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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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豊臣秀吉が築いた石垣を比べてみる(その1) - 伏見・指月城の巻 -

伏見




指月城石垣


 石垣の時代

 私たちは「お城」と聞くと、立派な天守閣と高い石垣をイメージしますね。
 このイメージに合う城郭が出来始めるのが、織田信長と豊臣秀吉の時代です。それまでの戦国時代の山城とは一変したので、専門家の間では「織豊期城郭」という呼び方もされています。

 信長の安土城が先鞭をつけ、秀吉の諸城が続きます。
 その特徴は、天主(天守)、石垣、瓦にある、という指摘もあるように、私たちの持つ“お城イメージ”が作られたのでした。

 今回は、その中から石垣をピックアップして、豊臣秀吉の築城を例にしながら見ていきたいと思います。


 秀吉の伏見城、その変遷

 2015年6月、京都市伏見区で、豊臣秀吉が築いた「指月城」の一部が発掘されたと報道され、大きな関心を呼びました。
 6月20日に行われた現地説明会には、2500人もの市民が詰め掛けたそうです。

 といっても、「指月城」って、いったい何と読むのでしょう?

 この名前、むしろ山口・萩城の別名として有名かも(読みは「しづき」)。
 伏見の場合、「しげつ」と言い習わされています

 昭和の模擬伏見城
  昭和の伏見城模擬天守

 秀吉が伏見に造った城といえば、「伏見城」であると思いますよね。
 でも、そう単純ではないようです。

 甥・秀次に関白職と聚楽第を譲った秀吉は、伏見に「隠居所」を造ります。文禄元年(1592)のことでした。
 これが、指月屋敷とされるもので、宇治川を望む地に造られた城郭風の邸宅でした。

 翌年、秀吉には実子・秀頼が誕生。これにあわせて、指月屋敷を改築して本格的な城郭・指月城とします。文禄3年(1594)頃には、ほぼ完成していたと考えられています。
 しかし、文禄5年(1596=慶長元年)閏7月、大地震が発生し、指月城は倒壊します。

 地震後、秀吉は、指月の北東にある木幡(こわた)山に、新たな城を造ることにしました。これが木幡山の伏見城です。
 現在の伏見桃山陵(明治天皇陵)や旧キャッスルランドなどを含む広大な城郭でした。

 慶長3年(1598)、秀吉はこの城で没します。その後、伏見城は徳川家康の支配下に入りますが、関ヶ原の戦い(1600年)に先立つ合戦で、豊臣方に攻められて落城、焼失してしまいます。

 関ヶ原の戦い後、勝利した家康は、焼失した伏見城の縄張りを生かして、城を再建しました。これが、徳川期の伏見城です。
 家康は、ほとんどの期間をこの伏見城で過ごしたため、江戸幕府というよりも「伏見幕府」と言えるくらいだ、という話もあります。
 2代将軍・秀忠、3代家光も、この城で将軍宣下を受けました。この城が廃されたのは、家光の将軍宣下のすぐ後、元和9年(1623)のことでした。建物や石材は、他所でリユースされ、また石垣などは徹底的に破却されたのです。

 つまり、

 指月屋敷 ⇒ 指月城 ⇒ 木幡山の豊臣・伏見城 ⇒ 木幡山の徳川・伏見城 ⇒ 廃城

 となるわけです。

 ちなみに、各所の言い伝えで、「伏見城」の建物などが移築されたと伝わっているケースがあります。けれども、指月城は地震で倒壊し、豊臣の伏見城も焼失したので、秀吉が造った伏見城が移築されたということは、理屈としては考えづらいでしょう。一方、徳川の伏見城なら、その建物が移築された可能性はあるわけです。


 発掘された伏見・指月城

 ということで、ひと口に、“秀吉の伏見城”と言っても、大きく分けると、指月(しげつ)と木幡山(こわたやま)の2期に分かれるわけです。
 先ごろ出土した指月城は、先に造られた方の城だったのですね。

 では、その遺構を見ていきましょう。

 指月城石垣
  指月城跡の発掘現場

 この写真は、発掘現場(伏見区桃山町泰長老)の東端を北から撮ったものです。
 この部分で、指月城のものと思われる石垣が発掘されました。

 指月城石垣
  石垣と堀が発掘された指月城跡

 南北に約36mにわたり、石垣が出土しました。

 指月城石垣
  石垣

 また、石垣の西側には堀もあることが分かりました。

 指月城石垣
  堀

 堀は、現状でも2m以上の深さがありますが、当時は3~4mあったのではないかと推測されています。
 その東に土を盛り、石垣を築いています。石垣は、最下段から1~2段だけ検出されました。おそらく、それより上の部分は、以前建っていた建物を造る際に壊されたのでは、と想像されます。

 指月城石垣

 指月城石垣

 石垣は、花崗岩や堆積岩などで構成されています。
 一見して分かる通り、近世城郭のような、きっちりとした切石を積み上げているわけではありません。割り石が少なく、多くの石が自然石です。それを野面(のづら)積みしています。

 大きな石の間に、こぶし大くらいの間詰め石を詰めています。
 石垣の背後には、裏込めとして多数の小石が入れられていて、排水なども配慮したものです。
 また、石は、どちらかというと短辺が外側に見える形で積まれています。

 そして、見えている面が平らになっているものも観察されます。この点は、秀吉の石垣を考える上で重要なポイントですので、チェックしておきましょう。

 写真では、1~2段しか残っていないので、やや迫力に欠けますが、これが何段も高く積み上がっていたら壮観でしょう。
 いずれにせよ、これまでほとんど謎だった指月城の遺構が確認できたことは、画期的です。
 地形的には、発掘現場の東方が小高くなっていますから、そこに天主があったのかも知れません。そうすると、この石垣と堀は天主を囲っていた重要な存在ということになります。


 木幡山の伏見城

 今回の関心事は、秀吉の石垣をいろいろと比較してみる、ということです。
 指月城に続いて造営された木幡山の伏見城ですが、今その大部分は伏見桃山陵の中に当たっています。つまり、見学は出来ないのです。

 2009年、歴史系の学会が立入り調査を行った際、石垣を見ることが出来たそうです。しかし、よく残っている箇所は僅かに2か所ほどで、ほとんどが破却されていたのでした。

 私たちが簡単に見られるのは、これでしょうか。

 伏見城残石

 伏見桃山陵の参道にある残石です。以前発見された20ばかりの石が、並べられています。

 伏見城残石
  木幡山伏見城の残石

 多くの石に、矢穴が施されています(矢印)。
 矢穴は、石を切り出したり分割したりする際に入れるもの。ここにノミを打ち込んでいけば、石が割れます。
 先ほどの指月城では、このような石はないわけですが、こちらでは多数観察されます。

 ちなみに、付近の桃山東小学校でも、復元石垣を見ることができます。

 指月城と比較するのに最も好ましいのは、たぶん聚楽第でしょう。
 また、大仏が据えられた方広寺の石垣も、秀吉の石垣の特徴を考える上で、とても役に立ちます。

 次回は、この2つの石垣を観察してみましょう。


 (この項、つづく)




 指月城跡

 所在 京都市伏見区桃山町泰長老
 見学 発掘調査終了後は埋め戻し(マンション建築予定)
 交通 近鉄「桃山御陵前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 現地説明会資料「伏見城跡(指月城)発掘調査」京都平安文化財、2015年
 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年


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