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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

千本中立売には、かつてシネマパラダイス “西陣京極” があった(その2)





千本日活


 西陣の範囲と中心

 引き続き、西陣の劇場と映画館のことを書いていきます。
 前回、「西陣、西陣」と、余りにも漠然と使ってきたのですが、改めて西陣について説明してから、本題に入ることにしましょう。

 西陣という地域は、もともと応仁の乱の際、西軍(山名宗全方)が陣地を置いたところから「西陣」と呼ばれるようになりました。
 「元禄覚書」(1700-1703年)には、西陣の範囲は「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺・今宮旅所限り、南は一条限」とされています(地・17)。

 つまり、北限は現在の北大路通あたりということや、東西の堀川通から七本松通というのも、現在の私達の感覚と合致するでしょう。
 ところが、南限の一条通というのが、少し北寄りではないのか? という印象も抱きます。史料は元禄時代の話なので、今ではもう少し南まで含んでもよいような気もします。

 一方、西陣の織屋さんの中心地とされる糸屋町八町は、大宮今出川の周辺に拡がっています。
 かつて大宮通と今出川通の交差点は、「千両の辻(千両が辻)」と呼ばれました。私の学生時代でも、四つ角には銀行が立ち並んでいたものです。


 千本一条から先には……

 前回、一条通を下がったところにあった長久亭跡まで紹介しました。
 その南隣にも、かつて劇場がありました。大正8年(1919)から、大黒座が置かれ、昭和になると映画館・西陣キネマとして観客を迎えました(名称には細かな変遷があります)。
 昭和59年(1984)に閉館し、その後はパチンコ店や駐車場になっていました。

 私が訪ねた日は……

 西陣キネマ跡

 なんと、食品スーパー・デイリーカナート イズミヤのオープン日でした!
 開店後まだ2時間ほどでしたから、安売り目当ての来店客と、警備員、店の人などで、ごった返していました。
 通りの向い側から写真を撮っていると、横で新聞社の人も写真を撮っていました(笑) 目的は全然違うのですがね。

 上の写真をよく見ると、イズミヤの右側に路地があり、黒っぽいゲートが設けられていることが分かります。
 これから、この中に入って行きましょう。

 西陣キネマ跡

 ゲートをくぐり、中へ入ったところ。
 左(北)はイズミヤになりましたが、右手には提灯をぶらさげた飲食店が並んでいます。明らかに、かつての路地裏の表情です。
 西陣キネマの玄関は、この小路に面していたのだと思います。

 さらに進むと……

 西陣京極

 右側には庶民的な食堂などがあって、左は民家ですが……
 確かこの左側にも、かつて映画館があったのです。
 古くは明治末、寄席・福の家として始まり、昭和になって映画の帝国館に転換。戦後は西陣大映などと称した映画館。最後は、シネフレンズ西陣という館名で、平成17年(2005)まで営業していました。
 私が訪れた30年ほど前、この路地の北側に成人映画を上映する館があったことを覚えています。それが、当時の西陣大映だったのです。いま訪れた印象より、もう少し狭い路地であるような感じがしました。今回ここに立って、どこにあったかなぁ、と見回して、なかなか分かりませんでした。やっぱりこの住宅が建っているところしか考えられないので、たぶんそこに西陣大映があったのでしょう。まったく痕跡はありません。

 かつて、この狭い路地が入り組んだ場所が「西陣京極」でした。

 西陣京極

 広報板の貼り紙に「西陣京極町」とあるでしょう。もちろん、正式にはそのような町名はなく、通称名です。
 けれども、ここは、やはり西陣京極なのでした。

 西陣京極 街路灯


 西陣京極をめぐる

 西陣京極は、北の一条通、南の中立売通の間に、十字形の狭い街路によって形成されています。
 いま私は、西側の千本通から入って行ったのでした。

 十字の交点から、東を見た写真。

 西陣京極
  西陣京極

 両側に飲み屋が並んで、雰囲気を残しています。

  スナック黄昏(たそがれ)、とうふ料理やっこ……

 店名も、おのずと哀愁を帯びているように感じられます。

  西陣京極
  十字の東端から西を見る

 十字の北東角のあたりには、明治43年(1910)に開業した芝居小屋・京極座があって、昭和46年(1971)まで西陣東映として営業していました。
 また、その北には、同じ年に朝日座が置かれ、昭和62年(1987)まで千中ミュージックというストリップ劇場でした。30年前には、まだあったはずですが、なぜか記憶にありません。

 西陣京極
  京極座跡 現在は料飲組合事務所や駐車場になっている


 明治末、西陣京極のにぎわい

 京極座が出来た頃、そこを訪れた新聞記者のレポートがあるので、それを紹介してみましょう。
 明治45年(1912)1月の記事です(句読点は適宜補いました)。

 [一月]十九日の午後八時、中立売千本で電車を降りると、繽紛たる雪は万象を染めて満目暟々たる光景で、行人の影も暫時絶える。美しい灯の流るゝ狭い西陣京極を東すると、藪入の終ひの日とて此辺のミニートスコープや空気銃屋は丁稚[でっち]や織子[おへこ]で充溢、寿座の前は通行も出来ぬ程の人集り、何事かと覗いて見ると、大木戸に一人の俳優が扮装のまゝ木戸番と是れ見よがしに雑談してるのだ。流石[さすが]は西陣宗、是れある哉と感服し、更に東して正面の京極座を潜つた。(京都日出新聞 明治45年1月21日付) 
 
