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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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鴨川や高瀬川沿いにあった「生洲」は、京の人々の遊興の場所





鴨河原


 鴨川、高瀬川付近に多かった生洲

 前回、「いけ吉」という生洲(いけす)について紹介しました。
 今では誰も知らないけれど、江戸時代、四条先斗町を上がったところにあった料理屋です。

 「花洛名勝図会」のいけ吉
  幕末のいけ吉(「花洛名勝図会」より)
 
 江戸後期から明治時代頃には、いけ吉のような生洲と呼ばれる料理屋が鴨川や高瀬川近辺にたくさんありました。

 今回は、この生洲特集です。

 まず、上の絵が載っている「花洛名勝図会」(1864年)の挿図を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」
  「花洛名勝図会」より「四条橋 其二」(部分)

 四条大橋の西詰。橋につづく大通りが四条通です。そこから左上に分岐する小道(ページの境目)が先斗町です。
 つまり、先斗町の入口辺りを描いた絵です。

 先斗町

 現在では、先斗町入口の右側が交番、左のシャッターが閉まっている店がタバコ屋さん。
 この交番があったところは、幕末には料理屋が建っていました。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 藤屋。
 暖簾に書いた「ふぢや」という表記が、なんとも江戸時代。
 よく見ると、右端の掛け行燈(あんどん)などに「萬川魚(よろずかわざかな)」と記してあります。つまり、この店もまた生洲だったわけです。
 2階にも座敷があって、飲食する人が描かれています。

 入口左の横長の掛け行燈には、どうやら出される魚の名などが書かれているようですね。
 また、その下の路上に “フジツボ” みたいなものが2つ置かれていますが、これは魚を入れるビクでしょう。
 ビクは「魚籠」と書き、竹で編んだ魚を入れておくカゴです。釣りでよく使いますね。
 結構リアルに描いてあります。

 今度は、反対のタバコ屋さんのところ。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 余談ですが、画面左端に画かれている縦長の看板には「かんざし」とあって、たぶんこの店は今もありますね。
 2軒描いてある左の店は、餅屋さん。右の店が「萬川魚」と掛け行燈に書いている生洲です。店名は、ちょっと不明瞭ですね。

 こちらも店構えは藤屋と同様で、入口の左側には小窓状の部分があるので、ここはテイクアウトする場所なのかも知れません。


 西石垣という場所

 鴨川や先斗町の付近は、昔の京都でいえば街の東のはずれです。
 平安京の東京極(ひがしきょうごく)大路は、現在の寺町通に相当します。その後、豊臣秀吉が御土居(おどい)という土塁で京都を囲みますが、その東のラインは河原町通の西辺りでした。

 江戸時代になって寛文10年(1610)、鴨川の両岸に長大な堤が造られます。とりわけ、三条から五条の間は石垣を積みました。
 この石垣の堤防を「東石垣」「西石垣」と呼んでいます。読みは「とうせき」「さいせき」です。もとは石垣の名前だったはずですが、いつしか地名のように使われました。

 東石垣は、現在の宮川町筋にあたり、西石垣は先斗町の四条通以南を指します。
 西石垣は、四条大橋畔の東華菜館の脇を入って行きます。

 西石垣 西石垣の入口

 東華菜館の南には、ちもとという料亭があり、細い通りが延びています。

 西石垣
  西石垣 左が京料理ちもと

 いま西石垣通というこの通りは、四条通から南へ延びて、木屋町通に合流するまでの約100mの細道です。
 現在では木屋町通の脇道のようになっていますが、江戸時代にはこの辺りには木屋町通はなかったので、四条から南に行くにはこの西石垣を通りました。

 「花洛名勝図会」には、西石垣の入口辺が描かれています。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」 ← 西石垣通

 150年前の東華菜館の場所。
 入口に「うどん」の提灯を掲げた小店があり、右の建物には、やはり「萬川魚」の行燈が掛かっています。ここも生洲だったわけです。店の名も書かれていますが、どうも読めないのですね。

 ちなみに、明治16年(1883)に出た「都の魁」には、四条大橋西詰の3軒が書かれています。
 先斗町入口の右が藤や(つまり幕末のまま)、左は浪花楼です。そして、東華菜館のある場所には京屋と記されています。

 西石垣
  鴨川から望んだ西石垣 (橋は四条大橋)


 生洲いろいろ

 「商人買物独案内」(1831年)など、古いガイドブックをもとに、かつてこの近辺にあった生洲をリストアップしてみましょう(読み方は便宜的なものです)。

 ・生 亀(いけかめ)……木屋町三条上ル
 ・藤 屋(ふじや)………先斗町四条角
 ・生 吉(いけきち)……先斗町四条上ル
 ・扇 長(せんちょう)…同上
 ・亀 吉(かめきち)……同上
 ・平 長(ひらちょう)…木屋町四条上ル
 ・大 儀(だいぎ)………河原町四条下ル
 ・生 亀(いけかめ)……木屋町松原上ル

 滝沢馬琴や司馬江漢らは、松源や柏屋といった名もあげています。
 馬琴によると、柏屋は先斗町に出店があったようです。いま先斗町四条上るに「柏屋町」という町名が残っているのは、その名残なのでしょうか。
 上記では、生吉と2軒の生亀は著名だったようです。
 
 北の方の生亀があったあたりの現状。

 三条木屋町
  木屋町三条(北を望む)

 高瀬川に面したこのビルのあたりに、生亀があったらしいのです。

 高瀬川
  高瀬川


 生亀の実態とは?
 
 この生亀(いけかめ)と思われる生洲が「都名所図会」に取り上げられています。

 「都名所図会」より「生洲」
  「都名所図会」より「生洲」

 こんなふうに説明されています。

 生洲といふハ、高瀬川筋三条の北にあり。川辺に楼をしつらひ、もろもろの魚鳥を料理[し]て客をもてなし、酒肴を商ふ
 (中略)
 しかしながら婦人の来集、琴・三弦の音曲を禁ず。むかしより此所の掟[おきて]となんいひ伝へ侍る  


 「魚鳥を料理」するとありますが、江戸時代、魚と鳥を一緒に扱う店も多かったようです。
 そして、女性を侍らしたり、歌舞音曲は禁止ということで、純粋に飲み食いする料亭だったようですね。

 「都名所図会」より「生洲」

 高瀬川に面した縁側に出て飲み食いしたり、川に盃を流して楽しんだり。

 「都名所図会」より「生洲」

 よく見ると、座敷の奥に、魚が泳ぐ生洲がありました!

 夏場など、涼しさ満点で、さぞかし楽しかったでしょう ! !

 ガイドブックや、滝沢馬琴、司馬江漢らによると、ウナギ、コイ、フナ、ハモなどを供したようです。鯉の洗いとか鱧の落しとか、おいしそうですね。
 かの本居宣長も、京都に滞在した折に、しばしば先斗町や西石垣などの生洲を利用していたようです。ちょっとしたブームがうかがえますね。




 先斗町の生洲跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る柏屋町
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」、京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 「商人買物独案内」1831年(『新撰京都叢書』)
 「工商技術 都の魁」1883年(同上)
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 加藤政洋『京の花街ものがたり』角川選書、2009年


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