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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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以前の記事の落穂拾い的に「いけ吉」について調べてみた





いけ吉手水鉢


 裏寺町にあった大龍寺

 ずいぶん前になりますが、かつて四条河原町にあった大龍寺について書いたことがあります。
 正確には、四条河原町の北西、いまOPAがある辺りにありました。
 高島屋前の横断歩道を北に渡ると、みずほ銀行がありますが、その宝くじ売り場の左脇の路地(これを「うすさま辻子」という)の奥に、山門があったのです。
 なので、裏寺町にあったと言った方が正しいでしょう。

 この大龍寺は、昭和52年(1977)に右京区に移転しました。
 本堂は新築されたようですが、かつての烏須沙摩(うすさま)明王のお堂は、移築されたもののようでした。

 大龍寺
  烏須沙摩明王堂

 お堂に懸った絵馬には、裏寺町にあった頃の風景が描かれています。

 大龍寺

 以前の記事は、こちらをご覧ください! ⇒ <四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった>


 手水鉢の奉納者「いけ吉」とは?

 大龍寺の烏須沙摩堂の前に、石の手水鉢が置かれています。

 いけ吉手水鉢

 露天で置かれています。
 これは裏寺町にあったものですから、当時は手水舎があり、井戸とセットになっていたのではないでしょうか。
 ちなみに、後ろの灯篭も裏寺町から持って来られたものです。

 いけ吉手水鉢

 前面には、奉納と大書されています。この素朴な雰囲気から、古いものだと分かります。
 左側面に、奉納年が記されています。

 いけ吉手水鉢

 写真では、まったく読めません(笑)
 実際には「文政六/癸未年/六月」と書いてあるようなので、文政6年(1823)のものということになります。

 そして、裏面には奉納者名が刻まれていました。

 いけ吉手水鉢

 「願主/いけ吉」。

 表面と同様、大きく願主の名が記されています。
 1年半前、この「いけ吉」が何者か、よく分かりませんでした。まあ、何かの屋号ではあるのですが、あまり深く考えなかったのです。
 
 その後、幕末に刊行された「花洛名勝図会」の挿図を見ていた時でした。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」
  「花洛名勝図会」より「四条橋」(部分)

 鴨川と四条大橋周辺を描いた絵。
 アップにすると……

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 あっ! こんなところに「いけ吉」が ! ! 

 意外な出会い。
 鴨川の西岸ですから、どうやら先斗町(ぽんとちょう)にあったようです。
 
 川に面したところにある「いけ吉」という店。
 これで、何の店かは想像が付いてきました。

 「いけ吉」の「いけ」は、生洲(いけす)の生だと思いました。
 吉は、もちろん、吉兵衛とか吉右衛門とか吉助とか、名前の1文字でしょう。「美濃吉」なんかと一緒ですね。
 つまり、“生洲吉兵衛”(例)みたいな感じですね。

 ちなみに、いま京懐石 美濃吉のウェブサイトを見ると、こんなことが書いてあるのです。

 その後、代々当主は「美濃屋吉兵衛」を名乗ります。
 川魚生洲料理屋としての形をととのえ、江戸時代後期には京都所司代から認可を受けた川魚生洲八軒のうちの一軒として川魚を主体とする料理屋を営むようになりました。


 えっ! 美濃吉も生洲だったのか ! !
 知らなかった。
 
 美濃吉は、戦前まで鴨川東岸の三条縄手にあり、「川魚料理 縄手美濃吉」と名乗っていた時代もあるそうです。


 生洲って、なんだ?

 少し先走ってしまいました。
 そもそも「生洲(いけす)」って何でしょう?

 魚を獲って、それを生かしたままにしておく装置――それが生洲ということに、まずはなるでしょう。
 海や川に網や竹かごなどで作る場合も多く、今だったら水槽を使うものも生洲と言ったりしますね。そのため、もともとの文字は「生け簀」です。

 ところが、第2の意味があるのです。
 それは、魚料理を出す料理屋、というもの。生洲を持っている店ということで、少し意味が拡大したわけです。

 ただ、この言い方は上方(京大坂)独特らしく、江戸では言わないそうです。
 三都の風俗を比較した「守貞謾稿」は、

 京坂ともに皆、表掛行燈(かけあんどん)に万川魚(よろずかわざかな)と書き、生洲と称して鰻(うなぎ)かばやき・鯉(こい)・鮒(ふな)の類を兼ね、今は海魚を専ら交へ調す。