 記者は、私同様に、千本通から西陣京極に入ります。「寿座」の記述があるので、どうやら十字の左辺のどこかに、この芝居小屋があったようです。
 その前で、わざと衣裳を着たままの俳優が出てきて、客の気を引いている、というのです。
 他にも、「ミニートスコープ」や空気銃の店があって、商家の丁稚どんや、西陣の織子さん(「おへこ」と言った)が群がって遊んでいます。ちょうど藪入りで休暇中なのです。
 西陣京極の雰囲気をよく表していますね。

 京極座は、水澤国太郎が率いる新劇・水澤一派が長期公演中でした。なんと2年にもなる! と言いますから、劇団四季並みです(笑)
 入場料は、12銭均一。いまの価格で言うと、500円か1000円というところでしょう。
 お芝居は、記者から見ると、「何処までも甘い十年も前の壮士芝居其のまゝのもの」ですが、ここの客にはそういうのが大受けで「破れる様な喝采」が起きる、と書いています。


 懐かしの銭湯も

 十字の交点から北へ上がると、かつて千中ミュージックがあったところ。
 けれども、最後は火災で焼失したので、もう痕跡はありません。

 風情のある風呂屋さん・京極湯が残っています。

 京極湯

 京極湯 京極湯

 この都会の真ん中に、いまだに煉瓦煙突が残っていることが奇跡的ですが、青空に映えて美しいですね。

 西陣京極の北端には、一条通が通っています。その北には、江戸時代、浄福寺と大超寺がありました(浄福寺は今もあります)。
 お寺の南は、江戸後期の地図を見ると、畑と記されています。明治以降も、あんず畑だったという話もあります(『西陣の史跡…』)。明治末、そこに西陣京極が開かれたのです。

 昭和初期の西陣京極について述べた文章を引いておきましょう。

 [かつては]勿論、賑やかな千本通も、一台の人力車だけしか通れないといふせまさだつたから、二十五日の天神様の日は東北の人々の御幸道である千本今出川から西は、押すな押すなの人出だつたといふ。

 それが大正二年[1913]の電車の開通から、ひらけにひらけてしまつて、今はすつかり趣を異にした、時代にふさはしい千本通が出来上つてしまつて、俗に西陣京極とさへ呼ばれて、西陣の娯楽の中心となり時代の雑音を響かしながら、近代的な刺激を与へようとしてゐる。数知れずある飲食店、喫茶店がジヤズをならし、流行の小唄を歌ふ。それがやがて、こゝを慰安所に集ふ女織手の髪容[かみかたち]までを当世ぶりに変へてしまつた。そして各撮影所が第二の京極として、活動写真館を設けてからは、層一層織手達がこゝに集まつて、十日十五日にはとてもの賑ひを呈する。(橋本由紀子「西陣京極界隈」、『京都新百景』所収)



 五番町の千本日活

 かつては、劇場や映画館が多数建っていた西陣京極、そして千本中立売界隈ですが、今ではそのほとんどが姿を消しています。
 その中で、唯一往時の姿を残しているのが、千本日活です。

 千本日活
  千本日活

 千本中立売を下がって、西に入ったところ。通りの突き当りにあります。

 千本日活

 昭和36年(1961)に五番街東宝として開館しました。のちに千本日活と名を改めましたが、前回紹介した千本日活(旧千本座)とは全くの別物です。
 建物も半世紀経つと風格が出てきますね。

 千本日活

 看板も貫禄がありすぎて、なにか油絵のような感じがします。

 千本日活

 現在では、成人映画を上映。自転車でも分かるように、それなりにお客さんは入っているようです。

 ここは、五番町という町名です。秀吉の時代、一番町から七番町までの町を作って、武士を居住させました。その名残の町名のひとつが五番町です。
 ただ、この地名が特に有名なのは、水上勉の小説「五番町夕霧楼」のせいでしょうか。
 それからも分かるように、この一帯には、戦後まもなくまで五番町遊廓が置かれていたのでした。付近には、北野天満宮の社頭に上七軒や下之森の遊廓がありました。五番町は、上七軒遊廓が発展して出来たものです。また、北新地という名称でここを指すこともあります。
 渡会恵介『京の花街』によると、上七軒は旦那衆の行くとこ、五番町は職人の行くとこ、とされていたそうで、その性格を表しています。 

 千本日活の場所は、明治初期の地図によると、お茶屋があり、その北側に検番(組合事務所)があったようです(「京都府下遊廓由緒」付図)。戦後の売春防止法の施行に伴い、いわゆる赤線が廃止され(昭和33年=1958年)、再開発されたのち、この映画館が出来たのでした。

 五番町界隈
  五番町界隈

 この界隈もまた、西陣機業の活気によって、かつては繁栄していたのです。現在ではその面影は消え去り、ふつうの町となって、500円で見られる千本日活の利用者も年配の方が多いように見受けられます。

 産業の盛衰や社会の変化で、街も移り変わっていく ーー そんな一例を千本中立売界隈に見て、もう少し過去の世界に浸っていたい、という気持ちが湧いてくるのでした。
 



 千本日活

 所在 京都市上京区上長者町通千本西入ル五番町
 見学 映画館として営業中
 交通 市バス「千本中立売」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都新百景』新時代社、1930年
 「元禄覚書」1700年(『新撰京都叢書』所収)
 「改正京町絵図細見大成」1831年(『新撰京都叢書』所収)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書』所収)
 渡会恵介『京の花街』大陸書房、1977年
 川嶋将生・鎌田道隆『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年 
 田中泰彦編『西陣の史跡 思い出の西陣映画館』京を語る会、1990年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』各巻、八木書店


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