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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【大学の窓】最終講義で考えた

大学の窓




キャンパス


 初体験「最終講義」

 この時期になると、各地の大学で「最終講義」というものが行われます。
 定年退職を迎える大学教授が、お名残の記念講義を行うものです。

 やり方は、大学や先生によってさまざまだと思います。
 通常授業の最終回ではなく、別に日程を組んで、いつもより大きな教室で学外の方の聴講も歓迎、というパターンもありますね。
 だいたい、最後に花束贈呈などが行われます。
 
 私はこれまで、テレビでそういう風景を見てきたのですが、今回、初めて実体験することになりました。
 そう、私の恩師が退職するため、最後の講義があったのです。

  キャンパス


 授業を聴講

 2016年1月某日。
 寒い朝、母校に赴き、図書館で少し調べものをした後、最終講義がある校舎に向かいました。
 この建物は私の在学中からあって、その2階は、今は亡くなったN先生やA先生、F先生をはじめ、多くの日本史・西洋史の授業を受けたところです。古文書学の大家N先生が、最初の授業2コマを使って「私の古文書遍歴」という話をされたのも、確かこの部屋でしたね。

 15分ほど前に教室に行くと、部屋の中には多くの学生がおり、顔見知りもいましたので、その横に座らせてもらいました。
 定刻の5分前に、先生がおいでになりました。ちょっと早くて、びっくり。
 ブザーがなると、すぐに授業が始まりました。

 最後の授業だけれど、特段いつもと違う話をするわけではないこと、卒業生が聞きに来てくれていること、など少々前置きをされてから、授業が始まりました。
 その授業を聞くのは、おそらく30年ぶりくらいになると思います。
 正直言って、当時のことは全然覚えていません(すみません…)
 今日の話は、戦国時代に来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスの著作でした。

  ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』

 フロイスが見た日本の社会と文化。その欧州との比較。
 彼の記述を読み上げ、先生のコメントが付されます。
 教室は一言の私語もなく、ただコツコツとペンでノートを取る音だけが響いていました。

 私自身、こうして大学の授業を聴くのは何十年ぶりなのでしょうか。
 正直、いいなぁ と思いました。
 若い人たちが熱心に学んでいる。今日ここで聴いたことはすぐには役立たないだろうけれど、それが血となり肉となって、いずれ学生たちの力になっていく。そう感じました。


 ラッキョウ型とコンペイトウ型

 90分の講義は淡々と進み、最後に総まとめが行われました。
 この授業は、日本文化の形成に及ぼした外来文化の影響、といったテーマのようで(初めて聴くもので…)、むかし人から聞いたことだがと前置きして、こう言われました。
 
 ラッキョウ型とコンペイトウ型。

 日本文化に影響を及ぼした外来文化をひとつずつはがして行くと、結局なにも残らない、というのが “ラッキョウ型”。ラッキョウを剥いたら、特に芯(しん)はないですよね。
 その逆に、なんらかの芯があって、そこにいろいろなものがくっついて日本文化が出来た、というのが “コンペイトウ型”。でも、その芯が日本文化の核というより、そうして大きくなっていったもの自体が日本文化だ、というわけです。

 正反対の考え方だけれど、どちらなのかな?

 そんなふうに考えながら、無事授業は終了。
 壇上で花束贈呈が行われました。

 この花束は、授業中、封筒を回して学生にカンパを募って贈呈しました。あとで中身を確認したら、百円玉はもちろん、五十円玉や十円玉が入っていて、とても微笑ましかったです(笑)

 終了後、院生らと一緒に、先生と昼食を共にしました。
 後日、先生を囲む会を開くことも本決まりとなり、とてもよかったと思います。

  椅子

 やっぱり、大学はいいですね。

 人が知的であることは、いいことだと思います。若い人たちが、その「知」をカラダの中で育てていき、将来、社会を築き、支えるために使ってくれる。そう思うと、基礎的な学力を応用しながら「考える力」を付けていく高等教育は、とても重要だと感じられます。

 最近、日本の大学の学費が余りに高額であることが問題になっています。あの国会ですら、その話題が出ていますね。
 国際的に見て、日本では学生自身の学費負担が極端に大きくなっていて、授業料は国公立で約54万円(年)、私立になると平均で100万円(年)を超えます(施設費を含む)。また、奨学金は、返す必要のない給付型は例外で、ほとんど貸与、つまり卒業後に返済するローンです。ある調査によると、年収400万円の家庭は1000万円の家庭の半分しか大学進学率がありません。
 
 大学教育の可能性をますます強く感じる昨今なのですが、運営についての情報ももっとオープンにしてもらえるといいかなと思っています。享受者(学生)にこれほど高い経済的負担を強いている限りは、政治家じゃないけれど “説明責任” があるような気がするのですね。

 そんな私も、また4月からは学生を教える立場。
 心して、よい授業を行うよう胆に銘じています。



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コメント

地名考古学

日本文化がラッキョウ型かコンペイトウ型かというのは興味深い議論ですが、私は人間が言葉を使ったのが文化の始まりで、日本語の起源は非常に古いという傍証があるので、日本文化は日本語という核を持ったコンペイトウ型だと考えています。

私が住む枚方市に渚(なぎさ)という地名が残っていますが、此処が波打ち際だったのは、数千年前の縄文海進期のことで、波打ち際を意味するナギサという言葉が縄文時代から使われていたと推定しています。

更に、枚方の語源も、白砂の入江を意味する白潟が白肩となり、比攞哿駄から枚方になったとすれば、シロ、カタと言った言葉も縄文時代から使われていたことになります。

又、上町台地も阿部乃嶋と万葉集に詠まれていますが、上町台地と我孫子丘陵が海峡を隔てていたのも縄文海進期で、上町台地が半島になっていた奈良時代にはアベノシマという地名だけが残っていたのでしょう。

その上町台地の南端と我孫子丘陵の間には、長居の浦という景勝地があって、歌にも詠まれていますが、歌が詠まれた平安時代には既に長居池となり、池から大阪湾に注ぐ細井川を渡る熊野街道が通じていました。

私は、長居の語源は、景色が良くて長居したかったからでは無く、縄文時代以前に上町台地と我孫子丘陵の間にあった南北に細長い海峡を長江の浦と称し、細江川が細井川になったように、長江が長居になったと推測しています。

このように、日本各地の地名と地形の変遷を比較すると、日本語の起源は縄文時代に遡り、日本文化の起源も縄文時代に遡れる根拠が幾つも見付かります。

極論すれば、私は豊島(千里丘陵)や鹿島なども、それが島だった時代にシマという言葉があり、そうなれば、日本語の起源はホモサピエンスが誕生した頃に遡る可能性すらあると考えています。

私は他国語に詳しくは無いですが、我々が「比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野 愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓」という歌を聞いて「何と切なく哀しい歌だな」と夫を失った人の哀しみを共有出来るように、千数百年前の人の言葉をそのまま聞いて感動出来るのは日本語だけでは無いでしょうか。

中国にも古い漢詩が残っていますが、昔と今では漢字の発音が全く異なってしまったので、唐代の漢詩を現代の中国人が耳で聞いても、ほとんど意味は判らないと思います。

長レスになりましたが、タイムマシンがあれば千数百年前の人々とラブレターの交換も出来る日本語は現存する世界最古の言葉で、日本文化の核も現存する文明中の最古のものであると考えている次第です。
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