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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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過去の記事の落穂拾い第2弾は、吉田・新長谷寺跡のかつての住人について

洛東




新長谷寺跡


 吉田神社の新長谷寺跡

 長い間、ブログを連載していると、思わぬところで過去の記事に関する発見があるものです。
 先日は、「いけ吉」について紹介しましたね。

 記事は、こちら! ⇒ <以前の記事の落穂拾い的に「いけ吉」について調べてみた>

 今回は、昨年(2015年)8月の記事、<吉田神社の境内には、奈良・長谷寺の観音さまを写した“新”長谷寺があった - けれど、いったいどこに? ー>(←クリックすると開きます) についての “新発見” です。

 前回内容を要約すると、昔の名所図会をみると吉田神社には「新長谷寺」という寺があったらしい。いま現地を訪ねてみると、南参道に立派な石垣や灯籠が残されており、これが新長谷寺の痕跡である。そして新長谷寺は、明治維新後、真如堂の境内に移築された--というものです。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」
  「花洛名所図会」(1864年)にみえる新長谷寺

 新長谷寺跡
  新長谷寺跡(2015年8月)

 前回記事の中で、その石垣上に建つお宅の方が出て来られたので話を聞いた、というくだりがあります。

 こんなふうに、あたりを観察していると、この石垣の上に住んでいる方が偶然出てこられました。 
 思い切って、「こちらは、昔“新長谷寺”があったところでしょうか?」と尋ねてみました。
 すると、なんなく、そうですという返事。
 詳しく聞いていくと、かつて長谷寺があった場所は、のち民家が建っていたが、30年ほど前に分割され、現在では2軒の家が建っているといいます。
 もともと石垣に上がる道(つまり昔の新長谷寺の石段)は、西隣の学生アパートの道になるそうです。


 ここで疑問のまま残っていたのが、30年ほど前に分割される以前の居宅のことでした。


 新聞記事に……

 昭和初期から終戦直後頃の様子がうかがえる「京都市明細図」を見ると、吉田神社南参道にある新長谷寺跡地には、1軒の邸宅が建っていることが分かります。現在ここが2軒の住宅になっています。
 その裏(北側)は、いまは学生アパートが建っていますが、当時は空地だったようです。

 そんな新長谷寺跡。
 いつだったか、マイクロリーダーで新聞記事を見ているさなか、こんな記事に出食わしました。
 大正2年(1913)11月13日付の京都日出新聞です(適宜改行しています)。

●超然たる内田博士
 京大文科教授内田銀蔵博士は、明治二十九年東大文科の国史科を主席で卒業した秀才で、同年の国史科出身には彼[か]の黒板、喜田両博士もある、
 博士は今や京大文科に国史を講じつゝあるが其[その]潔癖は大学内でも評判にて教室の扉を開くに引手を握らず、人の接触せざる部分を母指を以て強く押し開くを常として居る


 なんだか笑えるような出だしの記事ですね。
 文中の「黒板、喜田両博士」とは、日本史研究の大家・黒板勝美(くろいたかつみ)と喜田貞吉(きたさだきち)を指しています。内田銀蔵はその両名と同期のうえ、彼らに抜きん出て首席で東大国史科を卒業したというのです。

  内田銀蔵 内田銀蔵(「藝文」10-8)

 内田銀蔵は、明治5年(1872)、東京に生まれ、帝国大学文科大学(現・東大)で国史を学び、のち東京帝大文科大学の講師に着任、日本経済史を講じました。学位論文は「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」です。
 外遊後の明治39年(1906)、京都帝大に文科大学が設けられるにあたり、その教授になり、京大の史学科創設に貢献しました。明治40年に開講された国史学講座では、史学研究法や国史概論を講義しています。

 つまり、日本史研究の黎明期のエリートで、京大国史の恩人ということになりますね。京大出身の人の話によると、現在でも、京大には内田銀蔵の肖像が掲げられているそうです。

