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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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吉田神社の境内には、奈良・長谷寺の観音さまを写した“新”長谷寺があった - けれど、いったいどこに? ー

洛東




新長谷寺跡


 幕末の名所図会を見ると…

 神楽岡にある吉田神社。
 前回、明治時代に大元宮の周辺で大きな造成が行われた話を紹介しました。

 今回は、まずこの絵から!

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」
  「花洛名勝図会」

 幕末の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」。
 吉田神社を取り上げた部分の「其(その)二」として、「春日社/新長谷寺」を描いています。

 春日社は、画面左上隅にあります。前回紹介した吉田神社の本宮ですね。右隣には、摂社の若宮社もあります。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」
  左端に「春日」とあり、4つの社が並んでいる

 吉田神社
  現在の本宮

 こちらについては、問題はないのです。

 問題なのは、もうひとつの「新長谷寺」。
 画面左下に描かれています。
 拡大してみましょう。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 ゆるい上り坂の参道があり、その左手に「新長谷寺」と書いてあります。右には、「神海霊社」という小さな社も画かれていますね。

 最初の全体図では、春日社の下に描かれているのですが、霞(かすみ)が掛かっているので、詳しい位置関係は分かりません。
 今回、私が探ってみたいと思ったのは、この新長谷寺の場所。吉田神社を創建した藤原山蔭が、奈良・長谷寺の十一面観音に感得して、模刻像を安置した寺だといいます。

 いったい、どこにあったのでしょうか?


 今はなくなった新長谷寺

 吉田神社境内図
  境内図

 吉田神社へ行くには、東一条の交差点から、京都大学正門前を通って行きます。
 大きな鳥居があり、砂利が敷かれた参道を歩いて境内へ。これが上図の「表参道」です。
 手水舎の先に石段があって、それを上ると、左に本宮(先ほどの春日社)があります。
 また、右(南)のエリアには大元宮が鎮座。
 本宮と大元宮は、山道で結ばれており、途中に菓祖神社や山蔭神社といった戦後鎮座した小祠があります。

 だいたいこんな配置が、現在の吉田神社。

 もちろん、新長谷寺というお寺はありません。

 もうお分かりかも知れません。神社の歴史では、明治維新後の廃仏毀釈で、境内にあったお寺的な要素(神宮寺など)は、取り払われてしまいました。

 廃仏毀釈とは、

 明治初年の仏教廃止運動。神仏分離令をきっかけに、旧弊打破と王政復古による神祇崇拝の風潮とがからみあって廃仏運動がおこり、寺院・仏像の多くが焼棄または売却された。
 
 というもの。なんとなく愛用している『年表式日本史小事典』には、こう説明されています。
 「神仏分離」という言葉の通り、もともと一緒にあった神社とお寺を別々にしたわけですね。例えば、神社の境内にあったお寺は廃止になるし、仏具を使ってはダメだし、神社にいた僧侶(というのが今では斬新ですが…)も還俗して神職になったのです。

 私は、このようなドラスチックな文化の変更はよくないと思うのですが、明治維新のときには、国策的にこんなふうにやってしまったわけです。


 跡地を探して…

 新長谷寺は、どこにあったのか?

 まず、京大前からの表参道ですが、急な石段は名所図会とズレを感じさせます。
 左手にある末社なども、一致しません。

 ということは、まったく別の場所になるはず。
 大元宮のある南エリアを探してみました。

 すると、大元宮から西へ下る坂道があったのです。

 新長谷寺跡

 なんとなく、あやしい……

 よく見ると、奥の方に小さな鳥居が見えます。
 
 神海霊社

 林と民家の間に、草にうずもれるようにして神社が……

 神海霊社

 望遠レンズで拡大して見ると、どうやら額には「神海霊社」と書いてあるようです。

 これこそ、新長谷寺の右横にあった神海霊社です!

 これで答えは出たようなもの。
 左側の民家が建っているあたりが、かつて新長谷寺のあった場所になりそうです。


 残っていた痕跡

 坂を下りながら観察していくと、ありました、石垣です!

