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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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懐かしき京の面影、京ことば - 吉村公三郎『京の路地裏』-

京都本




  京の路地裏 吉村公三郎『京の路地裏』岩波現代文庫


 映画監督の京都エッセイ

 吉村公三郎というと、「夜の河」などで知られる映画監督です。
 私らの世代からすると、ちょっと前の監督かなという感じがします。

 吉村家は滋賀県の旧家で、吉村公三郎も膳所(現・大津市)で生まれたそうですが、子供時代は京都で過ごしています。明治44年(1911)生まれなので、大正時代のことになります。
 家は、西洞院五条下ルということで、市内中心部よりは少し南ですね。

 その吉村公三郎が書いたエッセイ集が『京の路地裏』です。

 少し長めのエッセイ12本からなる本書。
 タイトルにもなった路地については、「すまいと路地」の章に書かれています。

 京都には路地が多い。

 (中略)

 路地のことを京都の人たちは「ろーじ」と引っぱっていう。これにはいろいろの種類があって、「ぬけろーじ」というのは表通りから真っ直ぐに向こうの通りへ抜けるもの、「かぎろーじ」というのは表通りと直角の横丁へ鍵形に、途中で折れて抜けられるもの、それから俗に「パッチろーじ」というのがある。

 路地は向こうへ抜けない袋小路が原則で、「パッチろーじ」もその変種である。

 入り口を入ってまっすぐ行くとつきあって左右に分かれ、また曲がって奥まで続く。「パッチ」(もも引き)みたいな形だからこの名がある。(238ページ)


 このような話でいえば、タイトルになっている「路地裏」という言葉が、なんとなく違和感があるのです。路地は路地で、路地の裏はないのだから、と。余り使わない言葉です。
 けれども、なんとなく裏話っぽい本書のエッセイには、この題名が似合うような気もするのでした。

 先斗町の路地


 昔使った京ことば

 この本を読んでいると、そういえば昔こういう言葉を使ったなぁ、というものが出て来ます。

  安産のお守りさんは
  常は出ません
  今、明晩限り
  御信心のおん方様は
  つけてお帰りなされましょう

 祇園祭の宵山といえばすぐ思い出すのは、この女の子達の呼び声である(今も行われているかどうか知らない)。(51ページ)


 現在もまだ行われている祇園祭の宵山の、子供たちが呼び掛ける声。
 歌のように節をつけて唄うのですが、私の気に留まった言葉が「常」。

 京都では、いつも、ふだん、のことを「常」というのです。
 もちろん、一般にも「常」という語は使うでしょうが、京都では日常の口語でこの言葉を使います。

 147ページにも、こう書かれています。

 「この辺は常(いつも)には、人通りが割りに少のうて、あいさに(時どき)問屋はん悉皆屋はんの自転車、染めもんを晒し屋へ運ぶリヤカーが通らはるくらい。

 「夜の河」の原作小説のモデルになった木村孝(たか)さんの語りを起こしたものです。
 いつもは、ということを、常は、というんですね。

 もちろん、本書にも「京言葉」の一章が設けられて、いろいろな言葉が紹介されています。
 私も聞いたことがない「オムシ」(味噌)、「ハシジカ」(上り口)などという言葉がある反面、そういえば、という言葉もあります。
 
 監督がいう「えぞくらしい」。
 本書に何度か出て来ます。私は「えぞくるしい」と聞いていた記憶があります。「えぞくろしい」もあるみたいですし、「えぞ」が「えず」の場合も。

 「えぞくらしい」は、もっとむつかしい。
 粗野な、野暮な、不調和な、感じだがそれだけでは十分でない。時にはグロテスクな意味もあり、ドギツイ場合もある。(65ページ)


 そうですねぇ、「グロテスク」、それに近いかも。
 “ぞっとする” 気色悪い感じを表す言葉ですね。
 もっとも、私自身は使ったことはありません。母が言っていましたね。かなり古めかしい言葉でしょう。

 
 シブチンな京都人

 「シブチン」というのもまた、京ことばでしょう。
 渋い人、という意味で、端的に言えば「ケチ」のことです。

 吉村監督は、この「シブチン」という一章を設けて、京都人の倹約ぶりについて滔々と述べています。

 倹約のことは、京都では「シマツ(始末)」と言います。
 監督が上野さんという人から聞いた実例は、本当にえげつないシブチンの話です。例えば……

 味噌汁のだしは、近所のうどん屋で、出し殻をわけてもらい、干しておいて少しずつ使う。汁の身はもちろん仁和寺の畑のものだ。[注:仁和寺の近くに畑を持って自家栽培している]

