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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている

洛東




摩利支天堂の猪石像


 建仁寺の塔頭・禅居庵

 四条大和大路を下がると、西側にゑびす神社があり、その斜め向かいに禅居庵があります。今は「ぜんきょあん」と読んでいますが、江戸時代の史料などには「ぜんこあん」「ぜんごあん」とするものも多いようです。
 京都五山のひとつ、建仁寺の塔頭です。
 中国・福州から来日し、同寺の住持も務めた清拙正澄の退隠所として元弘年間(1331-1334年)に開かれました。敷地の東側に本坊があり、西側に摩利支天堂があります。自由に参詣できるのは摩利支天堂だけなので、今回のテーマも摩利支天堂にしましょう。


 唐門は明治初期に建てられた

 摩利支天堂は、南と西の2か所に門を開いています。
 しかし、幕末の史料、たとえば「新撰花洛名勝図会」(元治元年=1864)を見てみると、西側の大和大路沿いは石垣で、南側(当時は建仁寺境内だった)だけに門が設けられています。その門も、四脚門のような簡素な門だったようです。
 大和大路に門が開かれたのは明治時代のようで、南側の門が改築されたのも明治初期のことです。

摩利支天堂唐門 南門

摩利支天堂 西門

 写真上の南門は、唐門(平入りの平唐門)で、そこに重ねて唐破風を付けています。幕末・明治らしい意匠で、当時の人達の好みをよく表しています。

摩利支天堂唐門 唐門の彫刻

 こういった型にとらわれない自由奔放な波の彫刻も、時代を感じさせますね。


 摩利支天堂は室町後期の禅宗建築

摩利支天堂

 摩利支天堂です。二階建にも見えますが、一重裳階(もこし)付きの建物です。
 織田信長の父・信秀が天文16年(1547)に建てたとされます。

摩利支天堂

 上層は詰組。このあたりは室町後期のまま。裳階の部分は、享保13年(1728)に修理されているそうです。元禄、享保、安政、明治と何度も修理したり手を入れたりしています。

摩利支天堂

 このお堂には、清拙禅師が将来したという摩利支天像が安置されています。江戸時代にもよく知られていたようで、7、8寸の小さな像で、泥土で造られていると言われました。そして、摩利支天らしく7頭のイノシシに乗っているというのです。
 京都の人達に篤く信仰されていて、「恒に詣人多く、朝暮の香煙間断なし」というさまでした(「京都坊目誌」)。
 そのため、参拝するスペースを整備することも必要です。写真のように、お堂の前に突き出す拝所を接続しています。ここで、お線香やお蝋燭をあげたり、参拝したりできます。この部分は、幕末の安政3年(1856)にできたそうです。
 建物の竣工は室町後期(16世紀半ば)ですが、このように改変を受けながら現在の形が出来上がっています。


 イノシシがいっぱい!

 拝所の唐破風の部分には彫り物が見られます。その中央には……

摩利支天堂

 こんなイノシシが!
 松にイノシシ。目は玉眼。リアルとも滑稽ともとれる幕末の造形です。

 冒頭の写真も摩利支天堂の左右にあるイノシシ石像ですが、境内にいくつもイノシシ像が見られます。
 摩利支天の乗り物はイノシシですから、それも当然? でしょうか。

 実は、先ほどの「新撰花洛名勝図会」を見てみると、境内にイノシシ像は特に見られず、お堂の左右にも普通の石灯籠が立っています。
 いつから、こんなにイノシシが増えたのか? やはり、明治以降なのでしょうか。

 さらに、拝所にはこんな額もありました。

摩利支天堂いのしし額

 一瞬、何が描いてあるか分かりませんが、よく見ると数百匹のイノシシが !! 
 右上の方向に猪突猛進している…… ちょっと怖いですね。

摩利支天堂いのしし額
 
 このイノシシ画、いつ誰が奉納したのか?

摩利支天堂いのしし額

 明治21年(1888)9月、下京区・平居町の鈴木りつらが奉懸したものです。
 額縁には、鈴木りつのほか、竹治郎、りう、はつ、と3人の名前が書いてあります。

 ここで少し考えたのです。
 この4人の関係は、どういうものだろうか、と。

 おそらく全員が鈴木姓。ということは、上に書いてある「りつ」がお母さんで、息子が「竹治郎」、その妻が「りう」、その娘が「はつ」という見立てです。
 でも、この想像に確証はありません。


 「鈴木りつ」とは誰か?

