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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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豊国廟に建設された五輪塔は、石段の上にある高さ10mの巨大石造物

洛東




豊国廟


 石段上にある廟所

 豊国廟を訪れた今回。
 太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場まで到達し、拝殿をくぐって石段を登り始めます。

 豊国廟

 心地よいリズムで登れる石段は、おそらく西洋的な設計。
 しかし延々と続きます……

 やはり5分以上かかったでしょうか。
 ようやく平坦なところに至りました。

 豊国廟

 少し鬱蒼とした雰囲気。
 
 『京都名勝誌』より「太閤坦」
  『京都名勝誌』(1928年)

 昭和3年(1928)の同じ場所。廟所の整備30年後の様子です。
 樹木が少なく、見通しが開けています。画面中央には、さらに上へと続く石段が写っています。

 現在は、整備から約120年。感じが変わるのも無理はないです。

 写真の左右に、灯籠が建っています。

  豊国廟 平瀬露香寄進の石灯籠

 前回登場した、大阪の粋人・平瀬亀之助(露香)が奉納した石灯籠です。

  豊国廟

 背面に、「明治三十一年四月一日/平瀬亀之輔源春愛」とあります。
 頂部が取れていますが、ちょっとおしゃれな灯籠ですね。


 唐門も立派!

 この平坦地に唐門があります。

 豊国廟

 設計段階の図。唐門と築地塀です。

 豊国会趣意書
  『豊国会趣意書』

 豊国会趣意書  側面図

 現状は銅板葺ですが、当初は桧皮葺だったと言います。かなり落ち葉も積もっており、屋根の管理も大変なのでしょうね。

 豊国廟

 ところで、今回資料を見ていて気付いたことがありました。
 明治31年(1898)の廟所整備以前、この阿弥陀ケ峰に登って秀吉の墓所を参拝するには、山道を登って行ったのです。その山道は、廟所整備の後も残っていたらしく、唐門の脇から上に続いていたようです。
 『新撰京都名勝誌』(1915年)には、

 唐門より右方に間道あり、之[これ]より登るを、俗に女坂といふ。

 と記されています。
 お寺の参道などで、通常、急な方を男坂、緩い方を女坂と呼びます。男坂は石段のことが多いのですが、女坂は迂回する坂道だったりするのです。

 ここで、思ったのは……
 もしかすると、この豊国廟の旧・女坂が、京都女子大学前の現・女坂に受け継がれたのではないだろうか?
 直接の証拠はないのですが、なんだかそう思える「女坂」の登場でした。


 高さ10mの五輪塔

 門の向こうには、立ち塞がるような急階段が!

 豊国廟

 最後だから、と言い聞かせて登ります。
 秀吉の廟所は、標高196mの阿弥陀ケ峰の頂上にありました。

 豊国廟
  豊臣秀吉廟所

 今回、参道から石灯籠が数多くあったのですが、五輪塔の玉垣外の左右には、旧徳島藩・蜂須賀家(当時の当主は蜂須賀茂韶=もちあき)寄進のものがありました。こちらも立派ですね。

  豊国廟 蜂須賀茂韶寄進の石灯籠

 ちなみに玉垣内にある一対は、特定の人の奉納ではない位置付けらしく、氏名などは刻んでありません。

 豊国廟

 高さ10mあるという五輪塔。
 設計は、建築家・伊東忠太だそうです。

 豊国会趣意書 『豊国会趣意書』

 この山頂に、この巨大な五輪塔。
 なんだか秀吉らしい、という感想が湧いてきます。

 豊国廟
  背面より

 『新撰京都名勝誌』より「豊公墳墓」
  『新撰京都名勝誌』(1915年)

 竣工後17年くらいの姿。随分すっきりしています。

 周囲の玉垣など、造作も立派ですね。

 豊国廟

 江戸から明治、およそ280年にわたり荒れるに任せていた豊臣秀吉の墓所は、見事に生まれ変わったのでした。


 造営時の事件とは?
 
 と、ここで終わるはずの豊国廟のレポートでしたが、最後に少々つけたりを記しておきましょう。
 
 湯本文彦という人がいます。
 明治時代、京都で活躍した歴史研究者で、平安京の調査研究を行い、『平安通志』を編纂。平安京遷都千百年祭(1895年)というイベントにも深く関与しました。
 ちなみに、この千百年祭の際、平安宮の大極殿を復元して建設されたのが平安神宮です(拝殿が大極殿の縮小復元)。そして、その共同設計者の一人が、伊藤忠太。豊国廟の五輪塔の設計者でした。

 湯本文彦は、明治39年(1906)1月、「史学雑誌」に「豊太閤改葬始末」という報告を発表しました。
 これは、豊国会が行った豊国廟の整備に当たって起きた、ある事件について記したものです。