 と書いています(巻5、生業上・鰻屋)。

 つまり、「生洲」というのは店の呼称で、もとはウナギ、コイ、フナなどの川魚を供していたけれど、現在では海の魚も出している、ということです。
「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年(1837)以来の見聞をまとめ、嘉永6年(1853)に一旦まとめられた書物です。江戸時代終わり頃の状況を示しています。

 食文化は、上方と江戸では大変異なることは周知の通りです。
 例えば、江戸で「刺身」というものを京坂では「造り」「お造り」と言う類です。守貞謾稿には、江戸にあって京坂にないもののひとつとして「刺身屋」(カツオ、マグロの刺身を出す店〉を上げているくらいです。

 京坂では、海の魚と川の魚を扱う業者が別々なのが基本でした。そのため、川魚専門店が数多くあったのです。
 特に、生洲と言えば、川魚を扱う料理屋とされていました。

 実は、先ほどの「花洛名勝図会」の絵にも、先斗町入口の両側の店には、「萬川魚」と書いた掛け行燈が下がっています。
 四条大橋のたもとの店は藤屋という屋号ですが、そこから先斗町を少々北に上がったところに、いけ吉がありました。

  先斗町 先斗町


 ガイドブックに登場する「いけ吉」

 この先斗町や西石垣あたりは、幕末でも料理屋が多いところでした。
 西石垣は、「さいせき」と読み、先斗町の通りの四条通以南を指します。

 「花洛名勝図会」の「西石垣」の項には、次のように書かれています。

 さる程に青楼(ちゃや)、貨食(りやうりや)檐(のき)を列ね、河海の鮮魚、諸鳥の煮売、魚類、精進の酒飯の饗応(もてなし)、饂飩(うどん)、蕎麦切(そばきり)、鮓(すし)、饅頭、菓子、木果(くだもの)其余新奇の食類店、日々夜々に増益して酒池肉林に勝りたり

 いろいろと珍しい食べ物を扱う店が出来て行って「酒池肉林に勝っている」なんて、すごいですね。
 さらに、

 就中(なかんづく)生洲の楼、東山一望にして月雪殊に絶景なり

 と、生洲についてふれ、鴨川に臨む店から東山の眺めが絶景だったと述べています。

 いけ吉は、江戸後期から明治時代のガイドブックにも、ちゃんと出て来ます。

 まず、天保2年(1831)の「商人買物独(ひとり)案内」。
 ここには、「御料理/西石垣四条上ル/生洲 いけ吉」と登場。

 また、明治初期の絵入り商工ガイド「都の魁」(1883)にも、大きく紹介されています。
 ここでの店名表記は「生洲 生吉楼」。
 絵によると、先斗町の通りの西側に2階建の大きな店舗を構えていて、2階の座敷からは確かに鴨川や東山が一望できそうです。ちなみに、「花洛名勝図会」の図も、よく見ると、通りの西側に店があったことが分かります。
 さらに、通りの東側(鴨川側)にも、平屋の座敷があって、川に張り出す床(ゆか)のようなものも造られています。また、河原にも出られるようになっていて、たいへん大きな料理屋だったようです。
 
 鴨河原
  かつて「いけ吉」があったあたり (四条大橋から望む)

 いや、生洲のことがおもしろくなってきて、すっかり大龍寺の手水鉢のことを忘れていました。

 いけ吉手水鉢

 先斗町のいけ吉があった場所から、約200m西に行ったところが大龍寺でした。つまり、ご近所だったわけです。
 大龍寺の烏須沙摩明王は、このあたりで芝居する役者や青楼の芸妓らも信心するなど、幅広く信仰を集めていました。いけ吉の主人らも、この明王の篤信者だったのかも知れません。

 落穂拾い的に気付き、調べた「いけ吉」ですが、なかなか愉しいので、もう一回、生洲について取り上げてみましょう。

 (この項、つづく)




 いけ吉跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る鍋屋町
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」、京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『近世風俗志(守貞謾稿)』岩波文庫、1996年
 「商人買物独案内」1831年(『新撰京都叢書』)
 「商工技術 都の魁』1883年(同上) 


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