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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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太閤さんの威光は健在、明治31年に整備された豊国廟は “女坂” の終点にある

洛東




豊国廟


 明治時代に再建された豊国神社

 東山七条の界隈といえば、三十三間堂、智積院、京都国立博物館など、見所がたくさんあります。
 国立博物館の北側には、豊臣秀吉を祀った豊国神社が鎮座しています。

 豊国神社
  豊国神社 唐門(国宝)

 大阪では「ほうこく」神社と呼ぶのですが、京都では「とよくに」神社です。もっとも、通称は「ほうこくさん」。豊臣秀吉を祀った神社です。
 慶長3年(1598)に亡くなった秀吉は、翌年、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ケ峰(あみだがみね)に埋葬されます。そこは、秀吉が大仏を造立した方広寺の東に当たる場所でした。そして、「豊国大明神」という神さまとして祀られますが、それが豊国神社で、廟所の麓にありました。

 ところが、大坂の陣(1615年)で豊臣家が滅亡した後は、豊国神社は廃絶されることとなり、社殿は朽ちるに任せたと言います。徳川の時代、それも世の定めだったのでしょう。

 それから250年。時は明治となり、秀吉の祭祀が復活されます。
 明治元年(1868)、阿弥陀ケ峰の墓前を神祇官に祀らせ、明治6年(1873)には別格官幣社としています。その後、大仏殿の跡地に社殿が造営され、遷座します。明治13年(1880)のことでした。これが、いま私たちが参拝する豊国神社です。
 ちなみに、大阪の豊国神社は、その別社として創建されています。

 この豊国神社は、みなさんよく参拝されると思いますが、今回はその背後にそびえる阿弥陀ケ峰に登り、秀吉の廟所をお参りしたいと思います。


 豊国廟へ“女坂”を上る

 京都国立博物館の東側。
 東大路通から東に延びる坂道が、豊国廟への参道です。

 女坂

 この長い坂道は、通称「女坂」と呼ばれています。
 坂上に、京都女子大学(通称・京女=「きょうじょ」)や、同中学・高校などがあり、女学生の通学路となっているのです。この「女坂」の名称の由来については、また別に触れたいと思います。

 ちなみに、宗教系の大学が多い京都で、京都女子大学は仏教系、西本願寺の系統になります。

 女坂

 「豊国廟参道」と大書された、背の高い石標が建っています。これは明治34年(1901)に建立されたものです。
 ずっと坂を上って行くと、そびえ立つ鳥居が目に入り、道は左右に分かれます。

 豊国廟
  豊国廟 一の鳥居

 左に行くと豊国廟、右に行くと新日吉神社。
 江戸時代、荒廃した豊国廟は“封印”されていたため、その参道を塞ぐように新日吉神社が鎮座していたそうです。明治以降、右手(南)に遷りました。

 この鳥居が、豊国廟の一の鳥居です。明治31年(1898)に建てられたもの。
 この鳥居をくぐって進んでいくのが、明治後期以来の参拝路なのですね。


 豊国会による廟所の整備
 
 明治30年(1897)に発行された「豊国会趣意書」という小冊子があります。
 そこには、この鳥居の図が掲載されています。

  豊国会趣意書  「豊国会趣意書」より

 「壱之鳥居之図」「弐之鳥居之図」と書かれています。

 この豊国会、どのような団体だったのか?
 明治の初めに豊国神社は整備されたのですが、肝心の秀吉の墓所は手つかずのままでした。
 そこで、明治20年代になって、豊臣家の旧臣である黒田家、蜂須賀家、前田家、鍋島家など(当時は華族です)が集まって、整備団体を作ったのです。会長は、黒田家13代当主の黒田長成(ながしげ)でした。
 廟所整備の目標は、明治31年(1898)の完成。秀吉没後300年に当たり、三百年祭を行おうというわけです。

 この小冊子は、要はその寄付金集めのパンフレットです。
 そのため、建設予定の鳥居や社殿の完成予想図が掲載されているのでした。

  豊国会趣意書

 これは墓所に建てる五輪塔の図ですが、このように立面図と平面図が載せられていました。
 
 「豊国会趣意書」を読むと、設立の目的は、「本会は明治三十一年ヲ期シ京都阿弥陀峯豊太閤ノ墳墓ヲ修理シ之[これ]カ保存ノ道ヲ設ケ并[ならび]ニ同年ニ於テ三百年祭ヲ挙行スル」ためとなっています。

 募金額の目標は、17万円。そのうち12万円が、社殿などの建築費でした。
 当時の17万円というと、いまの5億円とか10億円くらいの感じでしょうか。
 ちなみに、昭和6年(1931)に復興した秀吉ゆかりの大阪城ですが、この際の募金で集まった金額は150万円でした。現在の感覚では30億円くらいですね。大阪あげてのビッグイベントでしたが、これを思うと、明治の豊国廟修理も気合の入った事業だったと分かります。
 会の趣旨に賛同した人には、侯爵や伯爵といった偉い人(例えば山県有朋、伊藤博文……)から始まり、東京、京都、大阪、名古屋の財界人、著名人が名を連ねています。
 

