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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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日蓮宗の妙覚寺は、聚楽第の裏門を移築したという





妙覚寺大門


 日蓮宗がひろまった中世京都

 京都は平安京の頃からつづく寺院もある反面、室町時代以降は日蓮宗の勢いが増していきます。

 鎌倉時代末に、日像上人が京都に日蓮宗の教線を伸ばし、下京の酒屋・柳屋仲興の邸内に一宇を建てたのが、妙法蓮華寺。のちの妙蓮寺につながるお寺です。その後、妙顕寺が開かれ、続々と日蓮宗の寺院が造立されます。天文年間には、洛中法華二十一か寺と呼ばれるほど、市中に日蓮宗の寺院が増えたのです。

妙蓮寺
妙蓮寺には「華洛最初 日像菩薩脱履道場」の石標(左)が

 日像上人ゆかりの3つの寺を特に「三具足山」と呼んでいて、どれも「具足山」という山号です。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の3か寺です。


 妙覚寺の山門は“聚楽第の裏門”

 妙覚寺は、日実上人によって開かれ、彼に帰依していた小野妙覚の四条大宮の邸内に造られました。のち二条衣棚に移り、天文法華の乱を経て、秀吉の都市改造に伴って現在地に移転しました。
 江戸時代の様子は「都名所図会」にも図示されているのですが、天明の大火(1788年)によりほとんどの建物は焼亡してしまいました。ところが、表門は焼け残ったようで、古い構えを伝えています。
 この門、「都名所図会」には、広い境内の端に描かれていて、その内側には立派な楼門がそびえています。つまり、この門はいわゆる総門にあたる門といえるでしょう。
 『新撰京都名勝誌』(1915年)には、「表門 東向、もと聚楽第の裏門といひ伝へ、寛文三年今の処に移る」とあります。聚楽第は秀吉の造営で天正15年(1587)に竣工していますが、文禄4年(1595)に秀次を自害させ、その邸宅であった聚楽第を取り壊します(蛇足ですが、聚楽第の石垣が2012年10月に発掘されています)。
 寛文3年といえば1663年です。聚楽第が壊されてから70年近く後に移築されたことになります。

妙覚寺大門

妙覚寺大門

 表側からは立派な桜の木があって見えづらいので、内側からも撮ってみました。
 屋根は切妻、柱は角柱で、門の形式としては薬医門になります。薬医門は、棟のある建物の中心に柱が立たない形の門。そのため、内側に控柱を付けます。

妙覚寺大門

 真横から見ると、本柱の立っている塀のラインが、建物のセンターからずれていることがよくわかりますね。
 薬医門は、城門によく用いられた門で、大坂城より豪壮だといわれた聚楽第に用いられたのも理解できます。
 下の薬医門は、伏見城の大手門を移築した御香宮神社の表門です(重要文化財)。こちらは三間一戸の大ぶりの薬医門です。

御香宮神社表門 御香宮神社表門

 妙覚寺の門には、両脇に潜門が付いています。

妙覚寺大門

 聚楽第の頃は、平素はこれを潜って入ったのでしょう。

妙覚寺大門

 棟の上の空間は、伏兵を潜ますためのものだと言い伝えられています。
 この門、聚楽第の遺構と伝えられていますが、確証はありません。西本願寺飛雲閣、大徳寺唐門なども同様の伝えがあり、大徳寺唐門については聚楽第の遺構であるとの考え方が強まっています。
 妙覚寺大門は、京都府の指定文化財となっています。




 妙覚寺

 *所在 京都市上京区下清蔵口町
 *拝観 境内自由
 *交通 地下鉄鞍馬口駅より、徒歩約10分



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『アサヒ写真ブック54 日本の門』朝日新聞社、1957年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)



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