 新長谷寺跡

 結構きっちり積まれているし、時代も感じさせます。最近のものではありませんね。

 新長谷寺跡

 坂道の脇に延々と続いています。
 雰囲気的には、門跡寺院にあるような立派な石垣です。

 そして、ようやく気づきました。ここがどこなのかを。

 新長谷寺跡

 吉田神社の南参道なのでした。

 今では余り参拝者が通らない参道。ここが幕末の名所図会に描かれた場所だったのです。
 上の写真の左側に、新長谷寺が建っていました。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 今いるのは、この場所。
 中央の大きな石灯籠は今でも残っています。絵では鳥居はありません。現在の鳥居はコンクリート製の新しいものでした。

 一対の灯籠。

  吉田神社石灯籠 南参道の石灯籠(南側のもの)

  吉田神社石灯籠 吉田神社石灯籠

 南北に一対、並んで立っています。
 南(右)のものが古くて、天保8年(1837)のもの。北側は、嘉永2年(1849)です。どちらも酉(とり)年の建立ですので、12年離れています。願主は「多那瀬氏」とあり、石工は「白川石工/井筒屋□□衛門」と刻まれています。

 写真と絵を見比べると、基壇が3段あるところとか、灯籠の底部に格狭間があるところとか、絵が写実的なのがよく分かります。

 この石灯籠の左手が、石垣の角になります。

 新長谷寺跡

 立派なものです。
 さらに、鳥居前の段などもあって、

 新長谷寺跡

 新長谷寺跡

 端の方などには、古風な雰囲気がうかがえます。


 地元の方に聞いてみた

 こんなふうに、あたりを観察していると、この石垣の上に住んでいる方が偶然出てこられました。
 
 思い切って、「こちらは、昔“新長谷寺”があったところでしょうか?」と尋ねてみました。

 すると、なんなく、そうですという返事。
 詳しく聞いていくと、かつて長谷寺があった場所は、のち民家が建っていたが、30年ほど前に分割され、現在では2軒の家が建っているといいます。
 もともと石垣に上がる道(つまり昔の新長谷寺の石段)は、西隣の学生アパートの道になるそうです。

 新長谷寺跡
  新長谷寺跡
 
 石灯籠の左に個人宅の門扉があり、その左の段々が昔の参道のようです。
 試みに上がってみると、学生アパートが数棟あって、行き止まりでした。

 もう一度、「花洛名勝図会」の絵を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 石垣、石段、石灯籠、新長谷寺への入口。
 なかなか、古い状態がよく残っています。

 また、画面左下端の土塀(武士がお辞儀し合っている上)も、そのまま残っているようです。

 新長谷寺跡

 ちなみに、この土塀の西方には、吉田神社の神官を務めた鈴鹿家の社家が続いていました。今でも、その姓の家が多く、重森美玲庭園美術館はその一邸です。

 こんな具合に、廃仏毀釈前の幕末には、南参道にお寺や末社が並び、大元宮などへの参拝に通ったのです。
 今となっては、時代の隔たりを感じさせます。

 ちなみに、この新長谷寺のあったところは、藤原山蔭の邸のあった場所とも伝えられています。

 ということで、お話は終わりといきたいところですが、もうひとつ疑問が残っていますね。
 廃仏毀釈で吉田神社から追われた新長谷寺は、その後どこへ行ったのか?

 しっかり今でも残っています!

 真如堂・新長谷寺

 真如堂・新長谷寺
  移転した現在の新長谷寺

 小さなお堂ながら、新長谷寺は残っていました。
 同じ神楽岡にある真如堂(真正極楽寺)。その山内にあったのです(本堂北西側)。
 いま洛陽三十三所観音の霊場となっています。

 考えてみれば、吉田神社と真如堂は、直線距離にして500mほどしか離れていません。
 移築するにも好都合だったのでしょう。
 真如堂の新長谷寺、あえていうなら“新・新長谷寺”といったところでしょうか。

 藤原山蔭が、奈良・長谷寺の観音に感得し、観音像を造立した話も興味深いのですが、余りに長くなりますので、またの機会に譲りましょう。




 新長谷寺跡

 所在 京都市左京区吉田神楽岡町
 見学 外観自由(石垣上は個人宅のため不可)
 交通 市バス「京大正門前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「京都坊目誌」(『新修京都叢書』所収)
 芳賀幸四郎監修『年表式日本史小事典』文英堂、1988年


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コメント

ブラボー!

古い絵から時代を紐解き、現代へと繋げる旅でしたね。も~、感動しました。続きを楽しみにしています。

しかし、廃仏毀釈運動とは反省すべき国策でしたね。一方的な価値観を押し付けられた民もそれに従い、長い歴史や文化を突然変えてしまうとは・・・誠に残念な歴史です。

ご愛読ありがとうございます

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

江戸時代の名所図会は、どれも面白いですね!
思いのほか、現地に忠実に書いているものが多いのです。そのため、現在と比較するのが大変愉しい試みになります。

また、いい場所を見付けて比べてみたいと思います。
引き続き、ご愛読お願い申し上げます。

    船越幹央
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