 石灯籠の数々

 参道には、各所に一対の石灯籠が建てられています。
 一の鳥居脇には、このような灯籠が。

  豊国廟

 こちらは京都米穀取引所の人たちが寄進したもの。明治31年(1898)4月建立。
 火袋には、豊臣の紋である桐紋が刻まれています。
 この次に現れる灯籠も、京都の株式取引所の関係者が奉納したもので、京都の経済界が協賛したことが分かります。

 さらに進むと、京都女子大学前に至ります。

 豊国廟

 ここには一際大きな石灯籠が建っています。

 豊国廟

 豊国廟

 奉納したのは、「大阪六遊廓」とあります。明治31年5月建立。
 裏を見ると……

 豊国廟

 新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部と、大阪の6つの花街の名が彫られています。側面には、個人名もあります。

 でも、なぜ花街なのか? という疑問がわきますね。

 知人に教えてもらったところによると、平瀬亀之助(号・露香)という人が関係しているのだそうです。
 この人物は、豊国会の名簿にも名前が入っています。幕末の大阪で両替商の当主として、明治以後は財界人として活躍したのですが、茶道、俳諧、和歌など多彩な趣味を持つ粋人でした。そのため、花街とのつながりも深かったのです。
 平瀬自身、この廟所整備の中で石灯籠を寄進していますが(のちほど出てきます)、大阪の花街にも薦めて、これを寄進してもらったというのです。
 なるほど、という話ですね。


 太閤坦に上る

 さらに坂は続き、いよいよ石段が見えてきました。

 豊国廟

 これを上ると……

 豊国廟

 二の鳥居があり、広々としたスペースが広がっています。
 ここが「太閤坦(たいこうだいら)」。
 いい名前ですねぇ!

 秀吉没後まもなく、豊国神社が築かれていた場所なのです。
 しかし今では、芝生の空き地やバスプールなどに変貌してしまいました。

 けれども、明治31年の整備では、ここにいくつかの建物が置かれています。
 二の鳥居、手水屋、拝殿、御供所、廟務所です。

 まず手水屋。

 豊国会趣意書 「豊国会趣意書」

 豊国廟

 趣意書の図面と同じで、感動。よく残っています。

 豊国廟
 
 蟇股(かえるまた)には、やはり桐紋が。

 豊国廟
 
 そして、この四角い端正な手水鉢なのですが、これが当初の豊国神社のものだと言われています。
 およそ400年前のものということですか。
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』(1923年)には、「今太閤坦廟務所ノ南方花崗岩ニ作レル高サ二尺六寸三分[約80cm]、巾四尺[約120cm]、長六尺五分[約2m]ノ巨大ナル長方形ヲナセル手水鉢アリ、伝フル所ニヨレバモト豊国廟ニアリシモノニテ近時妙法院ヨリ移サレタリト云フ」(30ページ)とあります。
 北野天満宮の手水鉢を模したものと言われ、かつては「石船」とも称されていたようです。

 手水屋の左手(北)には……

 豊国廟

 植え込みに隠れがちなのですが、廟務所(社務所のようなもの、左)と、御供所(お供えを調えるところ、右)があります。

 豊国廟
  御供所

 豊国会趣意書

 御供所は、図面では妻入りですけれど、実際には平入りになったようです。


 拝殿から、さらに…

 この先に進むと、拝殿が見えてきます。

 『新撰京都名勝誌』より「太閤坦」
  『新撰京都名勝誌』より「太閤坦」

 こちらは、100年前の『新撰京都名勝誌』(1915年)に載せられた太閤坦の写真。
 奥の建物が拝殿です。
 手前の左右に銅か鉄の灯籠が写っていますが、これは今はなかったような。おそらく戦時中に供出で失われたのでしょう。

 豊国廟

 現在の拝殿。

 豊国会趣意書

 「趣意書」では、舞殿のような形で、床を張った建物です。しかし実際には、床はなく、門のように通り抜ける形の平入りの拝殿になりました。

 現在では、この拝殿の手前で拝観料(100円)を払って、廟に参拝します。

 拝殿を抜けると……

  豊国廟

 木陰で暗いのですが、切り立った石段が続いています。

 下りてくる人も、一人、二人……
 勇気を奮って、登ってみましょう。


 (この項、つづく)




 豊国廟

 所在 京都市東山区今熊野北日吉町
 拝観 有料(大人100円ほか)
 交通 京阪電車「七条」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 『豊国会趣意書』若松雅太郎、1897年
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五冊』京都府、1923年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年


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