 出し殻は使った汁のそのまた出し殻を捨てはしないで、煮つめて佃煮にし、朝や昼のおかずにする。
 「その佃煮ももったいないさかいちゅうて主に塩を使こおてお醤油はちょっぴりしか使わはらしまへんさかい、何やしらん色の薄い佃煮やそうどす」
 と上野さんの描写は細かい。

 (中略)

 スキヤキの牛肉は、近所の寺町の肉屋からコマ切れを買って来る。
 「済んまへんけど、ワンワンさん(犬)にあげるのどすさかい、切り出し(コマ切れ)百五十グラムほどおくれやす」
 といって、呉服屋のお女将さんが買っているのをみた近所の人が
 「犬なんて飼うてはらしまへんのになあ」
 と笑って話していたことがあるそうだ。(117-118ページ)


 ハハハ、ありそうな話ですねぇ。
 犬にやると言って安物の肉を買うのもありそうだけれど、それを「犬なんか飼(こ)うてはらしまへんのに」という陰口も言いそう(笑)

 監督も書いているのですが、京都の人が隣近所を監視? するという話は、よくあるんですね、たぶん。
 そのへんは、私も読んでいて、なんだか昔を思い出して、ちょっと複雑な気分でした。なので引用はやめておきましょう。

 だいどこ

 シブチンをもうひとつ。

 ところがこのうちも、内裏はケチケチしているのに、外には格好よいところを見せたいらしいのはこれも、やはり京風の常である。

 お歳暮の挨拶に、舞鶴の方の漁師町の得意先から、生きのよい鯛をもらったその翌朝、早く表へ出て、声高に話し合う。

 「昨夕[よんべ]の鯛は美味しかったなあ」
 「ほんまどした。片身はおつくり(刺し身)にして片身は塩焼き、頭はあら煮き、そのほかはお汁のおだしにして食べたんやけど、やっぱり鯛みたいなもんは新しいのに限りまんな」

 と近所近辺によく聞こえたようだと見定めると家へ引っ込んだ。「不断シブチンやシブチンやとぬかしてるけど、どうや、鯛みたいな上等の魚を食べてるんやゾ」とデモったわけである。(123-124ページ)


 ありそうな話。
 まあ、さすがに21世紀の現在ではないでしょうけれど、昭和にはありましたね、このメンタリティー。


 魅力を覚える京都人

 吉村監督は、若い時分は神社仏閣や古い建物などには興味を抱かなかったと言っています。
 そのかわりに、「つまるところ魅力を覚えるのは「京都人」であった」(231ページ)。

 確かに、人間って興味が尽きないですよね。
 そんな数々のエピソードの中から、最後にひとつ。

 夏の夕方、四条の大橋からもひとつ下流[しも]の団栗橋で川風に吹かれていたら、こんな風景をみた。

 若い娘がめかしてやって来るのに、反対の方から来た中年のおばはんが声をかける。

 「××ちゃん、綺麗さんにして、どこいきどす」
 「へえ、ちょっと……」
 「いやア、そうどすか。お早ようにお帰りやす」
 「へえ、おーきに。さいなら」
 「さいなら」

 と二人はすれ違って行く。
 すれ違いながらのやりとりが、まるで歌うが如くである。そこで私は考える。

 「どこいきどす」

 とたずねられたのに対し娘は

 「へえ、ちょっと……」とだけしか答えない。
 それなのに、
 
 「いやア、そうどすか」とまるでわかったような返事をする。

 要するにこの二人のやりとりは、ただ声を交すだけのことで何の意味もない。
 「お早ようにお帰りやす」といっても、別に早く帰ろうが遅く帰ろうがどうでもよいことなのである。いってみるだけだ。
 このような女どうしの無意味な対話はつねによくみられる。しかし、こうした対話をしないと「あの娘[こ]は」、あるいは「あのおばはんは」愛想なしといわれる。(136-137ページ)


 こういうやりとりは、なかなか含蓄があり、興味深いものです。
 言葉としては何の意味もないけれど、「言ってみるだけ」が意味を持つことがあるーーそんな人間関係の真理が表れていますね。

 本書の原箸が刊行されたのが、昭和53年(1978)。
 当時すでに、懐かしくもあった京都のしきたりは、揶揄されるものにもなっていました。
 それから40年近く経った今日、そんなものも改めて見返してみると、学ぶところがあるのかなと思ったりするのでした。




 書 名 『京の路地裏』
 著 者  吉村公三郎
 出版社  岩波書店(岩波現代文庫 文芸107)
 刊行年  2006年

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