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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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堀川には素敵な石橋が架かっている





堀川の橋


 水が流れる堀川

 私が子供の頃、堀川には水が流れておらず、暗渠でした。それが近年は整備がされて、小川が流れるようになり、遊歩道になった川底を歩けます。

 一条堀川には、伝説に彩られた「戻橋」が架かっていますが、現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられたもので、橋としては余り興趣がわきません。
 それに対して、1本下流に架かっている中立売橋は、地味だけれど、とても興味深い石橋で一見の価値があります。

堀川の橋

堀川の橋

 石の擬宝珠がついた高欄。親柱には「堀川第一橋」と刻まれています。擬宝珠のてっぺんにも、菊形の飾りが彫り出されています。

堀川の橋

堀川の橋

 高欄も、控えめながら、きっちりデザインされています。

 ちなみに、道路面は石畳になっていますが、これは高度成長期にはアスファルトで覆われていたそうです。現在は、そのアスファルトをはがして、往時の石敷きを見せています。なかなか粋な計らいだと思います。


 明治6年に架けられた中立売橋

 この中立売橋は、明治6年(1873)に架橋されました。すでに140年も経っています! 親柱には、このように刻されています。

堀川の橋

 「京都府知事 長谷信篤/京都府参事 槙村正直/建築主任 京都府十二等出仕 中村孝行」

 長谷信篤(ながたにのぶあつ)は、京都府の初代知事です。慶応4年(1868)から明治8年(1875)まで在任しました。長谷のもとで参事を務めていた槙村正直(まきむらまさなお)は、二代府知事で、新京極を開いた人として知られています。工事を担当したのは中村孝行という技師のようですが、この人についてはよく分かりません。もちろん、石の加工や積み上げなどは石工による仕事でしょう。

 中立売通は禁裏(御所)から西に延びる通りです。寛永3年(1626)、後水尾天皇が二条城に行幸するという一大イベントに際して、幕府は中立売橋を架橋したといいます。
 江戸時代、幕府が管理・修繕を行う橋を「公儀橋」といいました。京都には、およそ100ほどの公儀橋があり、江戸には160~170程度、一方、大坂には12橋しかありませんでした。大坂は、町人が担う「町橋」が大多数だったのです。
 堀川では、この中立売橋や後で紹介する下立売橋が公儀橋でした。格式が高く、高欄があり擬宝珠を付けていたと「京都坊目誌」は記しています。

 小ぶりではありますが、半円のアーチをえがく石橋は、江戸時代から引き継がれた技術力の確かさを示しています。

堀川の橋


 なぞの煉瓦積みも……

堀川の橋

 この橋を南側から眺めてみると、このように水道管がたくさん見えます。
 なかでも、最も橋寄りにある水管橋は立派な造りです。

堀川の橋

 この基台は煉瓦造です。

堀川の橋 煉瓦壁(1)

 その下流にも、煉瓦壁が続きます。

堀川の橋 煉瓦壁(2)

 少し不審というか、無用な気がする擁壁です。

 実は、この壁、むかし市街電車(京都電気鉄道)が走っていた時代の橋台だったのです。

 写真の「煉瓦壁(1)」が市電が単線だった時代のもの、「煉瓦壁(2)」が複線になってからのものだそうです。それにしても「煉瓦壁(1)」の方は、幅が2m強くらいしかなくて、当時の市電も車幅が狭かったのだなぁと驚きます。
 明治28年(1895)9月、堀川の東側の通りの下立売-中立売間に市電が開通しました。5年後には、北野天満宮近くの下ノ森まで路線が延びました。おそらく、そのとき川を渡るために市電専用の橋が架けられたのでしょう。不確かですが、堀川に沿って北行してきた電車は、当然“直角”に曲がって橋を渡るわけにはいきませんから、転車台があったという話もあります。
 

 下立売にも石造アーチ橋が

 さらに、川底の遊歩道を歩いて行くと、下立売橋があります。

堀川の橋

 完全に架け替えられているようにも見えますが、実は橋の下に明治の遺構が眠っているのです!

堀川の橋

 石造のアーチがよく見えます。
 こちらは、中立売橋の翌年の明治7年(1874)に架けられました。「堀川第二橋」といいます。古くは、第一橋を「鶴橋」、第二橋を「亀橋」と呼んだともいいます。


 さらに伏見街道にも……

 この種の石橋は、ほかにも東山区・伏見区の本町通~伏見街道にも架けらえていました。一之橋、二之橋、三之橋、四之橋と北から順に、異なる川に架けられています。
 東山区の一橋小学校には、今は取り外された一之橋の高欄が保存されています。
 二之橋は、現在も現地に残されています。JR・京阪の東福寺駅の南側のガード下です。

伏見街道の橋

伏見街道の橋

 「伏水街道 第二橋」と読めますね。擬宝珠の形などは、中立売橋に似ています。川はなくなったので、地元の方たちが記念として保存されたものです。

 こちらは、第三橋。
 高欄に雷文が付けられていて、中立売橋の意匠と共通性が感じられます。

伏見街道の橋

伏見街道の橋

 擬宝珠の刻銘を見ると、こちらにも長谷信篤と槙村正直の名前があり、技師は木村某となっています。

 四之橋は、いわゆる直違橋(すじかいばし)で、川に斜めに架かっている橋です。伏見区の町名にもなっていて、藤森神社の北の方ですね。

 このように、京都市内にも明治初期の優れた橋梁が残されています。全国的には、長崎・熊本・鹿児島などが“石橋王国”で、もっと規模の大きな幕末の名橋が多数あります。しかし、百万都市の道路橋で明治初期のものが現役で使用されている例は、なかなか貴重といえるでしょう。
 いつまでも、現地で、現役で働いてくれることを期待したいものです。


堀川の橋 下立売橋の夕景




 中立売橋(堀川第一橋)

 *所在 京都市上京区東橋詰町ほか
 *見学 自由
 *交通 市バス堀川中立売下車、すぐ



 【参考文献】

 「京都坊目誌」1915年(『新修京都叢書 20』臨川書店、1970年)



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