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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

歌舞伎ファンの雑誌「演芸画報」は、鴈治郎から女優専門劇場まで盛り沢山

京都本




「演芸画報」


 明治末に創刊された歌舞伎のグラフ誌

 歌舞伎ファンの雑誌に「演劇界」というのがあります。
 私も一時期、毎号読んでいました。
 この雑誌は、戦時中の昭和18年(1943)創刊なのですが、その前身は「演芸画報」という雑誌で、明治40年(1907)までさかのぼります。つまり、百年以上の歴史があるわけです。

 「演劇界」と言いながら、内容的には歌舞伎の雑誌。戦前の「演芸画報」も、歌舞伎を中心的に取り上げた雑誌でした(若干落語なども出ては来ます)。
 画報ですから、現代風に言うとグラフ雑誌です。カラーを含む歌舞伎俳優の鮮明な写真が掲載され、またイラストもふんだんに入っています。画報という名に恥じない雑誌といえます。


 「演芸画報」を買ってみた

 今回、必要があって、「演芸画報」を少し買ってみました。もちろん、全号復刻版もあって図書館で見られるのですが、やはり自分でほしいのですね。職業病です。

  「演芸画報」 「演芸画報」大正4年1月号

 大正4年(1915)の12号が合冊されたもの(3分冊)を購入したのです。値段がとても安かったので買いました(笑)
 元の所蔵者は、もちろん1年だけでなく、10年、20年と購読されていたのでしょうけれど、古本ではこの1年分が出ていたわけです。

 例えば、こんなふうな写真ページがたくさんあります。

 「演芸画報」 「絵本太閤記」

 昭和3年(1928)の暮れ、南座で行われた恒例の顔見世。
 その中で、「絵本太閤記」が上演されました。武智光秀(明智光秀)役は、東京からやってきた市川八百蔵(写真左)。息子の十次郎は、上方歌舞伎のスター・中村鴈治郎です(写真右)。この写真の場合、バックを消して俳優だけをクローズアップしています。

 舞台の様子を示す写真も多数掲載。

 「演芸画報」 「封印切」

 部分写真なのですが、初代鴈治郎の得意な演目のひとつ、「封印切(ふういんぎり)」の忠兵衛です。
 左の女性が、遊女・梅川で中村芝雀が演じます。うしろは、大坂・新町の茶屋・井筒屋の主人おゑんで、中村魁車です。
 この写真ページは、三つ折りの大判なので、劇場で実際に見物しているようなリアルさが感じられます。

 ただ、表紙の絵からも分かるように、東京で発行されている雑誌なので、東京の動向が中心です。関西は、大阪の劇場などについて比較的詳しく取り上げられていますが、それに比べると京都は少なめです。

 南座
  南座 この建物は昭和に入って出来た


 大正時代にできた女優専門劇場
 
 そんな「演芸画報」をペラペラめくっていると、やはり京都に関する記述も出てきます。
 その中で、おや、と思ったのが、大正座という劇場です。

 名前通り、大正元年(1912)11月にできた劇場。
 場所は、新京極の裏手にありました。

 第二京極 第二京極

 裏手というと、東側のこと。
 新京極と裏寺町の間に、明治時代の末、第二京極という街区が誕生しました。数軒の映画館や劇場が建てられています。錦天満宮の裏の方ですね。
 その第二京極の東の端に、大正座ができました。
 現在、スーパーホテルのある場所。私の若い頃には、京極東宝という映画館があったところ。大正座という劇場が映画館になり、近年まで続いていたわけです。

  大正座跡地 大正座跡地

 この大正座、少し変わった劇場でした。
 女優ばかりが出演する劇場だったのです。

 ご承知のように、江戸時代の歌舞伎は、みんな男性が演じていました。
 ところが、明治維新後、演劇の世界でも女性が演技するようになる、つまり女優が誕生したのです。
 日本で女優が続々と登場するのは、明治の終わり頃から大正初めにかけてです。関西でも、松竹が大阪に女優養成所を作ったりしました。別系統になりますが、宝塚少女歌劇も大正初期に生まれています。

 「演芸画報」の大正4年1月号に、青木桜渓という人が「大正三年関西劇壇概観」という記事を書きました。
 その中に、次のような記述があります。

 京都唯一の女優劇場たる大正座では、「椿姫」「社頭の杉」「寿曽我」「新粧のポスト」を初春狂言として、以来月毎に狂言を差替へ、座員の更迭を行ふたが、成蹟は更にあがらなかつた、嘗て島村抱月氏が入洛の時、
 ==「一夜、京極の大正座といふ有楽座式の新小劇場で女優中心の新劇を見た……こゝでは花浦咲子といふ女優が中心である、白[せりふ]のアクセントが地方訛のせいか旧劇の祟りか知らないが、まだ「真」に帰つてゐない、あれを一度全くの自然に引き戻した上でなければ其れ以上の問題に這入るまい」==
 と謂はれたことがある、この一座としては傾聴すべき卓説であらう。(185ページ)


 ちょっと厳しい意見なのですね。
 大正座の演目を見てみると、喜劇、悲劇、諷刺劇、稗史劇、時代劇、世話劇など、さまざまを取り交ぜた4本立てで、毎月2度の公演を行っています。

 大正元年(1912)11月9日に始まった第1回公演は、「稗史劇 嶋の女」「諷刺劇 バンカラ」「悲劇 女心」「喜劇 相合傘」の4本。出演は、花浦咲子、榎本愛子、石川千代子らとなっていて、若干の男優も交じっていたようです。
 青木桜渓が見た大正3年正月の公演は、すでに第28回になっていました。
 当時の新聞評(京都日出新聞)では、「第二の喜劇『社頭の杉』が非常に大受けにて観客腹の皮を撚[よじ]り、第三の所作の綺麗な舞台にホッと息をつく有様にて連夜大入の盛況」と記されています(『近代歌舞伎年表 京都篇』)。

 演劇のプロからすると “?” だったのかも知れませんが、ファンはそれなりに楽しんでいたのでは、と推測したりします。

 最後に、この劇場の客層について記した新聞記事を紹介しておきましょう(京都日出新聞 大正2年2月19日付)。

 此[この]座は女優本位である丈[だけ]に矢張観客も男子が多い、悪くいへば助平、好くいへば異性に対する一種の憧憬[あこがれ]とでも名づくべきものであらう、大正座の男子客は果して何[いず]れかはそれは自ら別問題である、
 が兎に角全体の観客の内男子が九分迄[まで]と言ひたいが九分五厘は確である、それも矢張若い男子が比較的多いから愈々[いよいよ]もつて面白い訳だ、


 いまで言えば、AKB48に男性ファンが集まるようなのと同じ感覚でしょうか?
 女優さんたちの写真が掲載されていたらよかったのですが、大正4年の各号には載っていませんでした。また、別の巻を探してご紹介しましょう。


  大正座跡地 大正座跡地




 書 名  演芸画報
 出版社  演芸画報社
 刊行年  1907年ー1943年


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