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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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イギリス人が見た100年前の京都 - ポンティング『英国人写真家の見た明治日本』(1)

京都本





英国人写真家の見た明治日本


 南極探検した写真家

 1910年から12年にかけて行われたスコット大佐の第二次南極探検に随行し、記録写真を撮り、映画「スコットの南極探検隊」を撮影したハーバート・ジョージ・ポンティング(1870-1935)。
 世界を股にかけた写真家だった彼が、探検の直前にイギリスで出版した書物が本書で、原題は In Lotus-Land Japan と名付けられています。ロータスランドというのは、ロータス(はす)を食べる人達が住む国のことで、はすを食べると気持ち良くなって全てを忘れて夢見心地になるという、ギリシアの伝説に登場する国、いわば桃源郷です。ポンティングにとって、日本とはそれほど心地よい国だったのでしょう。
 ポンティングは、明治34年(1901)頃から39年(1906)頃までの間、何度か来日し、その思い出をまとめ写真を収録したのが本書です。

 この訳書は、現在では講談社学術文庫(長岡祥三訳)で手軽に読むことができます。


 温和で親切な日本人

 ポンティングが「最も優美で心を奪われる都」と紹介するのが京都です。
 始めて京都駅に降り立ち、人力車で都ホテルに向かうポンティング。しばらく進むと、彼の眼を喜ばす光景が現れました。

 その通りではどの店も骨董屋のように見えたが、群衆が大勢群がっているので、車夫が進むのに苦労するほどであった。ちょうどその近くの寺で、大きなお祭りが催されている最中だったのだ。大通りには何百という屋台が立ち並んで、あらゆる種類の品物を売っていた。屋台をもっていない商人もかなりいて、地面に品物を並べて売っていた。
 (中略)
 これほど大勢の人で混雑して、そのうえ乗り物まで通るような道路わきで、優美で壊れやすいこんな品物を、屋台に並べたり、地面の上にさえ並べたりできるのは、日本人が生来温和な国民だという証拠である。もし英国で我が同胞にこれほどの信頼が寄せられたとしたら、その結果がどうなるか考えるだけでも身震いがする。
 後で分かったことだが、その時の車夫は、私が初めて京都へ来たことを見抜き、特別に少しばかり回り道をして、新来者に綺麗な見世物を見せて喜ばせようと、わざわざ混む大通りを通ってくれたのであった。ロンドンで馬車の馭者が賃金をもらうお礼に、これほど濃やかな心遣いを見せることが考えられるだろうか? これと同じようなちょっとした親切と思いやりを、日本で旅行した三年の間に、何度となく経験したことが懐かしく想い出される。(40-41ページ)

 日本人のやさしい心に触れ、ポンティングは日本びいきになっていくのでした。


 夜の清水寺

 蹴上の都ホテルに泊まった彼は、夕刻、間近にある知恩院の「大きな鐘の深い音」を聴きます。撞かれてから音が静まるまで、たっぷり1分もかかる鐘の音を。
 そして、高さ10フィート8インチ[約3.3m]、直径9フィート[約2.8m]、重さ74トンと、鐘の巨大さを紹介し、数十人の男達が鐘を撞くさまを珍しそうに描写しています。

知恩院の大鐘
 現在の知恩院の大鐘楼 (重要文化財)

