミーズの漫才がおもしろいと各所に記されています。
 いま、トミーズ(健と雅)はテレビでよく見かけるけれど、さすがに漫才は見ませんよね。でも、25年前は二人の漫才が「一番おもしろい」とさえ書かれているのです。

 四半世紀後に振り返ってみると、こういう記載はなかなか興味深いものがあります。
 おそらく、百年後に振り返る人がいたら、もっと関心が持たれるのではないでしょうか。必ずや歴史資料になります。

 また、連載も渋いものが揃っています。同じ号を見てみると……
 桂米朝「上方落語ノート」、土居原作郎「関西テレビドラマ展開史」、樋口保美「大阪朝日新聞にみる動き 明治の大衆芸能史」、権藤芳一「武智鉄二 資料集成」、三田純市「道頓堀日記」などなど。
 本になっているものも、ありますね。

 産経新聞(5月9日付)の朝刊は、「さよなら『上方芸能』」という特集記事を掲載しました。
 発行人の木津川計さんのコメントが載っています。

 大阪は「がめつい」というイメージもありますが、実際は人情の町で、文化的な平和都市です。文化芸能の発展には検証・批評し、展望する媒体が不可欠。

 などと述べられています。

 「上方芸能」は、上方(京阪)、関西の芸能を取り上げる雑誌でしたが、やはり大阪色が強かったという印象です。
 編集部も大阪市内にありますけれど、在阪テレビ局が大阪市に所在するため大阪中心になりがちなのと似たような印象があるなぁ--と京都人の私は、少し感じてしまいます。

 いま書棚を見ると、「文化のチカラ-大阪の明日へ-」という特集号(164号)があります(別に大阪特集でいいんです)。
 そこには、上方歌舞伎をどう復活させるか、大阪文学の隆盛をどうしたら取り戻せるか、ということに対して、山田庄一、服部幸雄、今尾哲也、上村以和於、藤本義一、大谷晃一、有栖川有栖といった錚々たる面々が提言を寄せています。
 私がこの号を買ったのも、上方文化の低迷を悩ましく思っていたところがあったからでしょう。
 
 その号は、2007年6月の発行。
 それから状況がよくなったとは決して言えず……

 この隔靴掻痒感が、もどかしいのです。

 「上方芸能」の表紙には、「芸能文化の広がる都市に」という言葉が掲げられています。
 この数十年、上方で、関西で、芸能文化は広がって来たのでしょうか。

 「上方芸能」は、失って存在の大きさが分かる雑誌になると思うのですが、木津川氏が言われるような “第二の「上方芸能」”の登場は、果たして実現するのでしょうか。




 書 名 「上方芸能」
 刊行者 『上方芸能』編集部
 刊行年 1968年~2016年

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