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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構





大徳寺唐門


 もう少し近寄って見たい大徳寺

 京都の禅刹の代表的存在、大徳寺は紫野にあります。私は、大徳寺の隣というか中にある高校に通っていたので、このあたりが懐かしい……というより、あまりに昔のことで懐かしさも通り過ぎているくらい。高校時代は全然関心がなかったので、立派な七堂伽藍や塔頭もほとんど記憶にありません。

 いま改めて大徳寺に行ってみると、国宝・重文の優れた建築が数多くあるのに、その多くが柵に囲まれて近くで見られないというフラストレーション的様相を呈しています。今回取り上げる唐門(国宝)も、方丈の特別拝観では内側から見られるものの、かなり遠目で、誰もが見たいと思う彫刻はほとんど見えません。修行の場ということは重々承知していながらも、社会との距離の取り方が「独特」であると慨嘆してしまいます。


 唐門は、元は勅使門の西に

 冒頭の写真は、『京都名勝誌』(1928年)掲載のものです。右側の切妻造、軒唐破風を付けた門が唐門です。当時の言い方をすれば「特別保護建造物」。そのせいでしょうか、門前に柵を作って堅く閉ざしています。
 後方に見える瓦葺の大屋根は、方丈(国宝)です。寛永12年(1635)の建築で、開山大燈国師(宗峰妙超)の塔所である雲門庵を中心に構成されています。
 その左手(写真には写っていません)が、庫裡。炊事場+寺務所です。なかなか迫力もあり、禅寺の日常をイメージできるリアルな空間です。

 唐門は、その方丈の正面入口として建っています。
 しかし、明治中期までは、この位置には別の門がありました。「明智門」と言い、当寺に寄進した明智光秀が本能寺の変で没したことを弔うために造られた門といいます。明智門は、明治19年(1886)、南禅寺の金地院に譲渡され(現存)、その場所に唐門が移築されたのです。
 唐門の元あった位置は、勅使門の西側あたりでした。

大徳寺勅使門 勅使門(重文)

 この写真の左奥あたりになります。
 慶長の棟札によると、越後の武将・村上周防守頼勝が天叔宗眼(129世住持)に寄進したもので、慶長8年(1603)、塔頭・興臨院の総門とされたといいます。

大徳寺唐門旧位置図

 この地図の赤丸の部分、いまの興臨院・瑞峯院・大慈院へ入っていく小道の入口付近です。
 「都名所図会」にもこの位置に描かれ、「日くらしの門」と唐門の別称(日暮門)が記載されています。


 装飾の豊かさに驚嘆!

 現在、一般の拝観では唐門の優れた彫刻を子細に見ることは叶いません。それでも、錺(かざり)金具の丁寧さ、贅沢さには驚かされます。
 垂木の先端には、一々「八双金物」が付けてあり、その金物に鋲や菊文の錺りが打ってあります。また、破風や軒先にも菊文や五三桐文がふんだんに打ってあります。これらを見ているだけでも、他の門を超越した豊饒さがうかがえます。

 彫刻は、方丈の縁から眺めると、冠木に彫られた獅子(唐獅子牡丹)など限られたものしか見えません。ここでは、まず藤原義一『京阪沿線の古建築』(1936年)掲載写真で2点紹介しましょう。

大徳寺唐門

 これは、妻(東側)にある麒麟(雲に麒麟)です。現地では、方丈の縁の東端に座れば、かろうじて麒麟のお尻だけ見えます(笑)

大徳寺唐門

 反対側(西側)の妻には、鯉の滝登り。結構有名だけれど、方丈からは見えません。厚さ3寸(約9cm)の一枚板から彫り出したものです。
 キリンもコイも、ちょっぴり“へたうま”感もありますが、実際には彩色が施されています。

 さらに、天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』(1944年)より。

大徳寺唐門

 正面の頭貫にある鯉です。写真の左端(木鼻)には鯉の頭を、右方には鯉の尾と波を彫っています。せっかくですから、天沼博士のコメントを引用しておきましょう(適宜改行)。

 大徳寺は有名な大燈国師の開基で、嘗ては五山の上位であったし、恐らく知らない人はあるまい。その多くの建築のうちの方丈の前にある唐門の木鼻は「魚」なので名高い。此門は秀吉造営の聚楽第の遺構と伝へ、随所に豪華な彫刻を充填してゐる。
 今ここに図示したのは正面控柱上頭貫の木鼻で、37[図版番号]に見る通り「波に魚」である。頭貫には全体に波をほり、粽付の円い控柱に挿込まれてゐる辺に魚の尾を薄肉に刻み、木鼻としては同じ魚の頭に波を少し添えてある。だから頭は謂はゆる丸彫で、尾の方は頭貫の側面に極めて薄肉彫にしてある。
 魚が泳いでゐるうち木に挟まれ、抜け出さうとして全力を込めて胸鰭を動かし、尾を左右に振つて踠[もが]いてゐる様に見えなくもない様だが、夫は見方がよくないので、洵[まこと]に奇想天外の意匠、平凡なる工人の企及し得ざるところ。 (天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』375ページより)

 天沼博士は、まじめなのか不まじめなのか、よくわかりません。
 魚が泳いでいるうちに木に挟まれ、抜け出そうとしてムナビレを動かして、尾を振ってもがいているように見えなくもない……なんて、「それは見方がよくない」とフォローしたって、博士がそう見えたに決まっています。ここらにも、この門の“へたうま”が見て取れて愉しいものです。

大徳寺唐門
大正時代の唐門(『日本古建築菁華』上冊、1919年より)


 修理で見つかった「聚楽第」の証拠とは……

 唐門は、2003年まで修理工事を行っていました。これまで聚楽第の遺構と言い伝えられてきましたが、物証があったわけではありません。ところが修理工事で、ひとつの発見があったのです。

 それは、西側の妻の破風に打ってあった菊文の金具です。この金具の釘を外した下から「天正」の刻銘が発見されたのです。
 天正(1573-1592)は年号を示しており、聚楽第は天正14年・15年に造営されていますから、唐門が聚楽第の門である可能性が高まってきました。
 また、墨書から、完成した当初は南向きに建っていたこともわかりました。

 ひとつの刻銘によって、解明が近付いてきた歴史の謎。ますます興味が尽きません。


銘酒聚楽第 銘酒「聚楽第」(佐々木酒造)




 大徳寺

 *所在 京都市北区紫野大徳寺町
 *拝観 境内自由  ※塔頭などは別途。唐門は特別拝観で(有料)
 *交通 市バス大徳寺前下車、すぐ



 【参考文献】
 『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』京都府、2003年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 岩井武俊編『日本古建築菁華』上冊、便利堂コロタイプ印刷所、1919年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年



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Re: 大徳寺唐門について引用させて頂きました

  梅のコージさま

 ブログご覧いただき、ありがとうございます。
 「3D京都」拝見いたしました。なかなか楽しく、詳細な復元に感心しております。
 
 私のブログの引用については全く問題なく、むしろありがたく思っております。御礼申し上げます。

 大徳寺唐門については、すでにご覧になっているかも知れませんが、『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』に、詳細な図面や写真が掲載されていたと思います。復元のご参考になるかと思われます。

 取り急ぎ、お返事と御礼まで。

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