 日出新聞の記事には、内田博士は「学問に忠実なること類ひ稀で非常の勉強家であるが、夫[そ]れ丈[だ]け実生活とは没交渉で超然たるものがある」と、博士の浮世離れした学者ぶりを紹介しています。
 あるとき苦学生に対し、「家庭教師になったらどうだ、一日二時間くらい教えれば相当な収入になる」と言ったそうです。後日、学生らが博士を訪ねて家庭教師の紹介を頼むと、「あれは僕の理想を話したのだ、実際問題を僕のところへ持ち込まれては困る」と述べたそうです。
 大学教授って超然としているよね、ということをおもしろおかしく書いた記事ですね。
 内田博士は、実直で潔癖な性格だったので、当時の新聞などにその逸話がよく取り上げられていたそうです。

 でも、私を引き付けたのは、そこではないのです。
 実に興味深い事実が、この記事には書かれていたのでした。

▲博士の邸宅は吉田神社麓の高地に恰[あたか]も城廓の如く石垣高く築きたる一構[ひとかまえ]が夫[そ]れであつて、客室は京都市街を一眸[いちぼう]の裡に眺むべく卓を中央に椅子三脚整然として一糸乱れずといふ風である

 どうでしょう、この「吉田神社麓の高地に恰も城廓の如く石垣高く築きたる一構」という記述。
 あの新長谷寺跡の石垣が、これではないでしょうか?

 そこで別の資料を見てみると、内田博士の自邸は吉田上大路町とあります。まさに、この場所の町名です。上大路町には他に城郭の如き邸宅はないでしょうから、ここに博士が住んでいたとみて間違いないでしょう。

 新長谷寺跡
  かつての内田博士邸(右の石垣上)

 意外なところから、かつての住人が判明しましたね。

 内田銀蔵博士は、この記事が出た6年後の大正8年7月11日、研究室で吐血し、その11日後、48歳で急逝されます。胃の病気だったそうです。市内妙満寺で行われた密葬には、東京帝大文学部を代表して黒板博士も会葬されたといいます。
 京都帝大の雑誌「藝文」同年8月号には、喜田博士や三浦周行博士、浜田青陵博士をはじめ、多くの人々が思い出を寄せています。

 墓所は、東京都足立区綾瀬の清亮寺にあるそうです。




 新長谷寺跡(吉田神社)

 所在  京都市左京区吉田上大路町
 見学  外観自由(個人宅ですのでご配慮ください)
 交通  市バス「京大正門前」下車、徒歩約8分



 【参考文献】
 『国史大辞典』吉川弘文館
 「内田銀蔵博士訃」「故内田博士追想録」(「藝文」10-8、1919年)
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵


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コメント

吉田山の思い出

今回の記事と前回の吉田神社の新長谷寺跡の記事を拝見し、枚方市の意賀美神社境内の長松山万年寺跡のことを連想しました。

この長松山万年寺も、明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、今は十三重の石塔などが残っています。

吉田神社へは数年前の節分に先ず八坂神社に参拝した後に参拝し、何処の参道を通ったか記憶が定かではありませんが、ストリートビューを見ると、自分もこの南参道を登って行ったような気がします。

その時は、追儺を見るために早く本殿前に着こうと急いでいたので、余り周囲を見渡す余裕が無く、それでも本殿前に着いた時には大勢の人が追儺を待っていて、前列で見ることが出来ませんでした。

そして、帰りは表参道を歩き、沢山の露店が並んでいたことを思い出します。

吉田山へは、十数年前に大文字の送り火を見に登ったこともありますが、真っ暗で自分が手に持っているカメラの目盛りも見えずに困った経験もしました。

吉田神社

ご愛読いただき、ありがとうございます。

吉田神社は、京都の人にとっては節分で有名ですが、他の季節にはほとんど行かない神社のように思います。
大元宮も、有名といえば有名ですが、一般には余り知られてないのでしょうね。

新長谷寺は真如堂に移されたのですが、丘の上を歩くと意外に近い位置関係にあるので驚かされます。

神楽岡とその周辺には興味深い史跡が多いのですが、じっくり見て歩く機会が少ないです。
いつも自転車で通過してしまうせいかも知れませんね。


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