北白川にある道標と石仏は、志賀越えの追分をしのぶよすがとなっている

志賀越えの「追分」
先月の記事で、京都大学の脇にある300年前の道標について紹介しました。
記事は、こちら! → <300年前の道しるべは、京大構内を通っていた志賀越えの記憶>
思えば、道しるべで「300年前」というのも物すごいですが、これは古い街道跡に建つ道標でした。
その街道が、志賀越え(しがごえ)。
ざっくり言うと、鴨川東岸(京都市左京区)から、比叡山を越えて、琵琶湖岸(大津市)へ抜ける山道です。そのため、山中越えとも呼ばれ、また京都市街の部分は白川道などとも言われます。
「志賀」越えというのは、京都から滋賀に抜ける道だからですね。
江戸時代には、随分往来があったのですが、このあとの話でも分かるように、おそらくもっと古い道だったのでしょう。
今回は、地図を作ってみました!

昭和初期の京都帝大附近(『皇陵巡拝案内記』所載地図を加工)
昭和8年(1933)頃の地図をベースに作成しました。
左下から右上に続く赤い線が、志賀越えです。
左下端、鴨川に架かる橋が、荒神橋(こうじんばし)。京の七口(都への出入口)のひとつ、荒神口があったところ。そこから斜めに進んで、京都帝国大学が出来たので、道は一旦途切れます。この途切れたところ(東大路東一条)が、前回の道標があった場所です。

京大の東の白川道
京大の右上から、また道が始まっています。すぐに電車道と交差します(青いAの辺り)。この電車道が今出川通です。昭和初期に現在のように拡幅、整備されました。もっとも、それ以前にも、この西方には百万遍の知恩寺という大きな寺などもあり、道は通っていたのです。ただし、田圃の中の細い道だったと思われますが。
A地点より先、道は少し坂道となり、いよいよ山中越えらしい様相を呈し始めます。
地図に「追分(おいわけ)」という地名が書いてあります(赤丸)。これがポイントです。
このあたりは、昔は愛宕(おたぎ)郡白川村の追分というところでした。「追分」の文字の場所は、今は北白川西町ですが、その西隣は現在も追分町です(ほとんど京大構内ですが)。
追分という地名は、一般に、街道の分岐点に付けられます。
では、ここも分岐点?
そうなんです。ここも別れ道、“追分”なのでした。
160年前の道標が立つ

この地点(青いA)は、斜めの志賀越え(白川道)と、東西の現・今出川通との分岐点なのです。「フ」の字形に分かれているんですね。今出川通は、古くはもっと細い道でした。
ここに別れ道らしく、1本の道標が建っています。
北白川西町道標。
嘉永2年(1849)に建てられました。

とても背が高く、2m12cmあるそうです。四面に文字が刻まれています。



左上の写真から、北面、西面、南面です(東面はお堂の陰で撮れていません)。
刻んでいる文字は、次の通り。
(北面) 北/右 北野天満宮 三十五丁 平野社/下上加茂 今宮 金閣寺
(西面) すく/比ゑいさん 唐崎 坂本/嘉永二年己酉仲夏吉辰願主某 石工権左衛門
(南面) 南/左 三条大橋 二十五丁 祇園 清水/知恩院 東西本願寺 一里半
(東面) 東/吉田社 三丁 真如堂 五丁/銀閣寺 黒谷 六丁
3つの面の一番上に「北」「南」「東」と方角が書いてあります。これは、その面が向いている方角を示しているのでしょう。コンパスのようなものですね。
この道標は、おそらく道路整備の中で動かされているかも知れませんが、方角は維持されているようです。
そして注意すべきは、「右 北野天満宮……」と「左 三条大橋……」の部分。
この道しるべが、東から歩いてきた旅人に、右=現・今出川通を行けば北野天満宮などですよ、左=志賀越え(白川道)を行けば三条大橋や祇園、清水へ行けますよ、と教えているのが分かります。
つまり、この道標は、西面(すぐ 比叡山……)以外は、山を越えて京都に入ってきた人に向けて建てられたものなのです。
もっとも、西面だけは、京都から滋賀方面に行く人に向けています(唐崎、坂本は滋賀の地名)。
この道しるべからも、この場所が滋賀方面から来た人にとっての「追分」であったことが理解できます。
旅人を見守る石仏
地図のA地点には、道標のほかに石仏も祀られています。

