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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

転用されて残っていた旧成徳小学校の校舎は、学校歴史博物館に移築されている





旧成徳小学校


 明治2年にできた番組小学校

 前回、高辻通室町西入るにある旧成徳小学校の校舎を紹介しました。
 その校舎は、戦前は尋常小学校で、戦後になって中学校に変わりました。

 成徳小学校の創立は、明治2年(1869)のことで、下京第九番組小学校として開校しました。
 京都では、全国に先駆けて明治2年に64の小学校が出来ました。市内中心部の小学校は、町組(ちょうぐみ。町の連合体)を再編成した番組(ばんぐみ)ごとに設置されました。これを番組小学校と呼びます。
 当初は「上京(下京)第○番組小学校」というように番号で呼ばれていたのですが、のちに平安京の条坊名など美称を付けた校名に変わっていきました。

 このあたりについては、以前書いた記事をご覧ください。
 記事は、こちら! ⇒ <今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮>


 残された明治初期の旧校舎

 成徳小学校は、明治2年の創立時は新町通四条下るにありました。
 6年後、室町通綾小路下るの白楽天町に移転します。ここは、その名の通り、祇園祭の白楽天山を出す町です。この校地に、明治8年(1875)から昭和6年(1931)まであったわけです。
 
 実は、この明治8年の学舎の一部が、いまも残されています。

 学校歴史博物館 学校歴史博物館

 下京区にある学校歴史博物館。この博物館は、もとの開智小学校を利用しています(開智小学校は下京第十一番組小学校でした)。写真の高麗門も、かつての校門です。
 門を入るとグラウンドがあり、正面の校舎(現・展示室)の入口に、古い木造建築が取り付けられています。

旧成徳小学校

 これが、明治8年(1875)に建てられた成徳小学校講堂の玄関です。

 旧成徳小学校
  旧成徳小学校講堂玄関(登録有形文化財)

 学校歴史博物館のウェブサイトによると、成徳小学校は明治8年12月に、教室、講堂、土蔵などを新築します。これは、明治初期の日本人が西洋建築を見よう見まねで模倣した擬洋風(ぎようふう)建築でした。
 
 この建物は、明治42年(1909)に改築されるのですが、その際、講堂は京都府城陽市寺田にある高岳寺に移築され、本堂として用いられました。
 高岳寺が本堂改修を計画されたため、平成18年(2006)に調査が行われました。その結果、棟札の記載などにより、高岳寺が成徳小学校の旧講堂を明治42年10月に買い取って移築し、本堂に転用したことが判明。当時の売却額は、1,200円だったといいます。
 平成19年、その車寄せ部分が学校歴史博物館に移築・保存されることになったのです。

 木造建築では、バラして移築することは普通に行われるので、成徳小学校の建物が城陽のお寺に移築されていても不思議ではないでしょう。擬洋風といいながらも、和様折衷的な趣きで、お寺にもフィットしたのでしょう。


 擬洋風の学舎

 移築されたのは車寄せの部分だけです。

 旧成徳小学校

 第一の特徴は、屋根のカーブですね。
 上の方にふくらみを持っている屋根。京都などで言うところの「起り(むくり)」です。

 旧成徳小学校

 ただ、これは町家の屋根に見られる起りというよりは、洋風のアーチのような屋根形を模したものと考えられるようです。

 川島智生氏は、同様の擬洋風校舎である龍池小学校講堂について、「正面車寄はアーチ形にも似た切妻の起り屋根となり、二階にはベランダが廻り、いずれの開口部の上部も扁平アーチの形状となる」(『近代京都における小学校建築』21ページ)と述べています。

 従来の建築だと、この部分は山形(△)をした千鳥破風などになるところでしょうが、それを洋風っぽくしたわけです。
 二階には、さらに軒唐破風を付ける例もあって、こういったものが当時の学校建築で流行したのでしょう。
 このスタイルの建築としては、明治12年(1879)築の梅逕(ばいけい)小学校の建物が長く移築利用されていたのですが、十数年前に惜しくも焼失してしまいました。


 珍しい細部意匠

 屋根瓦には「成徳」の文字。
 この瓦も擬洋風でしょうね。

  旧成徳小学校

 そして、柱なども珍しい印象があります。

  旧成徳小学校

 よく見ると、柱の上がすぼまっています。
 ギリシア神殿などに見られる “エンタシス” 風なのです。日本人が西洋の柱をまねると、なぜかこうなるんですね、いつも。

  旧成徳小学校

 柱の上部。
 柱頭のところが、まるで洗面器のように、美しい曲面になっています。トスカナ式、ドリス式あたりの模倣のよう。
 ところが、水平に延びている梁(はり)は、あくまでも日本建築のままなのです。

 旧成徳小学校
  柱は洋風、虹梁(水平部材)は伝統的なスタイル

 上の写真で分かるように、柱以外は、それまでの伝統的な工法のままなのです。

 柱の足元。

 旧成徳小学校

 礎盤、礎石と二重に石を置いて柱を乗せるスタイルも伝統的です。

 そして、もうひとつ移築されている部分は……

 旧成徳小学校

 玄関の階段ですね。
 140年前の小学生たちが上っていたと思うと、また別の感慨が湧いてきます。

 明治初期の学校建築というと、長野県松本市の開智学校(明治9年=1876竣工)などを思い出しますが、京都にも部分とは言え同時期の小学校建築が残っていることは嬉しい限りです。




 旧成徳小学校講堂玄関車寄(登録有形文化財)

 所在  京都市下京区御幸町通仏光寺下る橘町 
     京都市学校歴史博物館内
 見学  外観自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市学校歴史博物館ウェブサイト
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年



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コメント

貴重な棟札

前記事の船越様のコメントに対するコメントですが、石の判別は難しいですね。

私も、現物をたくさん見て経験を積みたいのですが、そうそう外出も出来ないのが現状です。

それにしても、学校歴史博物館があるだけでも、京都人の教育にかけた情熱が偲ばれますね。

7月24日の祇園祭還幸祭の時には四条寺町交差点が横断禁止になるので、迂回路として御幸町通は何度も通っているのですが、学校歴史博物館には気が付きませんでした。

京都の街を歩いていると、学校の歴史に就いてのポスターが多いことに気が付いていましたが、船越様の記事を拝読して、展示場の場所がはっきり判りました。

高岳寺の本堂が成徳小学校の講堂だったことは棟札で判明したとのことですが、そのような棟札も貴重な文化財ですね。

私が時々参拝している枚方市津田の春日神社の社殿も奈良の春日大社から移築されたように、木造建築はかなり離れた場所に移築されることがありますね。

学校は地域の象徴

ご愛読ありがとうございます。

京都の人にとっては、学校は地域の紐帯を示す大切な存在なのでしょうね。「お上」が設置したものではなく、自分たちで作ったもの、という…。実際、明治時代などには、学区が使用する部屋が学校内に置かれていました。

それだけに、中心部の休校になった学校も、建物はそのままで再活用されています。学校歴史博物館、マンガミュージアム、芸術センターなどですね。最近、市の方針が変化してきたようなので、少し心配ではありますが。

このあたりの歴史を、京都観光に来る方にも知っていただけると、もっと京都への理解が深まるように思っています。

     船越
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