FC2ブログ
09 | 2019/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

もうすぐ、さよなら? 古い映画館の名残り、2つのビル





松竹第三ビル


 名残りも消える新京極の映画館

 この1年ほど、私の中では新京極が関心の高い地域になっています。
 そのため、四条や河原町方面に行くことがあると、用事もないのに新京極や寺町を歩いてみます。それでも、気付いてみると、ふた月三月と足を運んでいなかったということがよくあります。

 10月半ば、久々に東京から友人が来ることになって、食事に行く前に少し四条河原町界隈をぶらついたのでした。
 先斗町、河原町、裏寺町、第二京極……
 レトロな映画館建築・旧八千代館(現・WEGO)を見て、美松劇場だった今は古着屋になったビルを眺め、さて新京極に抜けようかというとき……

 こんな光景が目に飛び込んできました。

  松竹第三ビル 2015年10月19日撮影

 四条新京極上る東側二筋目の角にあるビル。
 1階にカジュアルショップ・ライトオンが入っており、上階にはダイニング・バーがあったビル。
 ところが、今日は全てのテナントが退店しています。

 いやな予感がしました。

 調べてみると、ライトオンは2015年8月9日に閉店しており、私は2か月余りもこのことに気付いていなかったことになります。


 かつては松竹の映画館だった
 
 このビルは、京都松竹第三ビルと言い、映画・歌舞伎興行で知られる松竹の所有です。
 いつものように古い記憶をたどれば、私が学生の頃、ここはSY松竹京映という映画館でした。
 当時は、新京極にもたくさんの映画館があり、数えてみるとおよそ10ばかりの館があって(スクリーン数にすると、もう少し多くなります)、新作旧作の邦画、洋画、成人映画と、あらゆる映画が見られました。

 SY松竹は、四条通から新京極に入ると、すぐ右手に見えた映画館で、洋画を上映していたと思います。学生時代の私は、結構マニアックな、あるいは芸術的なヨーロッパ映画を好み、いわゆるハリウッド映画はほとんど見ていない(というか敬遠していた)のでした。そのため、SY松竹に入った記憶がないのです。もちろん、入っていたかも知れないけれど、忘れただけなのでしょうが。

 こちらは、1年前(2014年)の秋の風景。

 松竹第三ビル
  昨秋の京都松竹第三ビル (2014年11月27日撮影)

 ライトオンに入ると、映画館だったらしい広い空間が広がっていました。
 そして、外壁には松竹マーク。

 松竹第三ビル

 よく見ると、ネオンが仕込んであるようですね。
 上部に松、下部に竹をデザインしたお馴染みのマークです。

 改めて、この場所の歴史を振り返っておきましょう。
 江戸時代、ここには金蓮寺(こんれんじ)という大きなお寺があり、四条通にあったことから俗に「四条道場」と呼ばれました。
 大勢の人が集まるので芝居が行われ、寺の通称にちなんで、道場の芝居と言われます。
 明治維新後、新京極が開かれてからも続き、明治25年(1892)からは坂井座、明治33年(1900)には歌舞伎座となりました。東京にも同名の劇場がありますが、京都にも歌舞伎座があったのです。この名称での営業は、昭和11年(1936)まで続きます。
 
 歌舞伎座は、数ある京都の劇場の中でも、格が高いもののひとつでした。
 いわゆるビッグネームの歌舞伎俳優は、一流の劇場にしか出演しません。それが明治時代の京都では、南座、明治座、京都座と、この歌舞伎座だったのです。
 ところが、明治の終りに、歌舞伎座は活動写真館(映画館)に転換してしまうのでした。
 いま細かいところまで調べていないのですが、明治45年(1912)1月の山本緑波「関西十二大劇場」には、次のように記されています。

 併(しか)し時代の変遷といふものは怖しいもので、[大阪の]朝日座と[京都の]歌舞伎座とは先々月から活動写真の常設館に成つて了(しま)つた。再び此(この)二座で芝居を興行するのを見らるゝ日は何時であらうか、
 
 上の文によると、明治44年(1911)末頃、活動写真館に転換したことになります。他のものにも同様に書かれているので、歌舞伎をやる歌舞伎座としては明治末におしまいになった、ということでしょう。

 別の資料、浜野松風「新京極記」(大正2年=1913)には、次のように紹介されています。若干不確かな部分もあるようですが、引用しておきましょう。

 ■歌舞伎座
 四条通よりして北する事数十歩、東側に宏壮なる西洋建の大劇場、今は活動写真の常設館となつて、京都随一の活動写真館と称へられて居る、が劇場としては中々に古い歴史を有て居るもので、維新頃には四条道場の芝居と称して南北の芝居と拮抗して居たものである、
 近年まで大劇場として我當(今の仁左)橘三郎、延二郎等が殆んど定打の様に出演して居たものである、
 阪井座(今の明治座)が明治廿四年に常盤座と改まつた時、此阪井座の座主であつた西尾しかが此道場の芝居を買取つて、従来道場といつたのを阪井座と改め、荒五郎、七賀之助、多見之助、菊三郎、時蔵(今の歌六)種太郎、仙昇、愛之助、璃寛、徳三郎などの大芝居をかけたものだ、
 夫(それ)が三十三年に大浦新太郎の手に入て彼の祇園館を此処に移し、名も歌舞伎座と改め、大谷竹次郎、山川政吉等がその経営に任じたが、三十五年の秋遂に大谷白井兄弟の手に帰して了(しま)つた。
 (中略)
 三四年前活動写真流行に連れ、大阪道頓堀の大劇場朝日座が活動小屋に変つたと同じ様に、活動写真の常設館となり、本年七月から向ふ一ケ年間日本活動写真会社が小屋を借受けて経営に任ずる事になつた。