高さ1m余りの素朴な2躯の仏さま。


いつ頃に造られた像だと思いますか?
実は、思いのほか古くて、鎌倉時代のものだと考えられています。
石造美術研究の第一人者・川勝政太郎氏の解説を引いておきましょう。
向つて左のは大きい自然石の表面に整つた姿の定印弥陀坐像を刻出し、右のは二重光背式に作つた前に大きく定印弥陀坐像を彫つてゐる。
共に面相も円く藤原系の表現をもつてゐるが、衣文の具合など鎌倉時代中期前のものと思はれる。殊に右の像の衣文は美しく整へられて居り、保存もよい点は珍しい。この像の光背には月輪中に梵字を現はしたのが数多くめぐらされてゐる。京都には定印弥陀の石仏が多いが、これらは花崗岩製、高さ五尺ばかりで、大きく且つ古い優作である。(『京都石造美術の研究』116ページ)
戦後すぐ(1948年)に出版された『京都石造美術の研究』の解説です。
川勝博士の研究によれば、京都の石仏の中で古いものとして、比叡山西塔の香炉岡弥陀石仏があるそうです。これは鎌倉初期の作と認められると言います。
北白川の右の像は、同じ系統に属すそうで、それに次いで古いものということになります。
また、同じ頃の作に、上京区の石像寺(釘抜きさん)の弥陀三尊石仏があります。これは元仁2年(1225)作と銘から確認できます。
北白川の像は、石灯籠などには「大日如来」と刻まれていますが、像としては阿弥陀如来です。
鎌倉時代というと、800年ほども前のもので驚かされますが、さらに古く見る意見もあるようです。

石灯籠には「大日如来」とある
また二躯の石仏の後ろを覗くと、さらに小さな石仏が置かれていました。

このあたりが、街道筋の追分に当たるため、昔から石仏が数多く置かれていたのでしょう。この事情については、もう少し考える必要もありそうです。
なお、この場所から今出川通を北に渡ったところに、子安観音と称される大きな石仏もあります。
掘り出された石仏群

いま、今出川通の脇道になってしまった白川道。かつては、このような風景でした。

石仏と道標(『京ところどころ』より)
石仏には覆い屋はなく、露仏です。
道の向こうの右側には、石造でしょうか、2基の層塔も見えます。もしかすると石材店の店先かも知れません。北白川は石材が名産ですから。