 湯本は、豊国廟が立派に整備されることは「千歳の快事」と評価します。しかし、その「墓標」が仏式(五輪塔)であることは、歴史的にも、また官幣社となっている現状からしても不都合なのではないかと述べています。つまり、廟の具体的設計には賛成できず、豊国会にも意見したのですが、計画は東京の方で決定されてしまいました。
 後日、伊藤忠太の設計書を見ると、大五輪塔がプランされていました。これは、重量が大きいために墓の中まで地固めをする必要がある、それは墓に鍬を入れることになり、「不敬に当る」と考えます。

 そんなことでヘソを曲げた湯本は、豊国会の委員会にも出席せず(どうらや委員になっていたようです)、修築工事は明治30年(1897)4月13日、起工式を迎えます。
 しばらく経った5月8日、醍醐寺で調査に当たっていた湯本は、京都府庁からの緊急連絡により、寺町二条・妙満寺内にあった豊国会の事務所に向かうよう指示されます。到着すると、すでに事務長以下、主だった人たちが会議をしていました。
 いったい何事かと問うと、「工事中、はからずも秀吉公の遺骸を発掘した。誠に恐惶の至りではあるが、慎重に改葬しないといけない。改葬するとなると、墓誌(埋葬者の事績などを記して、墓の中に入れる文章)が必要なので、その作文をしてほしい」ということでした。湯本は、たいへん驚いて、事情を聞きました。それによると……

 4月28日の夕方、墓の地固めを行うため土を掘ると、3尺(約90cm)ほど掘ったところで銅の針金で束ねた瓦がいくつも見つかった。見てみると、朱で経文を書いた瓦だった。
 その瓦を取りのけてみると、胞衣(えな)壺のような壺が2つ出てきた。その中には、骨灰のようなものが入っていた。
 その下には、平たい石があって、さらに掘ってみると、ひと抱えほどある壺が出てきた。掘った時に当たったのか、壊れた部分があった。内部には、掌を組んだ遺骸が西向きに足を組んで座っていた(または、うずくまっていた)。
 工事人は大いに驚き、豊国会事務所に報告した。

 このような次第でした。そのあとの混乱ぶりは言うに及びません。
 
 経文を書いた瓦は、どうやら秀吉の150年忌に妙法院宮堯延親王が供養したもののようでした。
 また、遺骸の入っていた壺は、高さ3尺弱の粗末な品で、へらで「ひねりつち」という文字が彫ってあったそうです。
 駆けつけた幹事らが壺を取り上げようとしたところ、遺骸はバラバラに砕けてしまいました。その骨片は、拾い集めて保管したと言います。

 この事態を聞いた湯本は、激怒しました。
 これまで何度も注意してきたが、今回の事故は請負人に任せ切りで監督者も置かず、ついに「(秀吉)公の遺骸暴露の惨事」に至ってしまった。“もし秀吉公の霊があったならば、墓の修繕を喜ばれるのか、それとも遺骸の暴露を恨まれるのか”。
 こう言った湯本ですが、しかし、悪意を持って行ったことではないので法の責めも免れるのではないか、正当な手続きによって改葬を行うべきだ、と述べています。

  豊国廟
 
 その後、墓の改葬が行われ、バラバラになった遺骨は絹に包んで桐箱に朱詰めし、それを銅の櫃(ひつ)に納めて、湯本が書いた墓誌(銅板製)を添え、それらをさらに石櫃に入れて、砕けた壺片や経文を書いた瓦などともに埋葬されました。
 湯本の墓誌には、この顛末も記載されています。改葬したのは、湯本によると「発掘」から2週間後の5月10日となっていますが、実際にはもっと後になったようです。

 のちに、湯本が歴史学者の三上参次から教えられたところによると、秀吉の墓はすでに元禄元年(1688)より少し前に盗掘されていたことが、公家の日記に記されていると言います(「野宮定基卿記」元禄元年11月1日条)。その際、おそらく副葬されていたであろう甲冑や太刀などは盗まれたと思われます。
 推測では、秀吉の遺骸は元は木棺に納められていたものが、盗掘時に例の壺に移し替えられたのではないかと考えられています。というのも、明治30年の「発掘」の際に、墓域に別の穴があってそこに木棺片が観察されたからでした。

 私は、この報告を何度読んでも、なかなか信じられませんでした。この通りだとすれば、慶長4年(1598)に亡くなった秀吉の遺骸は丁重に埋葬され、盗掘は受けたものの、形を保ったまま、明治時代になっても西方を向いて合掌し、座っていたわけです。
 明治30年の春の出来事について、このほかにも報告があるのでしょうか。なにやら謎のまま、眠っているようです。


  豊国廟




 豊国廟

 所在 京都市東山区今熊野北日吉町
 拝観 有料(大人100円ほか)
 交通 京阪電車「七条」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 『豊国会趣意書』若松雅太郎、1897年
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五冊』京都府、1923年
 湯本文彦「豊太閤改葬始末」1906年(「史学雑誌」17-1)
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 

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