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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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【新聞から】 ひらがなを書いた土器の発見






 “最古級”のひらがな  各紙2012年11月29日付

主要紙一面


 11月29日の各紙朝刊の一面に、「最古のひらがな」(読売)、「9世紀 最古級平仮名」(毎日)、「最古級ひらがな 土器に」(朝日)などの見出しが躍りました。社会面に解説を載せる社も多く、ニュースヴァリューとしての高さが感じられます。

 以下、毎日新聞(榊原雅晴記者)の記事から引用します。


 右大臣も務めた平安時代前期の有力貴族、藤原良相[よしみ](813~67)の邸宅跡(京都市中京区)から、最古級の平仮名が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日発表した。平仮名はこれまで、9世紀中ごろから古今和歌集が編さんされた頃(905年)に完成したとされてきたが、わずかな資料しかなく、今回の発見は成立過程の空白を埋める画期的なものという。


 読売新聞は、「庭の池(20m四方)に張り出した「釣殿」とみられる建物跡の周囲から、9世紀半ばから後半にかけての特徴を持つ皿や高坏など墨書土器の破片約90点が見つかり、うち20点で計約150文字の平仮名が書かれているのを確認した」と伝えています。

 発掘は、昨年、JR二条駅近くの「佛教大学二条西キャンパス」の建設に先立ち行われました。
 この場所は、平安時代(9世紀なかば)に右大臣を務めた公卿・藤原良相(よしみ)の邸宅跡と考えられるところでした。良相は、藤原冬嗣の子息で、藤原良房の弟ですから、トップクラスの公卿です。邸は「西京三条第(てい)」「西京第」、あるいは「百花亭」とも呼ばれ、右京三条一坊六町という地点にあったとされています。今回の発掘で、「三条院釣殿高坏」と墨書された土器などが見つかり、この場所が良相邸であったことが確からしいと考えられるに至りました。

 発掘によって、邸内に、南北28m×東西18m、中の島を持った大きな池があったことがわかりました。その西岸には、池に突き出すような形の建物があったことがうかがえ、これが記事に見える「釣殿」というわけです。
 良相は右大臣まで昇りつめたのですが、応天門の変(866年)で「失脚」し、翌年没します。そのあと、この邸宅がどうなったかは不明といいます。池の遺構の西岸からは、土器はもとより、輸入陶磁器、緑釉陶器、硯、碁石、櫛、軸端(掛軸の一部)、銭貨などが見つかり、なかには仏器と考えられるものもあったそうで、総量はコンテナ200箱分に及びました。
 ふつうは庭の池に大量の器物を捨てたりしませんから、この遺物は邸内にあった品々が一度に廃棄されたことを推測させます。つまり、良相の没後、この邸がにわかに閉鎖された可能性を思わせます。
 エリートで右大臣という高い地位にいた良相は、文人肌だったといわれています。兄・良房との争いで実質上その地位を追われ、失意のうちに亡くなったとは、高位の貴族も楽ではありません。

 良相の娘・多美子は、時の天皇・清和天皇の女御になっていました。そのため、貞観8年(866)、天皇はこの邸に行幸し、花見の宴が行われたのでした(伊勢物語にいう「三条の大行幸」)。さぞかし桜も美しく、池の眺めもよい庭園だったのでしょう。

 今回のニュースは「ひらがな」の発見でしたが、平安貴族の優雅と悲哀に思いを致す報道でもありました。
 

 *発掘の内容は、京都市埋蔵文化財研究所ほか「平安京右京三条一坊六町(第3調査区)現地説明会資料」(2011年12月10日)によりました。



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