クローズアップすると、こうなります。
この写真は、昭和3年(1928)に刊行された『京ところどころ』という随筆集に掲載されているものです。
タイトル通り、京都のいろいろな場所を、そこにゆかりの著名人(特に住んでいる人)が自由に綴ったものです。もとは、大阪毎日新聞京都附録に掲載されたもので(おそらく昭和2年頃)、編者は京都支局長だった岩井武俊です。岩井は、考古学をはじめ歴史、文化財に造詣が深い、学者肌の新聞人でした。少し調べたことがあるのですが、それについてはまた別の機会に。
その『京ところどころ』に、河田冰谷「京の鬼門 百万遍附近は太古は大湖水の渚」というエッセイがあり、その挿図がこの写真なのです。サブタイトルが、「白川口の名物=石仏 一帯急激なモダーン化」とあります。
河田冰谷は、河田嗣郎のことで、京都帝大の先生(法学博士)でした。この本が出された頃、大阪商科大学(現・大阪市立大学)へ移り、学長を務めています。
その河田博士が、近所に住んでいたわけです。大学の近くで便利だったのでしょう。
その一文に、二躯の石仏のことも書かれています。
私の住ゐ[すまい]の界隈は、皇城鎮護の延暦寺の裏の参詣口に当つて居るのだから、昨今こそ斯[こ]んなに登り客の通行が少なくなつたけれど、昔は中々重要な又神聖な地域であつた。だからこそこの附近には大日如来や地蔵菩薩の石の尊像が、道のほとりなどに多数に鎮座ましますわけだ。農大正門の入口には、いわゆる二つ地蔵が半ばうもれながら、衆生済度の慈眼を垂れて御座る。何人の心尽くしぞ花やしきみの絶えたことはない。
何しろ此界隈はそんな霊域だが、昨年だつたか、あの二つ地蔵のつい鼻の先で四人殺しの惨事が演ぜられ、神聖の地域を汚してしまつた。これも末世の象徴といふものか。仏罰であるのかも知れない。(183-184ページ)
殺人事件のことが妙に引っかかりますが、一応それは置いておいて。
この石仏が、地元では「二つ地蔵」と呼ばれていたことが分かります。また、他にも多くの石仏が鎮座していようですね。
私が気になったのは、次の部分でした。
仏罰といへば理学部の生物学や地質学などの教室があの区画内に出来た時の話を知つて居る人があるであらう。
石仏の北に農学部正門があり、そこには農学部や理学部の建物があります。
理学部の建物は、大正後期から順次造成されていきました。煉瓦造の理学・生物学教室が出来たのは、大正9年(1920)のことと言います(『新版日本近代建築総覧』による)。次の話は、おそらくその工事の際、あるいはそれに続く校舎工事の際の出来事と思われます。
あの建物の出来る時地下工事をするに当たつて多くの石仏があつたのを心なき土工連中が邪魔になるといふので、地下室の下の深い深い大きな穴の中へたゝき込んでしまつた。すると仏罰立所[たちどころ]に現れ、土方が怪我をするやら病気にかゝるやら、棟梁が変死するやら大学営繕課の人が病気するやら、大変なことになつてしまつた。
初めは誰もその理由を知らないで、たゞ恐れをなして居るばかりだつたが、その中[うち]それが仏罰であることが きつねおろし か何かでわかつて、早速その罪の赦免を請はなければならぬことになつた。
そのおわびの為に作られたのが今理学部の東南の角の所に人家との間に祀られてある石仏群だ。白川口を知る人はあつても、このくしき因縁話のついて居る石仏壇を知る人も、見た人も少からう。(184-185ページ)
何やら、怖い話です。
大学の建物工事中に、地中から多数の石仏が掘り出された。地下室の穴に埋めておいたら、関係者に次々と災いが起こった。「きつねおろし」で尋ねると、石仏の祟りだということが分かった。それで、石仏群を手厚く祀ることになった。
なにやら、ツタンカーメンの発掘譚のような話……
私は気になって仕方なく、ある雨の日にクルマを駆って京大北部構内を訪ねてみました。
今出川通から様子をうかがうと、それらしきものが……

確かにキャンパスの南東隅、民家と接するところに覆い屋がありました。

20数体はあろうかという石仏群。
前掛けをかけて丁寧にお祀りされていて、「追分町大日奉賛会」の文字が見えます。こちらでも大日如来として祀られているようでした。


下の写真の右端は、五輪塔のようですね。こちらも前掛けを付けて祀られています。
現場にお詣りに行って、少しほっとしました。
私が行ったとき、近所の方でしょうか、2歳くらいの女の子を連れたお母さんが来ておられました。雨の日、ちょうど屋根があって、ここで遊んでおられたのかも知れません。
なにかそんな風景も、心なごむ一コマであったのです。
北白川西町道標(京都市登録文化財)、北白川阿弥陀如来坐像
所在 京都市左京区北白川西町
拝観 自由(路傍にあります)
交通 市バス「北白川」下車、徒歩約3分
【参考文献】
岩井武俊編『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年
川勝政太郎『京都石造美術の研究』河原書店、1948年
川勝政太郎『京都の石造美術』木耳社、1972年
『京都市の文化財(記念物)』京都市文化観光局、1992年
『新版日本近代建築総覧』技報堂出版、1980年
江崎政忠編『皇陵巡拝案内記』皇陵巡拝会、1933年
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