 興味深いのは、清水寺を訪れるくだりです。
 清水寺の参道や建物や仏像、そして夕日が沈む美しさに魅せられたポンティングは、夜の清水寺訪問を試みます。

 しかし、月夜の清水寺はなお一層美しい。ある満月の晩に、日本の友人とその小さい娘、お君さんを説き伏せて、一緒に寺へ行ったことがある。日本人は夜こういう場所に行くことを好まない。というのは、彼らは想像力が強く迷信深いので、超自然的なことを信じている人が多いからである。
 (中略)
 二つ目の門の入り口のところに、こわい顔をした龍の口から銀色の水がほとばしり出ているが、そこで友人がこれ以上進まないで、ここで月見を楽しもうと遠慮がちに提案した。しかし、私は全部見ようと決心していたので、もっと先へ進むことを主張した。暗い入り口に入ると、床の軋む音が壁や天井に無数に反響した。お君さんは恐ろしさで爪先立って歩いていたが、彼女の小さな頭の中は、きっと知っているかぎりのたくさんの化け物やおとぎ話で一杯だったのだろう。
 (中略)
 辺りの木よりはるかに高く張り出した舞台の上に立って、「芸術家の都」のまたたく灯を見ていると、月の光が雲を銀色に縁取り、周りの欄干や厚く葺いた切り妻屋根の上に、柔らかな光と移ろいやすい影を投げかけていた。下の方にある小さな滝の優しい水音と、こおろぎの鳴き声のほかには、夜のしじまを破る物音は何一つ聞こえなかった。そのうち突然に一羽の夜鳴鶯(ナイチンゲール)がすぐ近くの梢で鳴き始めた。小さな喉から流れるメロディーは、トレモロを交えたすばらしい狂想曲(ラプソディー)で、一羽が鳴きやむと近くの木から新たな囀りが始まった。こうして代わる代わるに鳴く鳥の声で、古い寺とあたりの森は華やかな音楽で一杯になった。小さなお君さんはこの思いがけない出来事に大喜びして、手を叩いて叫んだ。「鳥が皆で歌い合っているのよ。なんてすてきなのでしょう。ここへ来てほんとうによかったわ」(51-53ページ)

 詩的な音の風景です。とても美しく囀るので、ナイチンゲールは欧州では大変好まれた鳥でした。
 幾つかはわかりませんが、目に見えぬお化けにおののく「小さなお君さん」が、恋の歌を唄うナイチンゲールに大喜びしたとは、本当に素敵な情景ですね。

 それにしても、明治時代は夜間でも清水寺に立ち入れたとは。いまは夏の夜間拝観くらいですが、こういう大らかさもいいものです。

清水寺
 現在の清水寺。参詣者が絶えない


 三十三間堂の観音像

 ポンティングは、清水寺に続いて三十三間堂を取り上げます。ここは、彼に言わせれば「聖なる寺院というよりも大きな納屋のような感じ」ということです。
 いまも拝観することができる千体千手観音像について、彼の証言に耳を傾けてみましょう。

 ひな段式の段に並んだこれらの鍍金の観音像は、金ぴかで雑多な寄せ集めである。その密集した列は百ヤードの長さで大部隊を構成しており、広い建物の端から端までを占めている。像の大部分は非常に古いもので、絶えず修理されている。広い本殿の裏側に工房があって、一人の木彫り職人が坐っている。彼の一生の仕事は、森の木のように立ち並んだ聖像から、枝が落ちるように絶えず壊れて落ちる腕や手を、彫ったり直したりすることなのだ。何故なら観音はたくさんの手を持つ神で、一ダースより少ない手を持つ像はほとんどないからだ。我々が像の前を進んでゆくと、鼠が床を走り廻り、像の群れの中に隠れてしまった。建物の裏手まで来ると、坐っていた老僧に呼び止められ、見物料として喜捨を求められた。(56ページ)

 20世紀初頭の三十三間堂の光景。
 ポンティングは本数を数えなかったようですが、三十三間堂の千手観音立像には、それぞれ42本の手が付いています。すると堂内の手の総数も万単位! になるわけで、確かにポロポロとはずれてくるのも致し方なかったのかも知れません。そして、それを裏の工房で直しているのが驚き。さらに、修理代なのでしょうか、見物料の志納を迫られたのもおもしろいですね。

 ある日、この寺の中で急に角を曲がると、一人の外国人の旅行者が誰も見ていないと思って、観音像の手をわざと一本折ってポケットに入れるのを目撃した。何の役にも立たない記念品の蒐集欲から、野蛮な行為をする人が時々いるのは不思議なことだ。(56ページ)

 このあと、旅館の備品を盗む不心得な外国人旅行者のことを紹介し、「このような盗みが犯されれば、外国人が疑いの目を持って見られることがあっても、驚くには当たらない」と述べています。
 いま三十三間堂では、像に近づけないように遠くに柵が設けられていますが、昔はそうではなかったようです。江戸時代(慶安年間)の修理で仏像の前には金剛柵が作られたそうですが、のちにはその前を通していたような気もします。また他の史料には、観音像の手には無数の数珠が掛けられていた、とも記されています(北尾鐐之助『新京都散歩』創元社、昭和15年)。それもひとつの信仰の形ですが、腕を折られては観音さまもたまりません。



 書 名:『英国人写真家が見た明治日本 この世の楽園・日本』
 著 者:H.G.ポンティング
 訳 者:長岡祥三
 出版社:講談社(講談社学術文庫1710)
 刊行年:2005年



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