 実は、摩利支天堂には、もうひとつ興味深いものが奉納されています。

摩利支天堂灯籠

 西門の左右に立っている石灯籠。胴部分の刻銘により、明治30年(1897)3月に建てられたことが分かります。そして、奉納者は……

摩利支天堂灯籠台座

 鈴木りつと、その家族なのです。
 ここには、「七条新地 平居町/鈴木りつ/鈴木竹次郎/同 りう/同 はつ/同 りせ/同 うた」、及び別姓の4人の名が記されています。

 いったい彼女らは、誰なのか?

 まず住所です。
 七条新地、そして平居町まで記されていますので、地名辞書などで容易に分かります。平居町は、河原町通の五条通を下がったあたりです。ここは江戸時代から、五条橋下などといって遊所でした。明治5年(1872)の「京都府下遊廓由緒」によると、七条新地の出稼地だったことが分かります。
 明治以降、南の六条、七条辺の遊所と一体化し、七条新地と呼称されます。
 京都の年配の方なら「五条楽園」という呼び名をご存知だと思いますが、ここがそうなのです。

 とすれば、鈴木りつの家も、七条新地の平居町で明治中期に「貸座敷」を営んでいたのではと想像がつきます。つまり、芸娼妓を置いてお客を取る家ですね。
 鈴木りつの名前は、明治・大正の人名録や商工名鑑などでも調べられませんでした。果ては電話帳(電話番号簿)まで調べましたが不明です。
 最後に、明治28年(1895)刊の「京都土産」という書物にたどりつきました。京都のさまざまを見立て番付で表した一書ですが、なかに「遊廓一覧」というものがあり、次のように記されていました。

 「○七条新地 / 貸座敷 百二十九軒 / 芸妓 二十三人 / 娼妓四百二十一人 / 屋形 十五軒 / 著名貸座敷 / 友月楼 鈴木 柴田楼 勢国楼」

 この「鈴木」が、鈴木りつの家なのではないでしょうか。

 電話番号簿を見ていて分かったのですが、貸座敷の主は女性がほとんどです。つまり、鈴木りつが貸座敷「鈴木」の経営者なのでしょう。
 りつ以下、6人の鈴木姓の人達。私の推理では、彼女らはもちろん家族で、りつが母、息子(娘)夫婦が竹次郎(竹治郎)とりう、その娘がはつ、りせ、うたの3人です。額を納めた明治21年から石灯籠を建てた明治30年までの9年間に、りせ、うたの2人が生まれたのです。


 粋筋も信心する摩利支天

 窪田修佐「京都繁昌記」(明治29年=1896)は、「美人」という項を立てて、京都の花柳界を紹介。そのなかに、こんな詩が載せられています(原漢文)。

  夜禅の袢纏 軽く肩に掛け
  駒屣 石に触れて音は戞然
  大和橋畔 朝湯の戻り
  歩を移して摩利支天に詣す

 そして「蓋(けだ)し舞妓の開運出世を建仁寺に祈るを謂ふなり」と記しています。
 
 むずかしい漢詩の意味は、およそ、

 夜の業をあけて袢纏を肩に掛けて歩くと、駒下駄が石に音を鳴らす。
 大和橋のほとり朝風呂の帰り道、歩を進めて摩利支天に詣る。

 くらいの意味で、要は、夜の仕事を終えた芸妓が朝湯の帰りに建仁寺の摩利支天堂にお参りする、という意味です。
 摩利支天は、戦国武将に信仰されていたように、勝運祈願もあったのですが、また開運・出世を願う人達の願掛けもありました。花柳界の信仰が篤いのは京都だけでなく、江戸(徳大寺)などでも同じだったようです。

 貸座敷を営む鈴木りつもまた、芸娼妓たちと同じように、商売の繁昌を願って、この摩利支天にイノシシ額や石灯籠を奉納したのでしょうか。それとも、名を連ねた家族の安穏と幸福を願って、奉納を行ったのでしょうか。




 禅居庵(摩利支天堂)

 *所在 京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町
 *拝観 境内自由
 *交通 京阪電車祇園四条下車、徒歩10分



 【参考文献】
 「新撰花洛名勝図会 東山之部」1864年(日本国際文化研究センター ウェブサイト)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書 10』臨川書店、1985年)
 「京都繁昌記」1896年(同上)
 「京都坊目誌」1915年(『新修京都叢書 20』臨川書店、1970年)
 「京都の文化財 第14集」京都府教育委員会、1997年
 『日本の近世社寺建築調査報告書集成4 近畿地方の近世社寺建築2 京都(1)』東洋書林、2002年

 


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