 「大谷白井兄弟」というのは、松竹を経営する大谷竹次郎・白井松次郎のことです。また、「日本活動写真会社」というのは、いわゆる日活(にっかつ)ですね。つまり、オーナーは松竹だけれど運営は日活がレンタルでやっている、ということのようです。

 そんなわけで、この場所は明治後期から百年以上にわたって、松竹が持ち続けてきた由緒ある土地というわけです。


 もうひとつのビルは……

 映画館ゆかりの場所が消えていく、ということでは、同じ新京極を上がって、新京極六角の角(誓願寺前)も同様です。
 ここには、松竹第二ビルという建物があり、私の学生時代は京都ピカデリー劇場でした。
 古い記憶をたどれば、ここで最後に見た映画は(本当に最後かは別にして)、牧瀬里穂主演の「幕末純情伝」でした。調べると、1991年公開といいます。資料では、ピカデリー劇場は2001年11月まで営業していたそうなので、その10年前。うーん、それから10年間行っていないとも思えませんが、記憶がありません。

 ピカデリー跡
  旧京都ピカデリー劇場取り壊し(2015年10月13日撮影)

 現在、取り壊し工事はほぼ終了という感じです。
 下は、今夏の様子。

 ピカデリー跡
  2015年7月9日撮影

 昨2014年7月末、グルメシティが閉店となってから、何度この場所に立って、ビルを見上げたでしょうか。
 ついにその姿もなくなったわけです。

 ピカデリー跡
  新京極側の囲い (2015年10月13日撮影)

 ピカデリー跡

 工事現場にある表示では「(仮称)京都新京極六角ホテル計画」とあります。報道によると、2017年開業をめざして藤田観光がここにホテルを建てるとのこと。
 表示板の右には、松竹120周年のマークが。

 もともとこの場所は、誓願寺という大きなお寺の境内で、人が集まるため見世物興行などが行われ、明治維新後は、夷谷座という芝居小屋が置かれました。明治9年(1876)のことと言います。
 新京極でも歴史のある劇場のひとつで、最初は身振り狂言のような簡単な芝居から始まったようですが、明治末から大正時代になると喜劇などをよく上演する庶民的な劇場になったようです。

 このふたつの劇場は、松竹のルーツと言っていい場所でしょう。松竹では、今年を120周年と位置付けていますが、それは兄弟が明治28年(1895)に坂井座などの経営を手掛けてから120年ということなのです。

 以上については、これまでも書いていますので、ぜひご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <双子の兄弟が、新時代の歌舞伎を切り開いた - 新京極は松竹あけぼのの地 ->
 もうひとつ! ⇒ <新京極・旧ピカデリー劇場の場所には、かつて夷谷座があった>

 それにしても、懐かしい建物がなくなっていくのは寂しいことです。
 時勢が移り変わり、段々こういうことが増えてきました。やむをえないことだと思うのですが、少しだけ諦め切れない気持ちも残るのでした。




 京都松竹第三ビル (歌舞伎座跡、SY松竹京映跡)

 所在  京都市中京区四条通新京極上る中之町
 見学  外観自由
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 山本緑波「関西十二大劇場」(「演芸画報」明治45年1月号所収)
 浜野松風「新京極記」(「演芸画報」大正2年11月号所収)
 『松竹関西演劇史』松竹編纂部、1941年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻、八木書店、2005年


スポンサーサイト



コメント

昔の記憶

今でこそ私も先斗町や河原町などを散策していますが、若い頃は半ドンを利用して、会社帰りに京都の美術館に行っても、夕飯前には帰宅していたので、古い京都の繁華街は知らないのです。

その後、20年ほど前から京都の祭礼を撮影しに行くようになり、京都の街の様子も徐々に判るようになりましたが、銀塩カメラの時代は京都の街並みを撮影する余裕も無く、祭礼行事の背景としての街並みの写真しか持っていません。

しかし、デジカメの時代になった現在では、意識的に京都の街並みを撮影して画像を保存しています。

このように、古い京都の街並みの記憶が少ない私ですが、岡崎公園にある美術館へは足繁く通っていたので、京阪三条駅周辺の記憶は残っていて、線路際に咲いていた椿や路面を走る京津線の電車のことは覚えています。

大阪も京都と同様に、街並みの変容は都市生活の利便向上に繋がりますが、私も懐かしい建物がなくなっていくのは寂しいと感じています。

扨、今日よりコテハンをSkullcrusher707に统一し、本ブログへは当分の間「こってり改めSkullcrusher707で投稿致します。

Skullcrusherすなわち頭蓋骨砕きとは上腕三頭筋を鍛える筋トレ種目だが、「骸骨」という仇名がある狡猾な地震予知詐欺師を叩く為にTwitterに登録したアカウントですが、既に同名のアカウントが登録されていたので、無意味な数字を付け足した次第です。

昔の写真は貴重ですね

ご愛読ありがとうございます。

確かに、ふつうの街の風景は余り撮影しないものですね。
写真史でも、欧米では街の風景を撮る写真家も多くて、パリを撮ったアジェや、最近映画になって話題のヴィヴィアン・マイヤーなど、街路や普通の人々を撮ってきた歴史があります。
京都の古い街頭写真もなくはないのですが、狭い路地の風景や人々の日常の暮らしとなると、やはり戦後の撮影でしょうか。戦前でそのような写真も見たいものです。

     船越




承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
非公開コメント